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七章
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藍は何も言わなかった。
ただ辛そうな顔をして永絆から身体を離すと自室へ篭ってしまった。
――それが二日前の話だ。
その日から藍とは顔を合わせていない。自室に篭った藍に話しかけても返事はなく、永絆は久々に自分の家で一人で眠った。
大学へ行けば会えるかと時間を見計らって待ってはみたものの、藍は姿を現さず溜息を吐きながら講義を受けた。
きっと藍は怒っているのだろう。
紫ノ宮家にΩである永絆を認めて貰うために両親を説得していたのに、その永絆から番にはなれないと言われたのだから。
しかもそれが身分が違うせいではなく、性的な問題だと言うのだから納得がいかないはずだ。
永絆を大切にしているからこそ、己の欲だけで振り回したくないと思って藍は手を出してこなかっただけなのに。
会いたくないと避けられて当然だ。それでも会ってきちんと話をするべきだ。
茉莉花が現れなければ今もまだ藍の側で穏やかに過ごしていた。けれど現状を知ってしまったからには側にいても辛いだけだ。藍には自分勝手だと思われるだろうが、これ以上一緒にいる事はお互いにとって良くない。
藍がどんなに説得しようとも紫ノ宮家はΩを認めたりしない。そういう一族なのだから仕方ない。諦めるしかない。
「諦められないけど」
ポツリと呟いて携帯を手にした。
諦められなくてもやらなければいけない事がある。
こんな中途半端な終わり方では藍は自分に対してモヤモヤした気持ちを残してしまうだろうから。きっちりと終わらせなければ。
藍の部屋に行ったのはそれからまた二日経ってからだった。
合鍵を預かっていたのでそれで中に入り、玄関に藍がいつも履いている靴があるのを確認してから一緒に来た藤とリビングへ進んだ。
リビングに藍の姿はなく、自室にいるのだろうと部屋の扉をノックする。
中からガタガタと大きな音がして直ぐに藍が扉を開けた。
「永絆……」
慌てていたのか積まれて置かれていた本が崩れて散乱しているのが隙間から見えた。
「藍、あの……」
藤の事を紹介しようと口を開いた瞬間、思い切り引き寄せられ抱き締められた。それは痛いほど強い抱擁で、それと共に漂ってくる藍の匂いに一瞬うっとりしてしまいそうになった。
「大学で見かけないから心配した……」
冷静になろうと話し掛けると藍の腕に僅かに力がこもった。
「藍……話があるんだ」
強く抱き締められた腕からゆっくり離れると後ろで待機していた藤を見た。藍も視線を藤に移して怪訝な顔をする。
「高校の友達。この間会ったって言ってた、藤だよ」
「どうも」
余所行きの笑顔を貼り付けて藤が会釈をする。その間も藍はただ藤を訝しげに見ているだけだった。
「……永絆、オレも話があるんだ」
永絆の肩を掴むと一度離れた身体をまた寄せてくる。
「なに?」
藍の表情は切羽詰まった様子で、自分の部屋に戻っていた数日に何かあったのかと心配になった。
「永絆の言ったことをずっと考えてたんだ。オレはまた永絆の事をちゃんと考えずに、紫ノ宮に認めさせれば問題ないと思っていた。もっと永絆と話し合うべきだった」
「……それをずっと考えて、大学にも来なかったの?」
部屋に閉じ篭って、声を掛けても出てこなかったのは藍の方で、一人取り残されたまま藍の出方をずっと待っていた。大学に行けば会えると思っていたのに藍は閉じ篭ったまま、紫ノ宮家をどうするかばかり考えていた。
「αって頭が良いのに、人の感情には疎いんだね」
考えて欲しかったのは、そんな事じゃない。
二人一緒の未来なんてないんだと納得してもらいたかった。藍に囲われる生活などしたくないと分かって欲しかった。
紫ノ宮の事をいくら話し合っても藍と共に生きてはいけない。藍には茉莉花か、又はもっと優秀なαと結婚するのだから。その事実は変えられない。
例え藍が紫ノ宮を捨てても、どんな僻地に逃げても連れ戻される。
散々考えて藍との未来はないと答えを出した。覆す事はない。
「オレは、今、一緒に居られる僅かな時間に沢山愛されたかった。沢山抱かれたかった。それだけで良かったんだ」
藍の声や温もり、鼓動の速さ、肌が重なりあった時の幸福感。混じりあえた瞬間の愛しさ。息遣い。狂おしい程の花の香り。
その愛しい全てを許されるタイムリミットまで沢山感じていたかった。
「番になれないなら、運命なんて意味が無いんだよ、藍」
肩を掴む手から離れて、永絆は藤の元へ行くと藤の手を取り握りしめた。
「オレの話、聞いて」
二人で居られる時間は終わった。
藍には勝手な話だと思われるだろう。それでもキチンと終わらせなければ、お互いのこれからにいい影響はない。
「藤と番になるんだ」
「……何を……」
「藍とはどう足掻いても番えない。だけど藤は……オレの事を理解して大切にしてくれる。オレを……オレを何度でも抱いて満たしてくれる」
藤が少し困惑した視線を投げかけて来たけれど気付かないフリをした。
実際には藤に抱かれた事など一度もない。身体を捧げたのは後にも先にも藍だけだ。
これは藍が永絆の気持ちの変わりの早さに嫌悪させる為の茶番だけれど、憎まれても恨まれてもこの茶番をやり通すと決めていた。
「藤と番になる」
もう一度言って、藍をじっと見た。視線を逸らせば藍に嘘だとバレる気がした。
「……オレは……どうなる……」
「藍……。藍はどうもならないよ。今までと変わらず紫ノ宮藍として生きるだけだよ」
出逢う前の当たり前だったその生活に戻るだけで何も変わりはしない。婚約の話だって今ならまだ一時の気の迷いで済まされる。
「オレは永絆と……」
「藍」
言い聞かせるように少し強い口調で藍の言葉を遮ると、永絆は藤の手を強く握った。
「夢の時間は終わったんだ。最初から、オレたちは番えない運命だったんだよ」
番えないのに、どうして藍が運命の相手だったのだろう。
番えない運命に振り回される運命の番だなんて、馬鹿げた話だ。
「永絆っ……それでもオレはっ……」
「藍、オレは囲われる気もないし、番になるならいつか子供だって欲しいんだ。幸せになるって菫さんと約束した。藍とは幸せにはなれない」
菫の名前を出せば、藍が何も言えなくなる事はわかっていた。
番ったαを一生思い続けて儚くなった菫の思いがどれだけ重要か、藍も知っていたから。
それきり藍は何も言わず立ち尽くしていた。まるで感情がなくなったかの様な表情をしたまま。
後ろ髪を引かれる思いで永絆は部屋に残してあった少しの私物を鞄に押し込めて藤と共に部屋を出た。
一度だけ振り返って見た藍は微動だにせず、本当は何も考えずに今すぐ藍に抱き着きたい衝動を抑えた。
これでいい。藤を利用したのは申し訳ないが、藍と離れるには他に番う相手がいると言った方が説得力が増す。藍も永絆の幸せを考えればこのまま身を引いて紫ノ宮の跡取りとして気持ちを切り替えていけるはずだ。
ただ、この全身を切り裂かれる様な痛みは暫くは消えないだろう。
魂で惹かれあった運命の相手から離れるのだから、半分死んだのと同じだ。
出来ることなら藍が、そんな痛みを感じていなければいい。もしも痛みを感じていても、早く癒えて欲しいと願う事しか出来ない自分をどうか許さないで。
憎んでも、恨んでも、記憶から消去しても構わない。
藍が、藍の世界で胸を張って生きていけるのなら。藍が幸せな家庭を築けたなら。
それでもう充分、自分も幸せなのだから。
藤の手を引いて外に出ると、気持ちとは裏腹に青空が広がっていた。
永絆が持っていた荷物はいつの間にか藤が代わりに持っていて、手を引いて歩いていた筈が逆に手を引かれて歩いていた。
心の中が真っ白になっていた。藍の部屋から出て青空を見上げた後、何処をどうやって歩いていたのか思い出せなかった。
「そんなに泣くなら玉砕覚悟で彼と番になれば良かったのに」
どれだけ歩いたのか、見知らぬ道の途中で藤が足を止め永絆を振り返ってそう言った。
その言葉で初めて自分が泣いている事に気が付いて慌てて涙を拭うと、藤がふぅと溜息を吐いた。
「ホントにこれでいいの? 今ならまだ戻れるよ?」
一瞬だけ、藍の元に戻りたいという気持ちが過ぎった。そしてそれをすぐに打ち消した。
「藤、巻き込んでごめん……」
彼の優しさに甘えて関係ないのに巻き込んでしまったことを悔やむ。けれどそれくらい言わなければ自分もまた有耶無耶にして藍の傍に居続けてしまう。
二度と戻れないように自分を追い詰めなければ、弱い心は運命に逆らえずにまた藍に惹かれてその中に閉じこもろうとする。
「俺は構わないよ、永絆の為になるなら。でも、永絆が泣くのは嫌だよ」
「……うん、ごめん……」
「謝らなくていいよ」
「……ごめん」
涙を止めたいのに涙腺が壊れてしまって次々と雫が落ちていく。
見兼ねた藤がまた手を引いて通りかかった公園のベンチに永絆を座らせた。近くにあった自販機でペットボトルの飲み物を買い、蓋を開けてから永絆にそれを渡す。
永絆は暫くそのペットボトルを握りしめたまま、涙を流し続けた。
「ねぇ、永絆、あのさ」
「……うん?」
やっとペットボトルを口にして水分補給をした永絆の隣に腰掛けた藤が言いづらそうに口を開く。
「永絆さえ良ければ、俺とホントに番にならない?」
「え……?」
永絆となら番になってもいいと藤は前に言ってくれた。でもそれは社交辞令だと思っていた。
「うちは一般家庭でめんどくさい事なんて何もないし、永絆は昔からよく知ってる間柄だし……俺となら、そんなに泣かなくて済むよ?」
どういうつもりで言ってるのだろう。藍との事を同情して言っているのだろうか。それとも本気で番いたいと思っているのだろうか。それはつまり、友情以上の好意が藤にあるという事なのだろうか。
泣き過ぎてよく回らない思考では藤の気持ちを汲み取る事は出来なかった。
ただ、藤の優しさにこれ以上甘える訳にはいかないとは思った。
「藤、あの……」
「今すぐじゃなくていい。ゆっくり考えて」
「藤……でも……」
時間を掛けて考えても藍への気持ちが変わる事はない。それは運命という深い絆があるから。
そんな気持ちを残したまま藤の優しさに凭れ掛かるのは、藤に失礼だ。
「永絆が彼を好きなままでも俺は構わないよ。でもきっと、俺となら永絆は穏やかに生きていける。それだけは約束出来る」
藤の番になれば、どんな未来が待っているかを考えた。
αもΩも分け隔てなく接する藤の隣にいると、自分がΩである事を忘れられた。藤がαである事も忘れていられた。いつも優しい笑顔で話しかけてくれた。藤が居たから高校生活を楽しく過ごせた。
だからきっと、番になったら藤はそれまで以上に優しく接してくれるだろう。
大切にしてくれる。番以外に手を出したりもしない。菫が望んだような幸せを与えてくれる。番にするなら理想的な相手だ。
今は友情でも永く一緒に過ごしていけばいつか愛情に変わるかもしれない。それは燃えるような恋ではないかもしれない。苦しくて切なくて、でも狂おしいくらい愛しい感情ではないかもしれない。
それでも藤となら上手くやっていけそうな、そんな気がする。
「でも、オレ……藍の事を忘れたり出来ないよ……」
いつか恋心は風化していっても、彼との出逢いの衝撃はいつまでも忘れはしない。目が合った瞬間の、強烈な引力は未だに記憶に鮮明に残っている。
いくら藤がそのままで構わないと言っても、藤の気持ちに応えられないまま長く一緒に居続ければ罪悪感でいっぱいになる。仮に藤を好きになったとしても、心の奥にはいつも藍がいる。
それはまるで解ける事のない呪縛みたいに永遠に在り続ける。運命の番とはそういう関係なのだ。
「藤に甘えたら楽だし、泣かないでもいいかもしれない。でも……考えられないんだ。藍以外と番う事も出来るのに、藍以外と番になる気にならないんだ……」
自分でも馬鹿だと思う。黙って藤に凭れてしまえばいいのに。
けれどどうしても、この項を噛むのは藍じゃないと嫌なんだ。
「そっか、それなら仕方ない。でも忘れないで。俺はいつでも永絆の事を思ってる。幸せになって欲しいし、出来るなら幸せにしてやりたい、俺が。だから……」
一つ息を吐いて、永絆の頭をポンポンとすると藤は無理やり笑って見せた。
「永絆の気持ちが変わったら、いつでもおいで。俺はいつでも待ってるから」
「……ありがとう……」
切なくて涙がまた溢れた。
藤以上にいい人なんてもう二度と出会えないかもしれない。Ωじゃなく、一人の人間として認めてくれた大切な人。
いつか彼の優しさに甘えて手を伸ばす事があったら、その時は藍の事は全て過去にして捨ててしまおう。それが彼に対して出来る精一杯のお返しだ。
***
携帯には藍からの着信が引切り無しにあって、その全てを永絆は無視し続けた。
大学へ行けば何処かでばったり会ってしまうかもしれないと思い、藍が講義を受ける日は大学を休んだ。あまり休み過ぎると良くないのは分かっていたが今はまだ藍には会えない。
もし会ってしまえば折角の決心が鈍りそうで怖かった。
藤はあの日以来、毎日一回は連絡をくれた。藍の着信で埋め尽くされる携帯の履歴の中に藤を見つけるとやるせない気持ちになる。
結局、誰も選ぶ事が出来ず全部無理やり拒んで終わらせた。
これが自分勝手な我儘なのは百も承知で藍も藤も傷付けた。そんな自分が幸せになれるだなんて思ってはいない。だからせめて二人には自分の事など忘れて幸せになって欲しいの祈った。
菫の月命日に毎月、菫が好きな花を持って墓参りをする。今日も大学で講義があったけれど藍に会いたくなくてここに来た。
きっと菫は呆れているだろう。
この場所で藍に「連れて行って」と告げた時に見た菫の幻は優しく笑っていた。己の感情に素直に従った永絆を見送ってくれた。
けれど今はどうだろう。溜息を吐きながら「馬鹿な子だね」と言っているかもしれない。それでも菫は暖かく頭を撫でてくれるのだろう。
無性に菫に会いたくなって花を活けた後、墓石に触れた。骨壷が納められているだけの冷たい石の感触にまだ菫を喪った喪失感が消えていないのを実感した。
「永絆」
不意に呼ばれた名前に振り返る。
一番会いたくなかった相手が花束を持って立っていた。
「藍……」
藍は永絆から視線を外し、墓の前まで来ると持っていた花束を墓前に置いた。永絆が既に活けた後の花を見て、その花に手を伸ばすと花弁を一つむしり取った。
ここに藍が来る事を全く予想していなかった訳ではない。けれど大学の講義がある時間ならば鉢合わせしないと思っていた。
藍が本気で自分に会いたいと思っていれば家を訪ねて来るだろうし、他にも会う方法はいくらでもあったから。
「永絆」
「……なに……?」
永絆を真っ直ぐに見る藍の目は少し怖いくらいで、むしり取った花弁を風に舞わせた手がこちらに伸びてきたのを肩をビクつかせて構えてしまった。
藍を怖いだなんて思ったのは初めて逢ったあの日、無理やり犯されそうになった時だけだ。あの時は藍の理性が勝って最悪の状況は免れた。
「まだ」
伸びてきた手は永絆の首筋をなぞり、項へと回された。
項に触れられた瞬間、ゾクリと全身に寒気が走り凍りついたように動けなくなった。
「アイツとは番ってないな?」
低い声で言われ、永絆は小さく頷いた。
項に伸びた手がそこに番の痕がないのを確認するかのように滑る。
「永絆は、オレの番だ」
グイッと項を掴まれ引き寄せられ、体がよろけて転びそうになる。それを体で支えた藍は永絆の手首を強く握り引っ張る様に強引に歩き出した。
「藍っ、待ってっ……手、痛いっ……」
痛いと何度も訴えたが藍は握った手を少しも緩めず、永絆にも振り向かずに早足で歩く。何度か足がもつれて転びそうになるのを堪えて付いていくと駐車場に着き、助手席に乱暴に押し込められた。
やっと解かれた手首には藍の手の跡が赤く残っていて、まるで手枷のようだと永絆は思った。
運転席に座った藍がエンジンをかける。横顔を見ると険しい顔で前方を見据える藍に、何と話しかければいいか分からず、車が発進した後も口を噤んでいた。
永遠に続きそうな沈黙の中、車窓から外を眺める。藍の部屋に行くのだろうと予想していたが、車はどんどんマンションとは違う道を進んで行った。
「何処にいくの?」
一時間程走って、不安になった永絆が沈黙を破って訊ねた。藍は永絆の問いには答えず、一瞬だけ永絆を横目で見ただけだった。
「……ねぇ、帰りたいんだけど」
来たこともない道を延々と走る事に不安が増した。藍が何を考えているのかも分からず、同じ車内にいるのも苦痛に感じた。
「藍、ねぇ、帰らせて……」
ただ意味もなく走らせている様には見えなかった。しっかりとした目的地があって、そこに向かっている気がした。そこがどんな場所なのかは予想出来なかったけれど、すぐに引き返さなければ後悔すると本能が警告音を鳴らしていた。
「藍、ねぇ……藍っ」
「もうすぐ着くから黙って」
冷たく言われ永絆は魔法にかかったみたいに声を出せなくなった。これ以上、藍の機嫌を悪くしたら良くないと察して押し黙った。
もうすぐ、と言った割には車はどんどんと進み寝不足だった永絆は車の揺れが心地よくなりいつの間にか眠ってしまっていた。藍を怖いと感じ警戒していたはずなのに、どうしても藍との僅かに過ごした時間が恋心を膨らませて、漂ってくる藍の匂いや息遣いに安心してしまう。
夢の中では二人仲良く並んで過ごせるから、眠る行為は切なくて起きた時に堪らなく哀しくなる。きっとまた目が覚めたら哀しい現実が待っている。だからもう少しだけ、幸せな夢を見させてほしいと願わずにはいられなかった。
バタンと音がして目が覚めた。
運転席にいた藍が車から降りてドアを閉めた音だった。藍は助手席側に回り、ドアを開けるとまだ少し寝惚けたままの永絆の手を取り車から降ろした。
目を擦りながら周りを見渡すと地下駐車場らしく、他にも何台か車が停まっていた。
「藍……ここ何処?」
携帯を取り出し時刻を確認すると夜になっていた。何時間も車の中で同じ姿勢でいたせいで体が痛い。
「これはいらない」
持っていた携帯を藍に取られ、代わりにその手を握られると地下駐車場から上の階に続くエレベーターに乗せられた。何処かのホテルかとも考えたが受付も済ませていないし、エレベーターの内装がホテルのものとは違い張り紙一枚もされていなかったのでその線は消えた。
高層マンションだと分かったのはエレベーターの階数表示と、エレベーターを降りた先にあったいくつものドアに付けられた無記名の表札からだった。
藍に引っ張られて一番奥の部屋のドアの前まで行く。どの表札も全て無記名でこの階に人が住んでいるのか分からなかった。
藍が鍵を開けて中に入り、リビングへと続くドアを開ける。そこには家具は一つもなく、人が住んでいる様には見えなかった。
更に奥にあるドアへと引っ張られて中に入る。抵抗する事も忘れて藍のされるがままに動く自分に躊躇った。自分から離れたくせに今一緒に居れる事が、不安より勝っていた。
奥の部屋は寝室で、何故かこの部屋にだけ家具が置かれていた。家具と言っても真新しいベッドが一つだけで他には何も無い殺風景な部屋だった。
「藍、ここは何なの?」
「今日からオレ達はここで暮らす」
永絆から取り上げた携帯を手にすると電源を落とした藍。そしてそれをフローリングの床に落とした。
カシャンと無機質な音が部屋に響く。壊れはしなかったが拾い上げる事はやめておいた。部屋が殺風景なせいか寒さを感じていた。
「暮らすって……大学は? それにオレは藤と……」
「永絆は」
永絆の言葉を遮って藍は永絆の頬に触れた。藍の目があまりにも哀しそうに見えて動けなかった。
「どんなにオレが永絆の不安に感じている事を取り除いても……望む事全てを叶えても……オレから離れようとする」
「それは……」
藍が必死で番になれるように動いていた事は知っている。本気で番うつもりだったのも。だけど藍には紫ノ宮がある。跡を継がなければいけない。そして子孫を残さなければいけないのだ。
「なのに簡単にオレの車に乗る。抵抗しようと思えば逃げられたのに」
確かにきつく手首を握られてはいたが車内では離されていた。信号待ちの瞬間に逃げる事も出来た。それをしなかったのはほんの少しだけ、藍と同じ空間で過ごしたかったから。
「他の奴と番うと言ってるのに目の前で無防備に寝たりする。部屋まで簡単についてくる。オレに心を許したまま、ここにいる」
図星だった。
藍を怖いと思った反面、安らぐ自分がいた。車内の密閉された空間に充満する藍からの花の匂いは堪らなく心地良くて緊張も解れてしまう。
藍を思う気持ちは一欠片も減りはしていない。
「永絆が逃げたり抵抗したら諦めようと考えた。でもここまで付いてきてくれたら、絶対に離さないと決めたんだ。永絆が例え、どんなに嫌がっても」
頬に触れていた手がするりと滑り、永絆の項を撫でた。
「永絆、発情期なんかもう関係ない」
「え……?」
「この部屋でずっと永絆を抱き続けて、何度も項を噛む。誰にも邪魔はさせない。ここはオレだけしかしらない部屋だから」
横抱きにされて慌てているうちにベッドに寝かされる。スプリングがきいて身体が何度か揺れた。そこに藍が、永絆を跨ぐようにして座る。
「何度でも噛んで、発情期になったら番になろう。もう周りなんてどうでもいい。オレは永絆が居れば何もいらない。他の奴と番になんかさせない」
「藍……」
藍の目は本気だった。永絆のシャツのボタンを一つ一つ丁寧に外していきながら、何度も永絆の名前を呟いた。
永絆は金縛りにあったように動けないまま、シャツのボタンを全て外し終えた藍が永絆の胸に顔を埋めるのを受け入れ、そっと藍の頭を腕で包み込んだ。
彼にここまでさせたのは自分なのだと思うと抵抗も文句も何も出てこなかった。
ここまでするくらいに愛されているのだと知り、目頭が熱くなった。
こんな彼を拒むだなんて出来やしない。心底惚れた相手なのだから。
だけどこの部屋にずっといるなんて事は無理だ。二人して音信不通になれば紫ノ宮家の人間が大騒ぎして藍を探しに来るだろう。出来れば大事にはしたくない。
藍を今、この部屋で受け入れて藍の気の済むまで抱き合って、項も好きなだけ噛んでくれて構わない。どうせまだ発情期ではないし、それだって最近は正常に来ていない。
一晩、藍の望むがままに愛し愛されたら藍も落ち着いて考え直し、帰ろうと言うかもしれない。言わなくても自分が柔らかく説得すれば聞き入れてくれるはずだ。
「永絆……二人だけで……ずっと一緒にいよう……」
少し哀しげな口付けを交わして、永絆は瞳をゆっくりと閉じた。
藍の言葉に答えはしない。一緒に居られない事は分かっている。イエスと答えれば嘘になるし、ノーと答えれば藍を傷付ける。だから答えることは出来ない。
「永絆、好きだ。誰よりも、何よりも。こんなに永絆でいっぱいで、他に欲しいものは何も無いんだ」
永絆の肌に口唇を這わせながら、藍は切なく甘い言葉を囁く。
目を閉じたまま口唇の感触と藍の声を聴いているうちに自然と力が抜けて、頭がぼうっとしてくる。
心地のいい痺れが身体を走る。藍の触れた先から流れてくる深い愛情に溺れて、深く深く、海よりも深い場所までゆらゆらと落ちていく。沈んでいく。
「藍……藍……大好きだよ……藍……」
無意識に零れた言葉は、けれど何よりも純真な気持ち。
藍の口唇が、手が、骨張った指が、輪郭を描くように永絆の身体を流れていく。
今だけは、何もかも忘れてこの運命の人の愛撫に身を任せよう。そしてこの身体の中に一生忘れられない熱を残してほしい。
「藍……藍……あい……」
肌に散らされていく紅い痕を指で辿る。数日で消えてしまうこの痕の場所、一つ一つを覚えていたい。例え身体から消えても、記憶にだけはしっかりと残しておきたい。
「藍……」
呼ぶ声は掠れて空«くう»に消えた。
ただ辛そうな顔をして永絆から身体を離すと自室へ篭ってしまった。
――それが二日前の話だ。
その日から藍とは顔を合わせていない。自室に篭った藍に話しかけても返事はなく、永絆は久々に自分の家で一人で眠った。
大学へ行けば会えるかと時間を見計らって待ってはみたものの、藍は姿を現さず溜息を吐きながら講義を受けた。
きっと藍は怒っているのだろう。
紫ノ宮家にΩである永絆を認めて貰うために両親を説得していたのに、その永絆から番にはなれないと言われたのだから。
しかもそれが身分が違うせいではなく、性的な問題だと言うのだから納得がいかないはずだ。
永絆を大切にしているからこそ、己の欲だけで振り回したくないと思って藍は手を出してこなかっただけなのに。
会いたくないと避けられて当然だ。それでも会ってきちんと話をするべきだ。
茉莉花が現れなければ今もまだ藍の側で穏やかに過ごしていた。けれど現状を知ってしまったからには側にいても辛いだけだ。藍には自分勝手だと思われるだろうが、これ以上一緒にいる事はお互いにとって良くない。
藍がどんなに説得しようとも紫ノ宮家はΩを認めたりしない。そういう一族なのだから仕方ない。諦めるしかない。
「諦められないけど」
ポツリと呟いて携帯を手にした。
諦められなくてもやらなければいけない事がある。
こんな中途半端な終わり方では藍は自分に対してモヤモヤした気持ちを残してしまうだろうから。きっちりと終わらせなければ。
藍の部屋に行ったのはそれからまた二日経ってからだった。
合鍵を預かっていたのでそれで中に入り、玄関に藍がいつも履いている靴があるのを確認してから一緒に来た藤とリビングへ進んだ。
リビングに藍の姿はなく、自室にいるのだろうと部屋の扉をノックする。
中からガタガタと大きな音がして直ぐに藍が扉を開けた。
「永絆……」
慌てていたのか積まれて置かれていた本が崩れて散乱しているのが隙間から見えた。
「藍、あの……」
藤の事を紹介しようと口を開いた瞬間、思い切り引き寄せられ抱き締められた。それは痛いほど強い抱擁で、それと共に漂ってくる藍の匂いに一瞬うっとりしてしまいそうになった。
「大学で見かけないから心配した……」
冷静になろうと話し掛けると藍の腕に僅かに力がこもった。
「藍……話があるんだ」
強く抱き締められた腕からゆっくり離れると後ろで待機していた藤を見た。藍も視線を藤に移して怪訝な顔をする。
「高校の友達。この間会ったって言ってた、藤だよ」
「どうも」
余所行きの笑顔を貼り付けて藤が会釈をする。その間も藍はただ藤を訝しげに見ているだけだった。
「……永絆、オレも話があるんだ」
永絆の肩を掴むと一度離れた身体をまた寄せてくる。
「なに?」
藍の表情は切羽詰まった様子で、自分の部屋に戻っていた数日に何かあったのかと心配になった。
「永絆の言ったことをずっと考えてたんだ。オレはまた永絆の事をちゃんと考えずに、紫ノ宮に認めさせれば問題ないと思っていた。もっと永絆と話し合うべきだった」
「……それをずっと考えて、大学にも来なかったの?」
部屋に閉じ篭って、声を掛けても出てこなかったのは藍の方で、一人取り残されたまま藍の出方をずっと待っていた。大学に行けば会えると思っていたのに藍は閉じ篭ったまま、紫ノ宮家をどうするかばかり考えていた。
「αって頭が良いのに、人の感情には疎いんだね」
考えて欲しかったのは、そんな事じゃない。
二人一緒の未来なんてないんだと納得してもらいたかった。藍に囲われる生活などしたくないと分かって欲しかった。
紫ノ宮の事をいくら話し合っても藍と共に生きてはいけない。藍には茉莉花か、又はもっと優秀なαと結婚するのだから。その事実は変えられない。
例え藍が紫ノ宮を捨てても、どんな僻地に逃げても連れ戻される。
散々考えて藍との未来はないと答えを出した。覆す事はない。
「オレは、今、一緒に居られる僅かな時間に沢山愛されたかった。沢山抱かれたかった。それだけで良かったんだ」
藍の声や温もり、鼓動の速さ、肌が重なりあった時の幸福感。混じりあえた瞬間の愛しさ。息遣い。狂おしい程の花の香り。
その愛しい全てを許されるタイムリミットまで沢山感じていたかった。
「番になれないなら、運命なんて意味が無いんだよ、藍」
肩を掴む手から離れて、永絆は藤の元へ行くと藤の手を取り握りしめた。
「オレの話、聞いて」
二人で居られる時間は終わった。
藍には勝手な話だと思われるだろう。それでもキチンと終わらせなければ、お互いのこれからにいい影響はない。
「藤と番になるんだ」
「……何を……」
「藍とはどう足掻いても番えない。だけど藤は……オレの事を理解して大切にしてくれる。オレを……オレを何度でも抱いて満たしてくれる」
藤が少し困惑した視線を投げかけて来たけれど気付かないフリをした。
実際には藤に抱かれた事など一度もない。身体を捧げたのは後にも先にも藍だけだ。
これは藍が永絆の気持ちの変わりの早さに嫌悪させる為の茶番だけれど、憎まれても恨まれてもこの茶番をやり通すと決めていた。
「藤と番になる」
もう一度言って、藍をじっと見た。視線を逸らせば藍に嘘だとバレる気がした。
「……オレは……どうなる……」
「藍……。藍はどうもならないよ。今までと変わらず紫ノ宮藍として生きるだけだよ」
出逢う前の当たり前だったその生活に戻るだけで何も変わりはしない。婚約の話だって今ならまだ一時の気の迷いで済まされる。
「オレは永絆と……」
「藍」
言い聞かせるように少し強い口調で藍の言葉を遮ると、永絆は藤の手を強く握った。
「夢の時間は終わったんだ。最初から、オレたちは番えない運命だったんだよ」
番えないのに、どうして藍が運命の相手だったのだろう。
番えない運命に振り回される運命の番だなんて、馬鹿げた話だ。
「永絆っ……それでもオレはっ……」
「藍、オレは囲われる気もないし、番になるならいつか子供だって欲しいんだ。幸せになるって菫さんと約束した。藍とは幸せにはなれない」
菫の名前を出せば、藍が何も言えなくなる事はわかっていた。
番ったαを一生思い続けて儚くなった菫の思いがどれだけ重要か、藍も知っていたから。
それきり藍は何も言わず立ち尽くしていた。まるで感情がなくなったかの様な表情をしたまま。
後ろ髪を引かれる思いで永絆は部屋に残してあった少しの私物を鞄に押し込めて藤と共に部屋を出た。
一度だけ振り返って見た藍は微動だにせず、本当は何も考えずに今すぐ藍に抱き着きたい衝動を抑えた。
これでいい。藤を利用したのは申し訳ないが、藍と離れるには他に番う相手がいると言った方が説得力が増す。藍も永絆の幸せを考えればこのまま身を引いて紫ノ宮の跡取りとして気持ちを切り替えていけるはずだ。
ただ、この全身を切り裂かれる様な痛みは暫くは消えないだろう。
魂で惹かれあった運命の相手から離れるのだから、半分死んだのと同じだ。
出来ることなら藍が、そんな痛みを感じていなければいい。もしも痛みを感じていても、早く癒えて欲しいと願う事しか出来ない自分をどうか許さないで。
憎んでも、恨んでも、記憶から消去しても構わない。
藍が、藍の世界で胸を張って生きていけるのなら。藍が幸せな家庭を築けたなら。
それでもう充分、自分も幸せなのだから。
藤の手を引いて外に出ると、気持ちとは裏腹に青空が広がっていた。
永絆が持っていた荷物はいつの間にか藤が代わりに持っていて、手を引いて歩いていた筈が逆に手を引かれて歩いていた。
心の中が真っ白になっていた。藍の部屋から出て青空を見上げた後、何処をどうやって歩いていたのか思い出せなかった。
「そんなに泣くなら玉砕覚悟で彼と番になれば良かったのに」
どれだけ歩いたのか、見知らぬ道の途中で藤が足を止め永絆を振り返ってそう言った。
その言葉で初めて自分が泣いている事に気が付いて慌てて涙を拭うと、藤がふぅと溜息を吐いた。
「ホントにこれでいいの? 今ならまだ戻れるよ?」
一瞬だけ、藍の元に戻りたいという気持ちが過ぎった。そしてそれをすぐに打ち消した。
「藤、巻き込んでごめん……」
彼の優しさに甘えて関係ないのに巻き込んでしまったことを悔やむ。けれどそれくらい言わなければ自分もまた有耶無耶にして藍の傍に居続けてしまう。
二度と戻れないように自分を追い詰めなければ、弱い心は運命に逆らえずにまた藍に惹かれてその中に閉じこもろうとする。
「俺は構わないよ、永絆の為になるなら。でも、永絆が泣くのは嫌だよ」
「……うん、ごめん……」
「謝らなくていいよ」
「……ごめん」
涙を止めたいのに涙腺が壊れてしまって次々と雫が落ちていく。
見兼ねた藤がまた手を引いて通りかかった公園のベンチに永絆を座らせた。近くにあった自販機でペットボトルの飲み物を買い、蓋を開けてから永絆にそれを渡す。
永絆は暫くそのペットボトルを握りしめたまま、涙を流し続けた。
「ねぇ、永絆、あのさ」
「……うん?」
やっとペットボトルを口にして水分補給をした永絆の隣に腰掛けた藤が言いづらそうに口を開く。
「永絆さえ良ければ、俺とホントに番にならない?」
「え……?」
永絆となら番になってもいいと藤は前に言ってくれた。でもそれは社交辞令だと思っていた。
「うちは一般家庭でめんどくさい事なんて何もないし、永絆は昔からよく知ってる間柄だし……俺となら、そんなに泣かなくて済むよ?」
どういうつもりで言ってるのだろう。藍との事を同情して言っているのだろうか。それとも本気で番いたいと思っているのだろうか。それはつまり、友情以上の好意が藤にあるという事なのだろうか。
泣き過ぎてよく回らない思考では藤の気持ちを汲み取る事は出来なかった。
ただ、藤の優しさにこれ以上甘える訳にはいかないとは思った。
「藤、あの……」
「今すぐじゃなくていい。ゆっくり考えて」
「藤……でも……」
時間を掛けて考えても藍への気持ちが変わる事はない。それは運命という深い絆があるから。
そんな気持ちを残したまま藤の優しさに凭れ掛かるのは、藤に失礼だ。
「永絆が彼を好きなままでも俺は構わないよ。でもきっと、俺となら永絆は穏やかに生きていける。それだけは約束出来る」
藤の番になれば、どんな未来が待っているかを考えた。
αもΩも分け隔てなく接する藤の隣にいると、自分がΩである事を忘れられた。藤がαである事も忘れていられた。いつも優しい笑顔で話しかけてくれた。藤が居たから高校生活を楽しく過ごせた。
だからきっと、番になったら藤はそれまで以上に優しく接してくれるだろう。
大切にしてくれる。番以外に手を出したりもしない。菫が望んだような幸せを与えてくれる。番にするなら理想的な相手だ。
今は友情でも永く一緒に過ごしていけばいつか愛情に変わるかもしれない。それは燃えるような恋ではないかもしれない。苦しくて切なくて、でも狂おしいくらい愛しい感情ではないかもしれない。
それでも藤となら上手くやっていけそうな、そんな気がする。
「でも、オレ……藍の事を忘れたり出来ないよ……」
いつか恋心は風化していっても、彼との出逢いの衝撃はいつまでも忘れはしない。目が合った瞬間の、強烈な引力は未だに記憶に鮮明に残っている。
いくら藤がそのままで構わないと言っても、藤の気持ちに応えられないまま長く一緒に居続ければ罪悪感でいっぱいになる。仮に藤を好きになったとしても、心の奥にはいつも藍がいる。
それはまるで解ける事のない呪縛みたいに永遠に在り続ける。運命の番とはそういう関係なのだ。
「藤に甘えたら楽だし、泣かないでもいいかもしれない。でも……考えられないんだ。藍以外と番う事も出来るのに、藍以外と番になる気にならないんだ……」
自分でも馬鹿だと思う。黙って藤に凭れてしまえばいいのに。
けれどどうしても、この項を噛むのは藍じゃないと嫌なんだ。
「そっか、それなら仕方ない。でも忘れないで。俺はいつでも永絆の事を思ってる。幸せになって欲しいし、出来るなら幸せにしてやりたい、俺が。だから……」
一つ息を吐いて、永絆の頭をポンポンとすると藤は無理やり笑って見せた。
「永絆の気持ちが変わったら、いつでもおいで。俺はいつでも待ってるから」
「……ありがとう……」
切なくて涙がまた溢れた。
藤以上にいい人なんてもう二度と出会えないかもしれない。Ωじゃなく、一人の人間として認めてくれた大切な人。
いつか彼の優しさに甘えて手を伸ばす事があったら、その時は藍の事は全て過去にして捨ててしまおう。それが彼に対して出来る精一杯のお返しだ。
***
携帯には藍からの着信が引切り無しにあって、その全てを永絆は無視し続けた。
大学へ行けば何処かでばったり会ってしまうかもしれないと思い、藍が講義を受ける日は大学を休んだ。あまり休み過ぎると良くないのは分かっていたが今はまだ藍には会えない。
もし会ってしまえば折角の決心が鈍りそうで怖かった。
藤はあの日以来、毎日一回は連絡をくれた。藍の着信で埋め尽くされる携帯の履歴の中に藤を見つけるとやるせない気持ちになる。
結局、誰も選ぶ事が出来ず全部無理やり拒んで終わらせた。
これが自分勝手な我儘なのは百も承知で藍も藤も傷付けた。そんな自分が幸せになれるだなんて思ってはいない。だからせめて二人には自分の事など忘れて幸せになって欲しいの祈った。
菫の月命日に毎月、菫が好きな花を持って墓参りをする。今日も大学で講義があったけれど藍に会いたくなくてここに来た。
きっと菫は呆れているだろう。
この場所で藍に「連れて行って」と告げた時に見た菫の幻は優しく笑っていた。己の感情に素直に従った永絆を見送ってくれた。
けれど今はどうだろう。溜息を吐きながら「馬鹿な子だね」と言っているかもしれない。それでも菫は暖かく頭を撫でてくれるのだろう。
無性に菫に会いたくなって花を活けた後、墓石に触れた。骨壷が納められているだけの冷たい石の感触にまだ菫を喪った喪失感が消えていないのを実感した。
「永絆」
不意に呼ばれた名前に振り返る。
一番会いたくなかった相手が花束を持って立っていた。
「藍……」
藍は永絆から視線を外し、墓の前まで来ると持っていた花束を墓前に置いた。永絆が既に活けた後の花を見て、その花に手を伸ばすと花弁を一つむしり取った。
ここに藍が来る事を全く予想していなかった訳ではない。けれど大学の講義がある時間ならば鉢合わせしないと思っていた。
藍が本気で自分に会いたいと思っていれば家を訪ねて来るだろうし、他にも会う方法はいくらでもあったから。
「永絆」
「……なに……?」
永絆を真っ直ぐに見る藍の目は少し怖いくらいで、むしり取った花弁を風に舞わせた手がこちらに伸びてきたのを肩をビクつかせて構えてしまった。
藍を怖いだなんて思ったのは初めて逢ったあの日、無理やり犯されそうになった時だけだ。あの時は藍の理性が勝って最悪の状況は免れた。
「まだ」
伸びてきた手は永絆の首筋をなぞり、項へと回された。
項に触れられた瞬間、ゾクリと全身に寒気が走り凍りついたように動けなくなった。
「アイツとは番ってないな?」
低い声で言われ、永絆は小さく頷いた。
項に伸びた手がそこに番の痕がないのを確認するかのように滑る。
「永絆は、オレの番だ」
グイッと項を掴まれ引き寄せられ、体がよろけて転びそうになる。それを体で支えた藍は永絆の手首を強く握り引っ張る様に強引に歩き出した。
「藍っ、待ってっ……手、痛いっ……」
痛いと何度も訴えたが藍は握った手を少しも緩めず、永絆にも振り向かずに早足で歩く。何度か足がもつれて転びそうになるのを堪えて付いていくと駐車場に着き、助手席に乱暴に押し込められた。
やっと解かれた手首には藍の手の跡が赤く残っていて、まるで手枷のようだと永絆は思った。
運転席に座った藍がエンジンをかける。横顔を見ると険しい顔で前方を見据える藍に、何と話しかければいいか分からず、車が発進した後も口を噤んでいた。
永遠に続きそうな沈黙の中、車窓から外を眺める。藍の部屋に行くのだろうと予想していたが、車はどんどんマンションとは違う道を進んで行った。
「何処にいくの?」
一時間程走って、不安になった永絆が沈黙を破って訊ねた。藍は永絆の問いには答えず、一瞬だけ永絆を横目で見ただけだった。
「……ねぇ、帰りたいんだけど」
来たこともない道を延々と走る事に不安が増した。藍が何を考えているのかも分からず、同じ車内にいるのも苦痛に感じた。
「藍、ねぇ、帰らせて……」
ただ意味もなく走らせている様には見えなかった。しっかりとした目的地があって、そこに向かっている気がした。そこがどんな場所なのかは予想出来なかったけれど、すぐに引き返さなければ後悔すると本能が警告音を鳴らしていた。
「藍、ねぇ……藍っ」
「もうすぐ着くから黙って」
冷たく言われ永絆は魔法にかかったみたいに声を出せなくなった。これ以上、藍の機嫌を悪くしたら良くないと察して押し黙った。
もうすぐ、と言った割には車はどんどんと進み寝不足だった永絆は車の揺れが心地よくなりいつの間にか眠ってしまっていた。藍を怖いと感じ警戒していたはずなのに、どうしても藍との僅かに過ごした時間が恋心を膨らませて、漂ってくる藍の匂いや息遣いに安心してしまう。
夢の中では二人仲良く並んで過ごせるから、眠る行為は切なくて起きた時に堪らなく哀しくなる。きっとまた目が覚めたら哀しい現実が待っている。だからもう少しだけ、幸せな夢を見させてほしいと願わずにはいられなかった。
バタンと音がして目が覚めた。
運転席にいた藍が車から降りてドアを閉めた音だった。藍は助手席側に回り、ドアを開けるとまだ少し寝惚けたままの永絆の手を取り車から降ろした。
目を擦りながら周りを見渡すと地下駐車場らしく、他にも何台か車が停まっていた。
「藍……ここ何処?」
携帯を取り出し時刻を確認すると夜になっていた。何時間も車の中で同じ姿勢でいたせいで体が痛い。
「これはいらない」
持っていた携帯を藍に取られ、代わりにその手を握られると地下駐車場から上の階に続くエレベーターに乗せられた。何処かのホテルかとも考えたが受付も済ませていないし、エレベーターの内装がホテルのものとは違い張り紙一枚もされていなかったのでその線は消えた。
高層マンションだと分かったのはエレベーターの階数表示と、エレベーターを降りた先にあったいくつものドアに付けられた無記名の表札からだった。
藍に引っ張られて一番奥の部屋のドアの前まで行く。どの表札も全て無記名でこの階に人が住んでいるのか分からなかった。
藍が鍵を開けて中に入り、リビングへと続くドアを開ける。そこには家具は一つもなく、人が住んでいる様には見えなかった。
更に奥にあるドアへと引っ張られて中に入る。抵抗する事も忘れて藍のされるがままに動く自分に躊躇った。自分から離れたくせに今一緒に居れる事が、不安より勝っていた。
奥の部屋は寝室で、何故かこの部屋にだけ家具が置かれていた。家具と言っても真新しいベッドが一つだけで他には何も無い殺風景な部屋だった。
「藍、ここは何なの?」
「今日からオレ達はここで暮らす」
永絆から取り上げた携帯を手にすると電源を落とした藍。そしてそれをフローリングの床に落とした。
カシャンと無機質な音が部屋に響く。壊れはしなかったが拾い上げる事はやめておいた。部屋が殺風景なせいか寒さを感じていた。
「暮らすって……大学は? それにオレは藤と……」
「永絆は」
永絆の言葉を遮って藍は永絆の頬に触れた。藍の目があまりにも哀しそうに見えて動けなかった。
「どんなにオレが永絆の不安に感じている事を取り除いても……望む事全てを叶えても……オレから離れようとする」
「それは……」
藍が必死で番になれるように動いていた事は知っている。本気で番うつもりだったのも。だけど藍には紫ノ宮がある。跡を継がなければいけない。そして子孫を残さなければいけないのだ。
「なのに簡単にオレの車に乗る。抵抗しようと思えば逃げられたのに」
確かにきつく手首を握られてはいたが車内では離されていた。信号待ちの瞬間に逃げる事も出来た。それをしなかったのはほんの少しだけ、藍と同じ空間で過ごしたかったから。
「他の奴と番うと言ってるのに目の前で無防備に寝たりする。部屋まで簡単についてくる。オレに心を許したまま、ここにいる」
図星だった。
藍を怖いと思った反面、安らぐ自分がいた。車内の密閉された空間に充満する藍からの花の匂いは堪らなく心地良くて緊張も解れてしまう。
藍を思う気持ちは一欠片も減りはしていない。
「永絆が逃げたり抵抗したら諦めようと考えた。でもここまで付いてきてくれたら、絶対に離さないと決めたんだ。永絆が例え、どんなに嫌がっても」
頬に触れていた手がするりと滑り、永絆の項を撫でた。
「永絆、発情期なんかもう関係ない」
「え……?」
「この部屋でずっと永絆を抱き続けて、何度も項を噛む。誰にも邪魔はさせない。ここはオレだけしかしらない部屋だから」
横抱きにされて慌てているうちにベッドに寝かされる。スプリングがきいて身体が何度か揺れた。そこに藍が、永絆を跨ぐようにして座る。
「何度でも噛んで、発情期になったら番になろう。もう周りなんてどうでもいい。オレは永絆が居れば何もいらない。他の奴と番になんかさせない」
「藍……」
藍の目は本気だった。永絆のシャツのボタンを一つ一つ丁寧に外していきながら、何度も永絆の名前を呟いた。
永絆は金縛りにあったように動けないまま、シャツのボタンを全て外し終えた藍が永絆の胸に顔を埋めるのを受け入れ、そっと藍の頭を腕で包み込んだ。
彼にここまでさせたのは自分なのだと思うと抵抗も文句も何も出てこなかった。
ここまでするくらいに愛されているのだと知り、目頭が熱くなった。
こんな彼を拒むだなんて出来やしない。心底惚れた相手なのだから。
だけどこの部屋にずっといるなんて事は無理だ。二人して音信不通になれば紫ノ宮家の人間が大騒ぎして藍を探しに来るだろう。出来れば大事にはしたくない。
藍を今、この部屋で受け入れて藍の気の済むまで抱き合って、項も好きなだけ噛んでくれて構わない。どうせまだ発情期ではないし、それだって最近は正常に来ていない。
一晩、藍の望むがままに愛し愛されたら藍も落ち着いて考え直し、帰ろうと言うかもしれない。言わなくても自分が柔らかく説得すれば聞き入れてくれるはずだ。
「永絆……二人だけで……ずっと一緒にいよう……」
少し哀しげな口付けを交わして、永絆は瞳をゆっくりと閉じた。
藍の言葉に答えはしない。一緒に居られない事は分かっている。イエスと答えれば嘘になるし、ノーと答えれば藍を傷付ける。だから答えることは出来ない。
「永絆、好きだ。誰よりも、何よりも。こんなに永絆でいっぱいで、他に欲しいものは何も無いんだ」
永絆の肌に口唇を這わせながら、藍は切なく甘い言葉を囁く。
目を閉じたまま口唇の感触と藍の声を聴いているうちに自然と力が抜けて、頭がぼうっとしてくる。
心地のいい痺れが身体を走る。藍の触れた先から流れてくる深い愛情に溺れて、深く深く、海よりも深い場所までゆらゆらと落ちていく。沈んでいく。
「藍……藍……大好きだよ……藍……」
無意識に零れた言葉は、けれど何よりも純真な気持ち。
藍の口唇が、手が、骨張った指が、輪郭を描くように永絆の身体を流れていく。
今だけは、何もかも忘れてこの運命の人の愛撫に身を任せよう。そしてこの身体の中に一生忘れられない熱を残してほしい。
「藍……藍……あい……」
肌に散らされていく紅い痕を指で辿る。数日で消えてしまうこの痕の場所、一つ一つを覚えていたい。例え身体から消えても、記憶にだけはしっかりと残しておきたい。
「藍……」
呼ぶ声は掠れて空«くう»に消えた。
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