はなのなまえ

柚杏

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十章

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 二人で一緒に寝るには少し狭い布団の中で手を繋いで眠る。ただ
 それだけでとても安心して眠れる。
 藍の規則正しい寝息を聞きながら、眠りに落ちるその瞬間までずっと祈っている。
 朝目覚めても隣に彼がいるように、と。
 目覚めて最初に言葉を交わす相手が藍であるようにと。

***

 紫ノ宮の使いの者が来た日から特に何もなく一週間が過ぎた。
 相変わらず、見張られてはいるけれどあれ以来声も掛けてこないので藍も永絆もそのまま様子を見る事にした。
 藍は変わらず朝、仕事へ行って夕方、寄り道もせずに帰宅する。
 冬は日が短い為、夕方でも外は暗く寒い。冷たい身体で帰宅する藍の頬を両手で包んで「おかえりなさい」のキスをするのが日課になっていた。
 妊娠が判明してもまだ初期の段階なので殆ど今までと変わらない生活を送る永絆を藍はとても心配した。
 疲れて帰宅する藍の為に食事を用意して、お風呂を洗って準備しておくだけでも「そんなことはやるから永絆はゆっくりしていろ」と言う。心配しすぎる藍に何度大丈夫だと言っても砂糖菓子を扱うように接してこられて擽ったい気持ちになる。
 それはとても幸せな日々だった。もうこれ以上満たされはしないだろうと思うのに、次の瞬間にはまた溢れる程の幸せを与えられる。藍からの愛情で毎日がキラキラと優しい輝きに包まれていた。
 そんな毎日を玄関のチャイムの音が水を差した。
 藍の仕事が休みの日で、二人でのんびりテレビを見ていた昼下がりだった。
「藍、開けなさい」
 玄関の扉の向こう側で耳にした事のある声がした。
 それまでのゆったりとした気分が一瞬で凍り付く。フラリと体を揺らした永絆を慌てて支えると小さな二人がけのソファに横にさせる。
「永絆、心配しなくていい。俺は何処にも行かないから」
「うん……」
 玄関を開けに行った藍の声を横になったまま聞いていると、低い声で言い争っているように聞こえた。心配になって起き上がると、ふらついて転ばないように壁を支えにしながら玄関へ向かう。
「だから、帰らないからっ」
「まずは客人をもてなしてはどうだ? 話はそれからだ」
 冷静さを失っている藍と、何を言われても気にもとめていない藍の父親の冷めた表情。
 思わず腹部に触れて優しくさすった。どうかこの不安がこの子に伝わらないようにと。
「藍……ご近所さんの迷惑になるから入ってもらったら?」
 どちらもひく様子がないと思い、永絆から提案をする。父と子の視線がこちらに同時に向けられて、その目がとても似ている事に気が付いた。
 初対面の時は感じなかった。あの時はただ深い悲しみに足下が崩れていきそうで必死で堪えるしか出来なかった。
 渋々といった顔で父親を部屋に上げると、最低限の物しか置いていない部屋を見渡し父親はため息を吐いた。
 今まで藍が暮らしてきた豪邸と比べたらレベルが違いすぎてため息が出るのも仕方がない。しかしこれが今の藍の全てだ。
「それで、なんで来たの?」
 さっきまで永絆が横になっていたソファに座った父親の対面にテーブルを挟んで座るとイライラした声で藍が訊ねた。
 居心地の悪さから立ったまま部屋の隅にいた永絆をチラリと見た後、藍に視線を戻した父親は足を組んで不敵に笑みを見せた。
「そろそろ戻って来なさい」
「だからっ! 戻るつもりはないって言っただろ!?」
 前のめりになって声をあげる藍を宥めようと、永絆も藍の隣に座りその手を握った。
 強く握られた拳が少しでもいつもの優しい手に戻るようにそっと撫でる。
「話は最後まで聞きなさい。お前だけを連れ戻すのならばこんな場所まで私が来る必要はない。私は彼に話があって来たんだ」
 視線を永絆に向けた藍の父親に、どんな話がされるのか分からず不安になって藍の手を握りしめた。
 黙って身を引けと言われる可能性が一番高い。一ヶ月半、藍に閉じ込められた後に話をした時も金銭で解決しようとしていた。また同じように反対されてしまうのだろう。
 それでも今回は簡単に身を引くつもりはなかった。
 あの時と今は違う。
 項には番の印があるし、このお腹の中には藍との子供が育っている。
 一人で産む覚悟も勿論しているけれど、それは最大限の抵抗をしてもうどうにもならなくなった時の最後の選択肢だと決めている。
 藍を絶対に諦めない。離さない。離れない。ずっと傍で寄り添いあって生きていく。そう強く誓ったのだ。
 そして子供が産まれたら三人で慎ましやかな生活を送る。それはとても幸せで、特別な事。
「私と初めて話した時に、君は番にはなってないと言った。しかし番は成立していたのだな」
「……それは……オレもあの時は分かってませんでした。発情期が狂っていたし、番になってる感じがしなかったから」
 この土地に来て番になっていた事にようやく気が付いたくらいだ。嘘をついたつもりはない。
「嘘だとは思っていない。あの時に分かっていれば君は素直にそう言っただろう?」
「もちろんですっ……。分かっていたら諦めたりしなかった!」
 一ヶ月半の二人きりの蜜月を終わらせたくなんかなかった。あのまま二人きりでずっと閉じこもっていたかった。
 けれど結局見つかってしまい、番にもなれなかった。それで蜜月は終わったのだと諦めるしかなかったのだ。藍の将来を思えばこそ。
「あの時……君は運命はあると言った」
「はい……」
「私は、運命ならば番になっていた筈だと言った」
「……はい」
 だから運命なんか存在しないんだと否定され、その場を立ち去るしか出来なかった。
 結ばれないのならば、それは運命なんかではないのだと思い知ったのだ。
「つまりあの時、既に番が成立していた。それは運命があるという証拠になりはしないだろうか?」
 藍の父親の言葉に、永絆はキョトンとしてしまった。
 それではまるで自分と藍の事を認めているみたいに聞こえるではないか。お金をつんでまで離したがった人が何故、こんな事を言うのか。
「矛盾しているとは思うよ、自分でもね。藍が君を追い掛けてここまで来て、部下にそれをずっと見張らせていたのだって藍がすぐに音を上げると思ったからだ。知っての通り、藍はαの中で育ってきた。いつも上に立つ存在だった。何でも手に入る。苦労なんか知らない。そんな息子が君のためだけに生活を変えるなんて絶対に無理だと思っていた」
 住む世界が違うと、永絆も思っていた事がある。
 たとえ運命の番でも、藍は絶対に手の届かない存在だと。
 だからいつもどこか少しだけ距離を置いていた。すぐに離れられるように。
 けれど藍は、離れれば離れる程、距離を縮めてくる。実力行使で鎖に繋げてしまう程に永絆を離さない。
 今度こそは永久にお別れだと思ってこの寒い土地に一人で来たのに、それすら追い掛けて来た。
 これはもう、逃れられないのだと考えを改めるしかなかった。
 強烈な執着をされて、けれどそれがとても嬉しいのだからもうどうしようもない。逃げる事を諦めて心のままに藍を受け入れたら、今まで拒んでいたのが馬鹿らしくなるくらい藍で満たされていっぱいになった。
「藍は、初めて逢った時から、優しかったですよ」
 プライドばかりが高く、Ωを卑下するαは沢山いる。昔から力を持っている富裕層のα家系は特にそうだ。
 当然、藍もその中の一人。汚い言葉で罵ったり、奴隷の様に扱われてもおかしくなかった。
「発情したオレを助けてくれて、自分の手を傷付けてまでフェロモンに耐えてくれた。お互い惹かれあっていたのに名前も告げずに去ったオレを無理に引き止める事もしないで、いつ逢えるかわからない再会を待っていてくれた……」
 番になりたくないと勝手な言い分だけをぶつけて、逃げるように去った事を責めもせずに再会を笑顔で喜んでくれた。
「もう絶対に藍とは離れません」
 たとえ番になっていなくとも、この身に生命が宿っていなくとも。
 藍のいない人生なんて今はもう考えられない。
「君に覚悟があるのなら、藍と一緒にうちに来なさい」
「……え?」
 隣にいる藍を見ると、藍も動揺した表情で永絆を見た。
「子供を産み育てるには二人ともまだまだ未熟過ぎる。きちんとした環境で安心して子育てが出来る環境が必要だ。それにはここは不向きだろう?」
「産まれるまでにはもう少し広い部屋に引っ越すし、俺達より若い親だって沢山いる。助けはいらない」
 ここで簡単に紫ノ宮に戻ってしまえば、今まで二人のペースで作り上げてきた家庭を壊されてしまう気がした。
 産まれるまでは良くても、産まれたあとに子供と引き離されでもしたらという不信感も拭えない。
 やっと二人で新しく歩き始めた生活をめちゃくちゃにして欲しくはない。
「藍、彼のお腹の中には私の孫がいるんだ。お互い意地を張るのはやめて産まれてくる子供の為に協力しあいたい。永絆くんの事も含めて」
「そんなこと言って、産まれたら永絆を追い出したりしないって保証は!?」
「追い出したりなどしない。子供は親の元で育てるのが一番だ。私はただ、協力がしたいんだ。そして運命の番の行く末を見守りたい」
 別れさせようとしていたのに、何故そんな風に考え方を変えたのか永絆には不思議だった。
 けれど彼はずっと『運命』を気にしていた。もしかしたら彼の本心はそこにあるのではないかと思った。
「……貴方は、Ωを好きになった事があるんですか?」
 何の確証もない思いつきだった。
 紫ノ宮の跡取りがΩを好きに、なんて事は有り得ない話だ。藍を除いては。
「……運命の番ではなかったけれど、番いたいと思った人がいたよ。しかし当時の私は未熟で親に反抗も出来ない臆病者だった。運命の相手ならば許されたかもと何度も考えた」
 だから、と彼は話を続けた。少し切ない表情で。
「だから知りたいんだ。運命で結ばれた者がどうなるのか。私が諦めた過去が正しかったのかを」
「……でも……貴方が諦めたから、藍が産まれたんです。藍が産まれたから、オレは運命に出逢えた。オレは……それだけは貴方に感謝します……」
 複雑な心境ではあった。
 彼とそのΩの悲しい選択のおかげで今、こうして藍と幸せな暮らしが出来ている。それを感謝すればΩである自分を否定しているようで。
「俺も、産まれてきて今凄く幸せだよ」
 それでも藍が、こうやって笑顔で応えてくれるから。
 その幸せを大切にしようと心から思う。
「藍、誤解はしないでほしいから言うが、私はお前の母親と結婚した事を後悔はしていない。家同士の政略結婚ではあったけれど、お互い思いあっていた。だから藍が出来たと知った時は嬉しくて涙が出たよ」
「泣いたの?」
「恥ずかしい話だが号泣した。そして彼女と子供を必ず幸せにすると誓った。今でも彼女を愛しているよ」
 嘘偽りのない言葉は、飾らなくても心に沁み渡る。
 彼がΩと悲しい恋をしたことも無駄ではなかった。全て、意味があるから出逢う。
「その彼女がお前達を連れてこいって言うんだ。自分の子供が選んだ相手を信じてやらなくてどうするんだと。Ωの血を入れたくらいで没落するのなら所詮、その程度の力しかなかったんだ、ってね」
「……母さんが……」
「私は昔から彼女には頭が上がらないんだ。永絆くん、私達は君の事を歓迎する。決して子供を取り上げたり、君を追い出したりしないと誓う。誓約書を書いてもいい」
「いえ……そんな、そこまでは……」
 なんとなく、永絆には分かった気がした。
 藍が自分を絶対に諦めずに閉じ込めたり、ここまで追ってきたのは、両親の性格をきちんと受け継いでいるからだと。
「αの絶対的な社会もどんどん変わっていくだろう。Ωの待遇も良くなっていく。世の中が変わっていくのに、我々が変わらないでいるのは自ら首を締めているようなものだ。今が紫ノ宮にとっても、変革の時なのかもしれない」
 繋いでいた藍の手が、ぎゅっと強く握られた。
 それだけで藍が何を考えているか分かってしまう。
 向上心の強い藍が小さな町の工場の仕事で満足出来るはずがない。今の仕事を軽視している訳ではなく、その工場がもっと成長する方法を毎日考えていたのを永絆は知っていた。
 ここで燻っているのは藍のためにはならない。藍を我慢させたくはない。
「藍、オレも初めての出産で心配だから……藍が嫌じゃなかったら一緒に帰ってみない?」
「永絆……でも……」
「オレを藍の家族にしてよ」
 不安が全てなくなったわけではない。紫ノ宮に迎え入れられるという事は大勢のαの中に一人で乗り込むという事だ。
 いくら藍や、藍の両親が味方になってくれてもΩを蔑視する声は耳に入ってくるだろう。
 その中に踏み入れる覚悟。それがあるなら、と藍の父親は念を押す。
 怖くないとは言えない。きっと傷付く言葉を言われて嫌な思いをする事も多いだろう。それでも藍と一緒に居たいとそう思える。少し前なら怯えて逃げ出していた。
「藍のお母さんにも会ってみたいな。きっと素敵な人なんでしょ?」
 藍の父親を簡単に言いくるめてしまえるのだから心の強い女性なのだろう。藍から母親の話は聞いたことがないが、紫ノ宮に嫁ぐ程の女性だ。茉莉花の様に芯のある性格をしている気がした。
「……母さんは、放任主義なんだ。俺が何か悪いことをしても怒ったりしない。永絆を閉じ込めたのがバレた時も何も言わなかった。俺に関心がないんだと思ってた……」
「それは違う。違うぞ、藍。母さんは、私がお前に厳しくするからその分のバランスを取る為にお前を自由にさせていただけだ。跡取りとしてしっかり育てようとする私に、それなら自分は緩く育てると言ったんだ。そうしないと藍が窮屈な思いをするからと」
 紫ノ宮という家は、厳格で窮屈で古い考えの残るα至上主義の一族だという事で知られている。
 藍が紫ノ宮の跡継ぎだと知った時、絶対に藍とは結ばれないと永絆は思った。その考えはつい最近まで根強く残っていた。
 Ωを排除し、存在そのものを否定するαの一族に、運命の番だからといって簡単に付き合いを許される筈がない。だからこの運命は間違いなのだと何度も自分に言い聞かせていた。
 それが今、自分の覚悟次第で藍の両親にも認めてもらえる関係になれるかもしれない。
 どんなに生活が苦しくても、藍と子供さえ居れば幸せだと思う。けれど出来ることなら周りにも祝福されたい。叶わない恋だと諦めていた気持ちを成就させたい。
「藍という名前は、彼女がつけたんだ」
「母さんが?」
「そう……あなた次第、という花言葉だそうだ」
 いつでも、どんな時でも、あなた次第で運命は変わるのだと。
 名前に付けた温かい願い。
「藍……」
 胸が熱くなって、永絆は藍に抱きついた。父親の前だという事も忘れて、その胸に顔を埋めて息を吸った。
 花の匂いが微かに香る。
「オレの名前の由来も、なずなって花なんだ」
「ああ……白い小さな花だろ? 知ってるよ」
 急に抱きついてきた永絆を宥めるように髪を撫でる。小さな花を愛でる様に。
「再会した時に、名前を聞いてぴったりだと思った。永絆からはいつも花の匂いがしてたから」
 今も、いつでも感じる、控えめな花の匂い。その匂いに溺れた時からずっと、虜になったまま。
「あなたに私のすべてを捧げます」
「……うん?」
「なずなの花言葉。だから……だからね、オレはあなた次第、なんだよ」
「……そ、か……うん、そうなんだ……」
 あなたに全てを捧げるから、あなた次第でいくらでも咲き誇れる花になる。あなた次第で枯れて、あなた次第で芽吹く。
 全て、あなたに捧げたのだから。
「俺達は、花の名前で繋がりあってたんだな……」
「うん……うん」
 初めて逢った時に名乗らずに去った事も、再会してお互いの名前を知った時も、いつも花の匂いがしていた。
 それは花の名前で、花の言葉で、最初から繋がっていたから。
「……父さん、紫ノ宮に帰ります、永絆と二人で。永絆と、産まれてくる子供を護るために」
「分かった。迎える支度をしておこう。いつでも帰って来なさい。歓迎する。……勿論、永絆くんもだ」
「はい……あの、よろしくお願いします」
 頭を深く下げた永絆に倣って藍も頭を下げた。
 二人の頭をポンと軽く叩いて、藍の父親は立ち上がるとそのまま玄関へ行き部屋を出ていった。パタンとドアが閉まるまで、二人は頭を下げたままでい続けた。

 仕事を急に辞めるわけにはいかないからと、紫ノ宮に戻るのは一ヶ月後になった。
 その間も藍はしっかりと自分の仕事をこなし、手を抜いたりはしなかった。むしろやり甲斐すら感じていた藍は辞めるのを惜しんでいた。
 藍がこのまま仕事を続けたいと言うのなら永絆はそれに従うつもりでいた。ここに残るのも、紫ノ宮に戻るのも、全て藍に任せる事にした。自分は藍を信じて何処へでもついて行く。その覚悟がしっかりと出来ていた。
「なぁ、永絆」
「なに?」
 一緒の布団に並んで眠りに落ちる前に、藍が永絆の髪を撫でながら名前を呼んだ。
「本当に、紫ノ宮に行ってもいいのか? 無理してないか?」
「心配なの?」
「だってお前にとって決して良い場所じゃないだろ? ストレスがたまって身体に何かあれば大変だし……」
 もぞもぞと動いて藍の方を向くと、永絆はその背中に腕を回した。
「それでも藍と一緒にいたいから」
「それは俺もだけどさ……紫ノ宮じゃなくても、ここに居てもいいんだ。永絆が安心出来る場所で過ごすのが一番だろ?」
「藍、オレのね」
 いつもいつも、飽きるくらい番の事を考えてくれている藍をただひたすら愛しいと思う。
 出逢って直ぐの頃は自信家で威圧的で人の意見を聞き入れない所もあった彼が、今は別人のようだ。
「オレの安心出来る場所は、藍のいる場所だよ」
 色々な事があったけれど、結局は藍の元に戻ってしまう。そこが定位置なのだとはるか昔から決まっていたかのように、今は離れられないでいる。
「藍が行く場所にオレはついていく。藍が行きたい場所が、オレの行きたい場所だから。紫ノ宮に戻るのが藍にとって一番ならオレはそれに従うよ。藍を信じてるから」
「……俺は……紫ノ宮や古い体制の‪α‬家系をこれをきっかけに変えていきたいと思ってる。Ωが生きやすい世の中にしたい。その為には紫ノ宮に戻った方がいいと思ったんだ」
「そんな世の中になるかな……」
 Ωを軽視しない、優しい世界。
 Ωに産まれても誰も傷つかない、そんな世の中に。
「時間はかかるかもしれない。でも紫ノ宮には財力も権力も無駄にあるからさ、しっかり利用させてもらうよ」
 さあ、もう寝よう、と永絆の額にキスをして目を閉じる藍。
 その端正な寝顔を見つめながら、彼ならきっとΩにも生きやすい世の中に変えてくれると思った。
 元々は跡継ぎとして厳しく育てられてきた藍が、Ωを番にした事を正式に発表すれば世の中のΩ蔑視の風潮にも影響が出てくるだろう。紫ノ宮とはそういう家だ。
「藍ならきっと、大丈夫」
 仕事の疲れからか直ぐに寝息をたて始めた藍の頬にそっと手を伸ばし、撫でながら囁く。
「おやすみ、藍」
 
***

 真っ白な雪で覆われた土地から元々住んでいた土地に戻ると季節は春になっていた。
 いつの間にか、藍と初めて逢った季節は過ぎて、再会した時と同じ季節。
 広い庭に植えられた桜の木がヒラヒラと花弁を舞い散らせていくのを見ながら、この一年を振り返りお腹を撫でた。
 紫ノ宮に来て直ぐに藍の母親から大歓迎を受けた永絆は緊張と悪阻のせいで数日寝込んでしまった。その間も紫ノ宮で働く使用人達は甲斐甲斐しく永絆の世話をしてくれた。Ωだという差別的な視線も悪口も一切聞くことはなかった。
 よく教育されているのも勿論だが、藍が番を迎えた事に紫ノ宮に関わる全ての人間が温かく祝福をした。流石、紫ノ宮の跡継ぎ、偏見など持たず柔軟な考えの持ち主だと称賛される程だ。
 それを少し複雑な気持ちで藍も永絆も受け止めた。自分達が一年の間、真剣に悩み苦しんで駆け落ち紛いの生活をしていた事を誰も知らない。藍が選んだから藍に従う、といった周りの反応に困惑した。
 逆にそれだけ藍が紫ノ宮の跡継ぎとして期待されているという証拠でもあり、永絆もそれについては素直に嬉しく思った。
 体調も回復して改めて藍の両親と今後について話し合ったのは昨日。既に藍は大学へ復学し、跡継ぎとしての勉強も進めていた。
 寝込んでいる時に藍の両親に婚姻届の必要な箇所にサインを貰い、藍が直接、役所へ提出しに行った。苗字が変わった事に実感は全くなく、籍を入れた事もまだ信じられない。実は嘘でした、と言われてもすんなり納得してしまいそうだ。
 地に足がついていない。永絆の心境はまさにそれだった。
 今までとは全く違う世界で暮らし始めて、紫ノ宮の名前の偉大さを痛感する。永絆の中の藍のイメージはは紫ノ宮の跡継ぎという印象よりも、永絆を手に入れる為なら犯罪紛いの事も平気でやってしまう無鉄砲な印象の方が強い。
 それは今もそんなに変わりはしないけれど、二人で居る時の藍と、沢山の人に囲まれている藍とでは別人を見ている気になる。不安とは少し違う。どちらの藍も同じで、むしろ二人で居る時の藍が特別なのだ。
 自分はとても恵まれていて、贅沢をさせてもらっている。藍の子供を産む事で周りからは期待の目を向けられていて、たまにそれが窮屈でプレッシャーになったりもする。それでも藍と一緒なら些細なことだ。
「こんな所にいた」
 大きな紙袋を抱えてやって来たのは茉莉花だった。
 藍との婚約が白紙になって一番焦ったのは茉莉花の両親やそれを取り巻く環境の筈なのに、茉莉花は暇を見つけてはやって来て永絆とお喋りを楽しんでいた。
 きつい言葉をぶつけられた事すら今では懐かしい。
「ねえねえ、もう性別は分かったの? 実はね、服を買いに行ったら可愛い服があってつい買っちゃったの」
 そう言って抱えていた紙袋から出してきたのは赤ちゃん用の小さな可愛らしい服。
「茉莉花さん、お気持ちは有り難いんですけど……買い過ぎです」
 来る度に毎回、赤ちゃん用の服やおもちゃを大量に買ってくる茉莉花のおかげで藍と永絆が使っている部屋は溢れかえっている。そろそろ別の部屋を用意した方がいいかもしれないと本気で思う。
「だって可愛いんだもの! いいじゃない、私だって楽しみなの!」
「それは嬉しいんですけど、赤ちゃんてすぐ成長しますよ?」
「あら、それもそうね! 次からはサイズを考えて買ってくるわね!」
「いえ、だから……もう……わかりました、ありがとうございます」
 何を言っても茉莉花には通じないと諦めて苦笑すると、茉莉花は目をキラキラと輝かせた。
「私ね、本当に嬉しいの。紫ノ宮との婚約は形だけで恋愛感情なんて無かったし、貴方がこうやって認められた事で私も恋をしても諦めなくていいんだって思えるようになったの」
 小さな服を胸にぎゅっと抱きしめながら、茉莉花はまだ出逢っていない誰かを想う。それは恋に憧れを抱く、普通の少女の姿だった。
「家の為、‪α‬だから仕方ないってずっと誰かを好きになる事を諦めていたけど、二人が風向きを変えてくれた。だから二人は私の恩人なの。うちの家に迷惑がかかったとか思わないでね? そんな事くらいでなくなるような家じゃないから」
 その話も、もう何度も茉莉花から聞かされた。言われる度に茉莉花の芯の強さを羨ましく思う。たとえどんな事がこの先あっても彼女なら乗り越えていけると想像出来る。
「素敵な人と出逢えるといいですね」
 心からそう思う。彼女の家やお金や権力なんかに振り回されたりしない、彼女自身をちゃんと見てくれる人が現れる事を。
「永絆」
 庭先のガーデンテーブルに座って茉莉花と服を見ていると、今度は藤が紙袋を抱えていつもの穏やかな笑顔でやって来た。
 彼も時間さえあれば永絆の体調を心配して会いに来てくれる。
 番になろうと言われたのに返事もせずに姿を消した永絆を責めもせず、藍と番になった事を喜んでくれた藤には感謝してもしきれない。
「藤、いらっしゃい」
 藤が来ると藍はいつも焼きもちを妬いて不機嫌になるけれど、藤はそれを分かっていてわざと来ているようだ。せめてもの仕返しなのかもしれない。勿論、そのくらいで喧嘩をするような事はないのだが。
「はい、これ」
 紙袋からは沢山の絵本と姓名判断の本。茉莉花と同様、藤も来る度に見つけた本を持ってくる。本棚には収まりきらない数の絵本が並び、子供の名前の決め方事典も増えてきた。
「絵本は嬉しいけど……名前の本はもういらないよ」
 たまに藍が名前事典を何冊も開きながら紙に候補の名前を書いているのを見かける。本の数だけ名前の候補が増えている現状だ。
「でも、ほら、名前って大切だよ!? なんなら代わりに付けたいくらいだよ!」
「気持ちだけ受け取っておくね」
 この二人は本人達より子供が産まれてくることを楽しみにしているんじゃないかとたまに思う。あんなに迷惑を掛けて利用した藤も、本来なら藍と結婚する筈だった茉莉花も、番になった事や子供が出来たことを怒りもせず、ただ心の底から喜んでくれた。
 そしてそれは今も変わらず、日に日に膨らんでいる。
 藍の両親も最初はぎこちなかったけれど少しずつ打ち解けてきた。特に藍の母親はとてもパワフルな人で緊張する永絆の心にあっという間に入って来て、知らなかった母親というものの温もりを与えてくれる。
 それは忘れていた実の母親の温もりを思い出させて、ちょっとだけ胸が軋むけれど。
 その軋みもいつかなくなってしまうだろう。こんなに周りから優しくされ、大切にされて暮らしている事が過去の痛みを和らげる。
「……幸せだなぁ」
 誰にも聞こえない様に呟いた。無意識に笑みが浮かぶ。
 茉莉花と藤が持ってきた物の見せ合いを始めているのを見ながら、桜が舞い散る気配を感じていた。
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