はなのなまえ

柚杏

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八章

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 一晩中、求められその全てを受け入れ混ざり合った。
 何度も名前を呼び、抱き締め、深く口付けては激しく揺られ、欲の全てを出し切るまで溶け合った永くて閉鎖された一夜が終わると現実が待っている。
 まだ目を覚ましたくない。隣で眠る藍の温もりを感じたままずっと眠っていたい。もし、許されるのなら目覚めた後もまた繋がりたい。
 そうやって時間を忘れて過ごしていたい。
 そんなことを夢の中で考えては泡のように消えていく願いを虚しい瞳で見送った。
 カーテンを締め切っても遮る事の出来ない程の陽の光が射し込んで来て、眩しさでとうとう目を開けた。どのくらい眠っていたのか、身体中が軋むように痛い。
 隣にいたはずの藍の姿がなくなっているのに気が付き、軋む身体を起き上がらせると昨晩の行為の名残りはすっかり綺麗に拭き取られシャツを一枚着せられていた。そんなことにも気が付かない程、疲れきって深い眠りに落ちていたのだろう。
 リビングにいるのかもとベッドから足をフローリングに下ろすと、ジャラリと金属の音が右の足首からした。
「え……」
 身体の痛みで気が付かなかった。自分の足首に鎖が巻かれ、その鎖はベッドの柵にがっちりと巻き付けて施錠されていた。
 一体どうなっているのか頭が回らず、とにかく藍を見つけようと立ち上がり鎖を引き摺りながらドアへと向かう。ドアノブに手をかけ開けようと試みて、更に永絆は混乱した。
 ドアには鍵がかかっており、こちら側からは鍵穴がない。何度かガチャガチャと開けようとしたが永絆の力では開けることが出来なかった。
 諦めてドアを背に座り込む。部屋を改めて見渡すと自分が着ていた服も荷物も部屋には無かった。藍が違う部屋に持って行ってしまったのだろう。
 一人きりで鎖に繋がれたこの状況に心細くなり体を丸くして抱きしめた。
 昨夜は藍との行為に夢中で気が付かなかったが、この部屋にはもう一つドアがあった。リビングへ続くドアと同様、こちらも恐らく鍵が掛けられているだろうと永絆は予想したが確かめる為にもう一つのドアの前まで移動した。
 ドアノブを動かすと予想に反して鍵は掛かっておらず簡単に開いた。中をそっと覗くとそこはトイレやシャワーが備わった浴室兼洗面室になっていた。
「……ここで暮らせってことか……」
 鎖の長さも丁度、その浴室の端まで行けるだけの長さになっている。備え付けの棚には真新しいふかふかのバスタオルが何枚も入っていて、着替えは無かった。例え鎖を外せても今着ているシャツ一枚で外に逃げれば不審者扱いされてしまう。そもそも鍵が開けられない限り外には出られない。
 シャワーから熱めのお湯を出して永絆はため息を吐いた。
「こんな事しなくても……逃げないのに……」
 帰ろうと説得するつもりではいたが逃げるつもりはなかった。
 きちんと藍と話し合った上でお別れをしようと思っていたのに。
「オレが藍をここまで追い詰めたのか……」
 二人でずっと一緒にいようと言った藍の哀しそうな目を思い出す。
 この部屋に閉じ込めておけば藍は安心するのだろうか。何処にも行かないで藍だけと会話をして、藍がいないと生きていけない生活をここでしていれば藍は満たされるのだろうか。
「これじゃあ、飼われてるのと同じだな……」
 それが嫌で別れを決めたのに、その結果がこれだ。
 少し頭が冷えたら考え直して解放してくれたらいいのだけれど……。
 着ていたシャツを脱ぎ、熱いシャワーを浴びた。軋んで痛んでいた体が少し楽になった気がした。
 体を洗い終えて真新しいバスタオルで拭き、シャツを着直してベッドに戻る。歩く度にジャラジャラと音が鳴る鎖を見ると藍の執着具合がどれほど強いのかが良く分かる。
 閉じ込められている事に対して不快感は無かった。菫ももういない。自分が突然消えても誰も心配しないだろう。もしかしたら居なくなった事さえ気付かれないかもしれない。
 それに藍の家がこの状況を黙って見過ごすとは思えない。どのくらい遠い場所に来たのかはわからないが、藍がずっと帰ってこなければ紫ノ宮家は徹底的に探すはずだ。もしかしたら既に捜索されているかも。
 いずれにせよ、時間の問題。すぐに見つかって終わりだ。
「永絆、起きてるか?」
 ベッドの上で髪を乾かしていると鍵の開く音がして藍が入ってきた。手には買い物袋を持っていて、永絆の姿を見てホッとしたのか顔を緩ませた。
「昨日から食べてないからお腹空いてないか? 近くで色々食べ物とか買ってきた」
 永絆の横に座り、ベッドの上に買ってきた物を袋から全部出すと「どれがいい?」と訊かれ、ひとまず水のペットボトルを手にした。ずっと喉がカラカラだったのでキャップを開けると一気に半分飲み干し、やっと一息ついた。
 藍はサンドイッチを開けてパクパク食べ、次におにぎりを手にした。
「ここって、藍が借りてる部屋?」
「いや、買ったの。マンションごと。誰にも内緒で」
 流石、紫ノ宮の跡取りはお金の使い方が違う。一般庶民がマンションを買うのに一体何年ローンを払っていかなきゃいけないのか藍はきっと知らないのだろう。
「誰もここを知らない。オレと永絆だけしかいない。他のフロアには住民がいるけどこの部屋だけは紫ノ宮の誰にも話してないから簡単に見つからないよ」
 おにぎりを大きな口で頬張る藍。本気で見つからないと思っているのだ。
「藍、オレ、逃げたりしないから鎖外してくれないかな?」
 ここまでされたらとことん藍に付き合うつもりだ。最初から逃げるつもりもなかった。鎖なんてなくてもここにいる間は藍から離れたりしない。
「それはダメ。その鎖は番が成立するまでは外さない」
「番って……藍、それはダメ。番にはなれないって言ったよね?」
「ああ、だから無理やりにでも番う事にした」
 あまりにも簡単に言うものだから、永絆はその言葉を理解するのに少し時間がかかった。
 誰かがこの場所を見つけるまでは藍に付き合って一緒に過ごそうと思ってはいた。きっとすぐに見つかるから、少しだけ藍との時間を楽しもうと。
 けれど藍は永絆の意思さえ無視して番を成立させようとしている。
 最後に発情期が来たのはいつだったか。かなり狂っていたし、発情期になっている感じはするのにフェロモンの分泌がおかしくなっていたから正確な周期がわからない。
 鞄にいつも入れていた抑制剤も手元にはない。荷物ごと藍に隠されてしまったから、もし発情期が来たら薬を飲む事が出来ない。
 もしも、次の発情期にフェロモンが出て藍が反応してしまったら、この身体は喜んで藍を受け入れるだろう。番にはなれないと言いながら、魂に引き寄せられて拒む事が出来ないまま項を差し出す。
 藍から離れて一人で生きると決めたのに、このままでは藍の人生を台無しにしてしまう。菫と同じ結末を迎えてしまう。
 ちゃんと幸せになると、菫に誓ったのに。
 藍と番えなくても自分なりの幸せを見つけようと考え始めていたのに。
「家は……? 誰も認めてくれないよ?」
「認めてもらうつもりなんかない。番ったら何処か違う所に引っ越して二人で静かに暮らそう。永絆を養えるくらいの金は家とは関係なく持ってるし、永絆は心配しないで大丈夫だよ」
「……でも」
「これはもう決まった事なんだ。永絆がなんて言っても必ず番う。毎日抱いて、毎日項を噛む。番が成立するまで何回も」
 永絆を愛おしく抱きしめて、藍は永絆の髪にキスを落とす。
 そして項にも口付け、永絆をベッドに横たえた。
「もうこれしか方法がないんだ。誰にも永絆を渡さない。誰にも邪魔させない。永絆はオレの番だ」
 ああ、もうこれはダメだと永絆は目を閉じた。
 藍に何を言っても考えを変えたりはしないだろう。番になるか、その前に見つかるか、どちらかにならない限り誰も藍を止められない。
 抵抗しても、泣き喚いても、藍は番になるまで離してはくれない。
 きっとやり方を間違えたのだ。藤に頼んで番になると嘘をついたのがダメだった。あの嘘が藍を追い詰めた。
「ずっと、オレの事ばかり考えてたから、疲れたんじゃない?」
 永絆の横に寝そべった藍の頬に触れると、嬉しそうに擦り寄ってくる。
 自分だけが辛いと思っていた。藍には約束された未来があるからすぐに番の事など忘れてしまうだろうと。
 だけど本当に辛い思いをしていたのは藍だ。
 古い体制の家に縛られたまま、魂で惹かれ合う番をどうにか幸せにしたいと悩み、板挟みにあって苦しんでいた。
 何とかしようとしていたのに、大切な番は一人で勝手に別れを決めて新しい番を見つけてきたのだから精神的に参ってしまってもおかしくない。
「永絆がここにいるから、疲れなんて飛んでった」
「そっか、なら良かった」
 優しくしたい。優しくありたい。この世でたった一人の運命の人。
 いつも何よりも自分の事を優先してきてくれた。番にはなれないと言ったあとでも諦めようとはしなかった。ずっと思ってくれていた。
 藤の言う通り、行ける所までとことん行ってみたい。今なら素直に番になりたいと藍に告げる事が出来る。何もいらないから藍だけが欲しいと。
「大好きだよ、藍。そばにいてね」
「ずっといるよ」
 間違いかもしれない。現実逃避をしているだけなのかもしれない。
 それでも良かった。この閉鎖された空間で藍と共に行ける所まで行ってしまおう。
 この後、見つかってしまっても悔いがないように全身全霊で藍を愛していると伝えて、何度も抱かれ、項を噛んで貰う。それだけが全て。
 発情期が上手く来たら良いのに。そして番が成立したら、もう何の悔いもない。
 その後、引き離されて番を解消されても構わない。とことん彼を愛して愛し尽くしたい。
 あとはもう、何もいらない。


 ――そうだから、これは仕方のない事なんだ。


 日にちの感覚はとうになくなっていた。
 藍が買ってくる食べ物と飲み物を寝室で食べて、後はベッドの上で過ごした。
 何度も藍を受け入れ、その種を奥へと注がれ、注がれる度に項に痕を残された。古い痕から薄くなって消えていき、種は実を結ぶこと無く毎日は過ぎた。
 永絆が予想していたより紫ノ宮家が二人を見つけるのには時間が掛かっていた。それでもタイムリミットは刻一刻と近付いている。いつか見つかると分かっていてこの部屋に繋がれ続けた。藍がいれば他に何もいらなかった。
 このままずっと見つからなければいいと思った矢先、藍が食料を買いに行っている間に二人の時間は終わりを告げた。
 紫ノ宮に雇われている者達が数人、ドタバタと音を立てて鍵の閉まっている寝室に入って来た。永絆は特に慌てる事もなく、寝そべっていたベッドから起き上がった。
 リビングに置かれていた永絆の荷物を手渡され、永絆は「シャワーだけ浴びたい」と告げて浴室に入った。
 迎えに来た者達が永絆の足首の鎖を見て驚いた顔をしていた。恐らく永絆が藍を唆したのだと思われていたのだろう。実際は藍が永絆を閉じ込めていたのだと分かり、困惑していた。
 シャワーを浴びながら、永絆は静かに涙を流した。シャワーヘッドから溢れてくるお湯で泣いていることがバレないように、声もなく泣いた。項に残された噛み跡が少し痛むけれど、今の心の痛みに比べたら何でもなかった。
 涙をすぐに止めてから、この部屋に連れてこられた時に着ていた服を着て浴室を出る。待っていた者達の一人が足の鎖を外した。これで自由になったのだと喜ぶべきなのに、少しも嬉しくはなかった。
 その後は彼等に連れられて車に乗り込み何時間も走った。
 途中で今日の日付けを聞くと、一ヶ月半が経っていた事がわかった。
 あの部屋では時間は存在しなかった。お腹が空けば食べて、眠くなったら眠るだけ。夢の様な時間だった。
 鞄の中に入れていた携帯はキッチンのシンクで水浸しにされていたからそのまま置いてきた。藍がやったのだろう。GPS機能は元々入れていなかったから探すのに時間がかかったのかもしれない。今となっては携帯などどうでもいいのだけど。
 途中、車の中で眠ってしまい目を覚ますと見慣れた景色が目に飛び込んできた。
 帰ってきたのだと実感して、じわりじわりと焦燥感が広がっていく。本当にあの二人きりの閉鎖された時間は終わってしまったのだ。既にあの日々が夢だったかのように思えてきた。
 現実はあっさりと永絆を引き戻し、哀しみに浸りきれないまま。宙に浮いたような気持ちを抱えて到着したのは、絶対に来ることはないと思っていた紫ノ宮家本邸だった。
 豪邸とはまさにこういう家の事を言うのだろう。何人もの使用人が屋敷内で働き、数えるのも嫌になるほどの部屋の扉に目眩がした。
 通された応接間は永絆の住む部屋よりも広く、調度品は煌びやかで座らされたソファはやけに柔らかくて永絆には座り心地が良くなかった。
 出された紅茶は緊張で飲めなかった。今から藍の父親がここに来ると聞いて怖くなった。何を言われるのか、何をされるのか。ここに藍が居たら安心するのに彼がどうなったのか誰も教えてはくれなかった。
 それは藍とは関わるな、という無言の圧力だった。
 紅茶が完全に冷めた頃、ようやく藍の父親が応接間にやって来た。控えていた使用人達の空気が一瞬で張り詰めた。
 永絆の対面に優雅に腰を掛けた藍の父親は、肩肘をついて無言で永絆を見据えた。
 長く重い沈黙が続いた。
 こちらからは何も言えなかった。αの中のαである彼に何かを言える立場ではなかった。
 やがて、藍の父親が立ち上がり部屋から出ていった。訳も分からず困惑していると数分でまた部屋に戻ってきて目の前に座り、永絆の前に封筒を置いた。
「足りなければ言いなさい」
「……え?」
「息子がした事は他言無用。欲しいだけ金は出す。藍の前から消えろ」
 何を言われるかなんて、予想はしていた。けれどいざ直接言われるとショックが大きくて呆然とするしかなかった。
「若気の至りだと思えば大したことではないだろう。必要なら何度でも払ってやる。Ωでは就職さえままならないのだから」
 発情期中に外に出ることが危険なΩは重要な仕事を任せては貰えない。優秀なαが重役を占めている会社ならば特に。Ωはひっそりと暮らすしか出来ない。
「調べさせたが……後見人だったΩも相手のαから金を貰っていたのだろう? 君も同じ事をして楽に暮らしたかった。だから藍を誑かした」
 何をどう調べたというのか。藍を誑かした事など一度もない。それに菫の事をそんな風に侮辱されて空っぽだった感情がふつふつと沸き上がってきた。
「……訂正して下さい」
「なに?」
「オレは別になんと言われても構わない。でも菫さんは違う! あの人は番った相手をずっと愛してたんだ!」
 もう二度と会えないのに、死ぬまで番を思い続けていた。お金を受け取ったのは少しでも番との繋がりを残しておきたかったからだ。楽をしたかったからではない。
「番に捨てられる辛さはΩにしか分からない……。番った事もないくせに菫さんを悪く言わないで下さい!」
 項の噛み跡をいつも愛おしそうに触れていた菫の儚い笑顔を思い出す。
 彼にとって番が解消されても、その痕は大切な宝物だった。
 自分の項にも沢山の噛まれた痕が残っている。藍が毎日必ず噛んでいたからなかなか傷が治らない。
「調べたなら、オレが彼の遺産を相続した事も知ってますよね? だからお金はいりません。お金が欲しくて藍の傍にいた訳じゃないんで」
 悔しい。苦しい。泣きたい。
 沢山の負の感情が渦巻いて暴れ出したかった。
 菫の遺した遺言状には家の権利を長年付き添ってくれたお手伝いさんに譲る事と、残っている財産全てを永絆に渡す事が書かれていた。菫には他に家族はなく、遺言状通り財産は永絆に託された。
 家は売却する事になった。お手伝いさんが一人で住むには広過ぎて、管理もしきれないから。思い出が沢山詰まっている家を売却する事にお手伝いさんは泣きながら永絆に頭を下げ謝った。お手伝いさんも菫の事が大好きだったから、家を手放す決断は辛かっただろう。
 人が死んでいくという事の重さを、思い知った。
「でも、今回の事はそれとは別の話です……。ずっとあそこで一緒にいられるなんて思ってなかった。いつか見つかると思ってた。だから、これが引き際だって分かってます」
 充分、愛された。そして、充分愛した。
 何もかも、面倒な事全て忘れて抱き合った。
「……番にはなっていないのか?」
「それは……」
 首の回りだけではなく、身体のあちこちに噛み跡が残っている。しかし一緒に過ごした一ヶ月半の間に発情期らしきものを感じる事はなかった。
「なってないです、きっと。だから後は、オレが消えるだけ」
 あの閉鎖された時間と空間の中で、お互いを毎日確かめあって深く心も身体も繋がったけれど、番にはならなかった。発情期が来ないといくら噛んでも、何度抱かれても番は成立しない。何度も精を中に放たれたけれど妊娠もしていないだろう。
 きちんと検査を受けた訳ではないけれど、他でもない自分の身体の事だ。番になっていたら気が付くはず。
「君は運命の番だと藍は言っていた。私はそんなものないと思っている。運命ならば、とっくに番が成立しているだろう?」
「……運命はありますよ」
 ただ本能だけで生きている訳では無いから。藍の事を心から思っているから。
 自分の身体が番になるのを拒否しているのだ。無意識に発情期を止めて番の成立を拒んでいるのだ。
 藍のこれから先の未来を大切にするあまり、運命という絆を切ってしまった。
 番になりたいと願う心がそれに負けた。自分の弱さが運命を手に入れられなかった。
 なんて脆い運命なのか。強く惹かれて求め合った結末が、番の前から消える事だなんて……。
「藍は、今はどうしてるんですか?」
「部屋に軟禁している。頭が冷えるまでは部屋からは出さない」
「……なら、早めに消えますね。出来るだけ遠くへ」
 藍は今頃怒っているのか、絶望しているのか。永絆の事を心配して焦っているがもしれない。
 同じ屋敷内にいるのに、ここにいると藍に逢おうと探し回っても永久に探し出せない気がする。ここは藍の匂いが分からない。そのくらいこの藍の父親の醸し出す雰囲気とαとしてのプライドが強い。藍の優しい匂いを掻き消す程の存在感と威圧感。
 Ωへの嫌悪感から来る蔑んだ匂い。
 藍に抱きしめられたい。あの甘い花の匂いに包まれて安心したい。
 けれどもう、それは二度と出来ない。
「……帰っても?」
「どうぞ」
 最後にもう一度だけ逢いたかった。ただ一目、顔が見たかった。
 応接間を足早に出て、使用人に案内されて外へと出た。外の空気を吸うと重苦しかった身体が軽くなった気がした。この屋敷はΩが来る場所ではないと痛感した。
「帰るの?」
 広い庭を出口に向けて歩いていると、一台の車が入って来て永絆の隣で止まった。窓を開けて顔を見せたのは茉莉花だった。
「もう用は済んだので」
 だから安心して藍と婚約してくれ、とは言えない。藍の幸せを願ってはいるけれど、今はまだそんな話は聞きたくなかった。
「番になったのかと思ったのに、違ったのね」
「……貴女には好都合でしょ」
 早くここから立ち去りたいのに茉莉花は車から降りて永絆の前に立ちはだかった。
 これ以上、何を言わせたいのか。何をさせたいのか。或いは何をさせたくないのか。
「私は、αだからその生き方しか出来ないわ。藍様もそうだと思ってた。愛情なんてなくてもαはαと結婚して子供を産むものなんだって、信じて疑わなかった」
「……なら、望み通りですね」
 今は愛情がなくても一緒に暮らしてお互いを知っていけば好きになっていくかもしれない。藍が茉莉花を好きになって、やがて愛情が生まれたとしても責める権利などない。藍が大切に思う人と共に穏やかな毎日を過ごしていける未来を願っている。
 それが自分なら良かったのにと思う心に鍵を掛けて、見えないように黒い布で覆ってしまおう。心の奥底深く、簡単に出てきたりしないように何重にも蓋をして。
「貴方は幸せね。たとえ少しの間でも通じ合えた。今だってまだ繋がりあってる。一度結んだ絆は簡単には解けないのよ」
「何が、言いたいんですか?」
 今はまだ藍を感じる事が出来ても、そのうち匂いも熱も声も薄れて消えていく。あんなに毎日抱き合った事すら忘れてしまうんだ。
「羨ましいのよ。誰かに愛し愛される事が。短期間であってもね。この先、私が藍様と結婚しても、藍様は貴方への想いをずっと胸に抱き続けて生きていくのよ。私もそんな風に恋愛がしたかったわ。誰かを愛したかった」
「……茉莉花さん?」
「でも私は恋を知らないで結婚するのよ。しかも、他の人を愛してる人と。貴方と私、どっちが幸せかしらね?」
 嘲笑を浮かべて茉莉花は車の中へと戻り、車は屋敷へと走っていった。
 車の後ろを見送りながら、茉莉花の言葉を頭の中で繰り返す。彼女は藍とどうしても結婚したい訳ではなく、αに産まれた使命を果たそうとしているだけ。由緒あるαの家系同士の形だけの結婚の道具なのだ。
 彼女はそれを理解した上で、あんなに凛々しく存在している。
 それに引き換え自分はどうだ。
 藍の為、藍の将来の為、番になって捨てられたくない、そんな言い訳ばかりで逃げてばかり。一ヶ月半も二人きりで生活してきたのに結局、引き離された途端に諦めてしまった。
 もう充分だと言い聞かせて遠くへ行こうとしている。
 何の成長もしていない。ただ周りを振り回しただけで、逃げ出そうとしている。
 いつか見つかってしまうだろうと最初から諦めて鎖に繋がれていた。そんな気持ちでいて、発情期が来る筈もない。中根の見解では永絆の発情期が狂いがちなのは精神的なバランスの悪さからだと言われていた。
 まさにその通りだ。諦めている状態でいくら抱かれたって、項を噛まれたって、番が成立する訳がない。藍が鎖で永絆を繋いだ事は全て無意味だったのだ。
 藍を信じきれなかった。受け入れきれなかった。捨てられるのが怖くて心の全てを開く事が出来なかった。
 魂で繋がった運命の番なのに、藍を諦めてしまった。
 そしてもう、藍の側に戻ることは出来ない。
 藍の前から消えると決めたから。自分では藍の思いに答えきれないから。
「ああ……でも……」
 自分の言い訳を全て認めてしまった今だから、やっと素直に思える。
 臆病な自分を受け入れた今の自分なら。
「藍と番いたい……」
 魂の、心の底から。
 願わずにはいられない。
「さよなら、藍……」
 彼と番った未来を想像しながら、永絆は振り向く事無く屋敷を後にした。
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