はなのなまえ

柚杏

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終章

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 毎日は平穏に過ぎていく。
 桜が緑の葉だけになって、暑い夏に凛と咲く向日葵の黄色が眩しい季節を越え、残暑がしぶとく主張した頃、小さな小さな生命の産声が響き渡った。
 その声は新しい未来を切り開く激しい感情の爆発。
 握りしめた小さな拳からは幸せが溢れていた。

***

 何もかもが初めての育児を藍と共に何とかこなす日々は、大変な事も多かったけれど喜びはその倍以上にあった。
 大学へ行きながら、紫ノ宮の家の仕事も父親から教わっていた藍はいつも忙しくしていて、産まれたばかりの赤子の不規則な生活に疲れ果てていた永絆とはすれ違う事が多かった。
 それでも時間を作っては少しでも永絆を休ませる為に子供をあやし、いつまでも腕の中に包んで慈しみの瞳で我が子を見つめる藍の姿に、永絆もまた癒され救われていた。
 出来るだけ自分達で世話をしたくて沢山いる使用人や、その為だけに雇われていたベビーシッターの介入を断っていたが、藍の母親の一言で周りの助けを素直に受け入れる事にした。
「みんな、貴方達の家族なのよ」
 彼女の言葉は時に厳しくもあり、時に深い愛情が込められていた。
 彼女がいなければ紫ノ宮の中で永絆は孤立していただろう。今では使用人の誰にでも怯える事無く話しかけられる。紫ノ宮の中を牛耳っているのは間違いなく藍の母親だった。
 沢山の人に支えられ助けられ、気持ちにも余裕が出来て我が子への愛情もより深いものになった。
 夜、まとめて眠ってくれるようになった子供の寝顔を見ていると涙が出そうなくらい幸せになる。
 こんな幸せが自分にやって来るなんて思いもしなかった。Ωである以上、何事も期待してはいけないと思って生きてきた。譲れないものがあっても諦めなければいけないのだと。
 けれどもう、何一つ諦める必要はない。譲れないものがあるなら簡単に手放してはいけないのだと学んだ。必死でもがいて、縋り付いて、泣き落としでもみっともなくても、これ以上は後悔はないというくらいまで足掻いていく。
 それは時に他人を不愉快にさせ、嫌われてしまうかもしれない。それでも後悔をするよりはやれる事をやり切ってから反省すればいい。
 欲張りに、貪欲に、Ωだって誰よりも幸せになっていいのだと主張していきたい。
 藍の様な周囲を魅力する術は持ち合わせてはいないけれど、少しずつ確実に、自分の出来る力で藍の支えになっていきたい。
 藍が望む、Ωの生きやすい社会のほんの一欠片だけれど。
 番である事を誇りにして、これからも藍の傍で見つめ続ける。藍が世の中を変えていく姿をしっかりと目を見開いて記憶し続ける。
 それが永絆の出来る事。小さな事だけれど、いつか実になればいい。
 これからはそうやって家族を守りながら生きていこう。
 寝息をたてながら眠る我が子を見つめながら、そんな風に考えていた。

***

「永絆?」
 部屋の扉をノックする音と共に藍の声がした。
 ベッドの上でシーツにくるまったまま、永絆は小さく「おかえり」と返事をする。
 ずっと忙しくて夜遅い帰宅だった藍がいつもより早く帰宅したのは自分のせいだと思うと申し訳なくなる。頑張って家の仕事と学業を両立させている藍の足でまといにはなりたくなかったのに。
「具合が悪いって? 熱は?」
 扉の向こうから心配する声に「大丈夫」とだけ答えた。
「中根には診てもらったんだろ? なんて言ってた?」
「心配しなくて大丈夫だよ。早く帰ってきてくれてありがとう」
 まだ小さな子供は藍の母親が相手をしてくれている。優秀なベビーシッターもいるから、こんな時はとても助かる。
「中、入るぞ?」
「だっ……だめっ!」
 永絆の拒む言葉が一瞬遅く、扉を開けて藍が入って来ようとして入り口で立ち止まる。
 被っていたシーツの隙間から覗くと驚いた顔の藍が見えた。
「永絆……この匂い……」
「早く出てって!」
 この部屋に充満しているのは紛れもないΩの発情フェロモンだ。番がいなければ見境なく誘惑してしまう強烈な。
「そんな事出来るわけない」
 後ろ手に扉を閉めて藍がベッドに近付いてくる。慌ててシーツで全身を隠すが永絆から発せられるフェロモンはシーツ一枚じゃ塞ぎきれないほど強いものだった。
「発情期、なんだな?」
「ちが……これは……」
 元々不安定だった永絆の発情期とそのフェロモンは、番った後も変わらず不規則だった。妊娠中にも発情期は起こらず、出産した後も一度も発情しないままだった。
 中根にも定期的に診てもらっていたが、特に身体に異常があるわけでもなく検査をしても何も出なかった為、もう発情期はなくなってしまったのだと思っていた。
 別にそれでも何の問題もなかった。発情中の理性の飛ぶ様な行為まではいかないものの、藍は発情期など関係なく永絆を求めるし、永絆もそれを受け入れていた。まるでβ同士の様な営みは互いの感情を強く確認出来て満足していた。
 一つ問題をあげるとしたら、発情期がなくても子供を作れるかどうかだった。生殖機能には何ら問題がないと中根には言われていたが、発情期のΩの妊娠確率の高さは常識だ。もしもう一人欲しくなった時に出来なかったらどうしようと悩んだ。
 今はまだお互い未熟ですぐに二人目を考えてはいないが、将来的には欲しいと思っている。その時の為にも発情期がきちんと同じ周期で来るようになってほしい。
「永絆? 何か不安なのか?」
 ベッドサイドに腰を掛けてシーツ越しに撫でられる。心配している藍とは対照的にたったそれだけで身体が熱く火照った永絆は自分が酷く厭らしく思えた。
「発情期が来るのは普通の事なんだから、むしろ今までが異常だったんだ」
「でも……藍に迷惑が……」
 番になるとフェロモンはその相手だけしか感じなくなる。だからきっと今も藍は理性を飛ばさないように堪えているはず。番っているのだから発情期に多少乱暴な行為をされても合意しているのと同じなのに。
 藍はきっと、この先何度、発情期を迎えようと無理やり行為に及ぶ事はしないだろう。閉じ込められていた間も本気で嫌がって抵抗すれば抱いたりしなかっただろうと思う。鎖だって、扉の鍵だって、逃げようと思えばいつでも逃げるチャンスはあった。
 散々抱いて眠ってしまった藍の隙をついて逃げ出すことは、本当は可能だった。それをしなかったのは、逃げたいと思わなかったからだ。閉じ込められて藍の腕の中で縛り付けられている事に幸福感を持っていたからだ。
「迷惑なんかじゃない。番になるって、永絆のΩとしての体質も受け入れるって事だろ。何にも心配しなくていいんだ。俺が全部受け止めるから」
「藍……」
 シーツから顔を出すと、シーツの中に篭っていたフェロモンが波のように部屋中に溢れかえった。
 クラクラとする感覚に藍は口唇の端を噛んだ。強烈な匂いに負けてしまいそうだ。
「……この花の匂い……久々な気がする……」
 何か話していないと意識を持っていかれそうになる。永絆を力任せに抱いてしまいそうで、必死に理性を保つ。
「藍……我慢しないでいいよ。オレもαの藍をきちんと受け入れたいんだ。全部、受け止めたい」
 怖い事なんて一つもない。藍さえ迷惑だと思わないなら、それでいい。藍の好きにしてくれて構わない。少しくらい乱暴でも、理性が飛んで明日、身体が動かないくらい激しく求められても。
「永絆……」
 それでも口唇を噛む藍の頬を両手で挟んで永絆の方からキスをする。噛むのを止めさせる為にした口付けだったけれど、それはすぐに舌の絡まり合う濃厚なものへと変わった。
「ふっ、んっ……」
 舌の先から痺れが走り、脳を揺らす。
 熱い。ただただ熱くて、高揚していく。
 永絆から発するΩの発情フェロモンが、藍のαの身体を狂わせていく。藍から溢れてくるα特有のフェロモンは、Ωの発情に反応して醸し出される。それは番同士だとより濃く、強いものへと変化する。
 二人のフェロモンが混ざり合い、狂おしい程の劣情を抱かせる。
「永絆っ……」
 理性を手放したい。本能に身を任せて永絆を強く抱いてしまいたい。後のことなど何も気にしないで一晩中、出来ることなら発情期の間ずっと繋がっていたい。
 だけどそんな無理はさせられない。子供だってずっと誰かに預かってもらう訳にはいかない。自分の事が忙しくて、もっと子育てに協力するつもりでいたのに思うように時間がとれなくて歯痒いばかりだ。
 それでも、文句も言わずに居づらい筈の紫ノ宮の家で毎日帰りを待ってくれている永絆を、もっと大切にして、甘やかして、溺愛したい。丁寧に抱いて、何度でも愛の言葉を囁いて、永絆の望む事の全てをしてやりたい。
 だから理性は手放せない。本能のままで抱けば永絆の身体が辛くなる。永絆には限りなく優しく接したいのだ。
 それなのに、荒い吐息の合間に永絆が囁く。
「ね……藍……。いいんだよ、藍の、好きにして……ん、あっ……。オレ、オレね……藍に、思い切り、抱かれたいんだ……」
 プツリと何かが頭の中で切れた。
 気が付くと永絆の着ていた衣服を剥ぎ取って、その素肌のあらゆる場所を舌で舐め回し真っ赤な痕で独占欲を印していた。
 その手で触れる少し汗ばんでしっとりとした熱い肌。舌で身体中を這うと背中を逸らしながらビクビクと感じる敏感さ。
 永絆の口内を掻き回す指は永絆の唾液にまみれ、強制的に開けられた口からは甘く切ない声が漏れる。
 その声だけで達してしまいそうだった。
 何度も抱き合った番の身体の何処を刺激したらいいのかはとっくに熟知している。その箇所をいくら攻めても永絆はいつも一本、線を引いているような反応しかしない。完全に快楽に身を委ねて堕ちてしまうのを怖がっているようだった。
 それは今まで生きてきた環境が無意識にさせているのだろう。交わる事にΩとしての後ろめたさや悲しい過去があるせいで、藍の腕の中ですら理性を捨てきれずにいた。いつか永絆が心の底から安堵して、淫らに溺れて堕ちていける日が来る事を待っていた。
「あっ……! あいっ、ああっ……やぁっ……」
 永絆の腰を持ち上げて露わになった後孔に口唇を寄せる。まだ触れてもいないのに既にそこは蜜で溢れ甘い匂いを漂わせていた。
「はっ、あっ……」
 舌先で蜜を舐めとると口内に甘美な味が広がった。あまりにも美味しくて、どんどんと溢れてくる蜜を夢中で舐めて吸い取ると、その窄みの中にまで舌を入れて舐め尽くした。
「やあっ……藍っ、だめ……そんなっ……んっ、はっあっ……」
 ずっと待ち望んでいた、永絆が快楽で乱れる姿を見る事を。気持ちよくなる事だけしか考えられなくなる事を。
 番になっても尚、藍に遠慮しがちな永絆の殻を破る事を。
 やっとその殻にヒビが入った。発情期というものの力を借りてだけれど、一度その快楽を知れば何度でもそれを欲して殻を自ら取っ払うだろう。
 これでやっと、身も心も通じ合った本当の番になれる。
「永絆……永絆、好きだ」
 散々舐め尽くしたそこは柔らかく湿り、屹立した藍の熱を宛てがうとヒクヒクと蠢いて取り込もうとしていた。
「永絆が大好きだ、本当に……心から、ずっと、初めて出逢ったあの日から……」
 手を伸ばして永絆の頬に触れた。
 紅潮した頬を藍の手に擦り寄せながら、永絆は腕を藍の背中に回す。
 ゆっくりと、熱の塊が濡れ窄む秘部を押し広げ入っていく。息を吐いては吸い、奥へと導くように力を抜いて受け入れる。
「永絆……永絆……」
 何度も囁かれる名前に耳から犯されている気分になる。
 自分の名前がこの世界で一番特別な名前になったような錯覚をさせてくれる低くて甘い声にうっとりとしていく。
「ふっ、う、んっ……」
 熱く蕩ける中に番の楔がどんどん進んでいく。乱暴でもなく、かと言って優しすぎる訳でも無い。欲望と愛情に満ちた強さ。
「愛してる……永絆、お前だけが俺の全てだ」
 もう何回も伝えられてきた愛の言葉。何度も何度も、行為の最中も、毎日の挨拶の中でも告げられた藍の気持ち。
 その度に恥ずかしくなって、「うん」としか答えられずにいる永絆をそれでも優しい眼差しで見つめてくる藍。
 ああ、でも今日は素直に言えそうな気がする。
 発情期の勢いを借りて、「うん」以外の言葉で藍に伝えられる。そんな気がする。
「藍……藍、藍……あい……」
 名前を呼ぶ度、愛おしさが増していく。だから藍は何度も自分の名前を呼ぶのだと気が付き、余計に愛しさが募った。
「はっ……あっ! あっ、あ、やっ……あ、いっ……」
 最奥へと到達した熱が永絆の中を抉る。その過ぎる快感に腰を浮かせて喘ぐ。
「あっ、んんっ……」
 元来た道を戻る熱の塊に全身が痺れて、今日こそはと思っていた言葉が飛んでいってしまいそうになる。
「永絆……くっ、あんま締め付けんな……やば、いって……」
「んっ、あっ、だっ……てっ……あっ、やっ」
 発情期のせいでいつもより敏感な身体は少し動くだけで電流を走らせる。知らず知らずに中を締め付けて藍を離そうとしない事に永絆自身、どうしたらいいか分からないまま快楽を拾っていく。
「藍っ……藍っ……」
 それでも必死に伝えようと乱れる吐息の合間に言葉を紡ぐ。
「好き……藍っ、好きっ……」
 違う、この言葉じゃない。もっと深い感情を伝えたいのに、永絆の中で暴れる藍の熱が思考を鈍らせていく。
 ドロドロに蕩けた中を奥まで突き、一気にギリギリまで引き抜かれる。抜ける、と思った瞬間また奥まで貫く硬いモノに翻弄され、一番敏感な箇所を掠められると我慢の限界を迎え白濁を自らの腹の上に吐き出した。
「はっ、あ、あぁ……」
 脱力感に襲われ気が遠くなる。思い切り吐き出した筈の自身の先端からはまだダラダラと液体が零れている。
「永絆、ごめ……俺、まだだから……もう少し……」
 眠気がやって来てウトウトしかけていた永絆の目を覚まさせる様に、藍がまた腰を奥へと打ち付け始めた。
「ひっ……あっ、だっ……めっ」
 達したばかりの中を掻き回す番の熱は永絆の身体を再び燃やす。
 垂れていた白濁は留まる事を忘れ、決壊したかの如くイき続けては流れた。
「やっ、あ、あいっ……やだっ、あっ、も、むりっ……」
 ヤダと言っても、無理だと言っても藍の動きは止まるどころか速さを増し、永絆の中にある快楽のツボをゴリゴリと何度も刺激した。
「なず、なっ……」
 ギュッと強く抱き寄せられ密着した肌と肌。自らが吐き出した白い液体が互いの身体を滑らせ卑猥な音をたてる。
「藍っ……あいっ……すき、すき、だよ……あっ、愛してるよ……」
 それは自然と出てきた。何度も言おうとして快楽に負けた言葉。抗う事をやめて快楽に浸り、藍だけを感じて委ねた瞬間に零れ落ちた。
 その言葉に藍の律動は激しさを増し、深く舌を絡め合いながらのキスをしながら最奥を抉り、永絆がもう何度目かわからない昇天を迎えると同時に藍の熱も勢いよく爆ぜた。
 腹の奥に熱いモノが溢れているのを感じる。脈打つ藍の形に自分の中がピッタリと合っている。一つに繋がる為にお互いの形が成されているのだと。
「……永絆、大丈夫?」
 ゆっくり腰を引こうとする藍を自らの足を巻き付けて拒んだ。
「永絆……?」
 引くことも抜くことも出来ずにまだ中にいる藍の形をじっくりと感じていた。まだ離れたくない。まだ繋がったままでいたいと、思うより先に身体が動く。
「もう少し、このままでいて……」
 何度も果てて身体中ベトベトで早くシャワーを浴びたいだろうけれど、まだあと少しだけ藍を感じていたい。
 発情期がこれで治まった訳ではなく、ある程度出したお陰で少し楽になったけれどまた直ぐに身体は疼き始めるだろう。
 中根からは昼間のうちに抑制剤を貰っていたが、元々発情期が安定していない永絆に対して「飲まないで平気そうなら今回は抑制剤なしで様子を見て」と中根は言った。永絆も発情期の周期を正したかったので飲まないで我慢していた。紫ノ宮の屋敷には部屋は余る程あるから、一週間別の部屋で過ごす事も可能だしフェロモンは藍にしか効果がないから他の誰かを誘惑する心配もない。
 藍には事情を話して発情期が終わるまでは離れているつもりでいた。だけど発情期の自分を藍は受け入れてくれた。何も心配しないでいいと言ってくれた。
 だからもう、藍に全て任せて自分はワガママでいようと思った。
 発情期の間だけ、藍を独り占めして好きなだけ睦み合いたい。鎖で繋がれていた時よりももっと頑丈な見えない鎖で、お互いを雁字搦めにするように。
「……まだ俺、足りてないから……離さないとどうなっても知らないからな?」
 中に入ったままの藍の半身がピクリと小さく動いたのが分かった。
「ん……好きにしていいよ。オレももっと欲しいから……」
 どれだけ求め合って繋がりあっても、暫くは止められそうにない。辛うじて残っていた理性の欠片は獣の様に貪り合うキスで砕け散った。
 後はもう、その性の本能のままに発情しあう、唯一無二の番の檻に戯れるだけ。

***

 沢山の花に囲まれた不思議な場所に立っていた。
 心地の良い風が吹いて少し伸びた前髪を揺らす。その度に満開に咲き誇る花から匂いが溢れ、永絆の元にも優しく匂いを運んできた。
 ここは何処だろうと辺りを見渡す。少しだけ傾斜のついた丘のような場所で、周りは花園みたいだ。
 その丘の下で、小さな子供が緑に敷かれた芝生にちょこんと座って、もみじみたいに小さな手で花を摘んでいる。そのすぐ傍には子供を見守りながら優しい笑みを浮かべる番の姿があった。
 時折、吹く風で二人の会話は聞こえてこない。近くに行こうと足を進め始めた途中で、視線に気が付いて振り返った。
 丘の上の方、逆光で顔がよく見えないけれど確かにそれは永絆のよく知る人物だった。
 思わず駆け寄ろうとした永絆にその人はニコリと微笑んだ。逆光で見えない筈なのに、確かに微笑んだ様に見えた。
 そして丘の下にいる二人を指差して、また笑顔を見せた。
「――っ!!」
 名前を呼ぼうとしたのに声が出なかった。喉に何かが詰まったみたいに言葉が風に消えた。
 手を振る彼に手を伸ばすけれど、その手は届かない。届かないと知っていて、それでも伸ばさずにいられなかった。
 貴方がいてくれたから、辛い時期を乗り越えてまた生き直そうと思えた。
 無償の愛情をくれたから、それに応えたいと頑張れた。
 Ωである哀しみや辛さ、そして何より誰かを愛して共に生きる事の歓びを知る事が出来た。
 全て、あの日貴方があの公園で見つけてくれたから。手を引いて居場所を作ってくれたから。
 これからも悲しい事や辛い事は沢山あるだろうし、それはΩだからだけではない。生きていくには誰もが多少の傷を負う。それでもまた傷を癒し、癒してもらいながら生きていく。
「貴方の生き方は、幸せでしたか……?」
 その答えは永遠にわからない。彼は答えをくれないまま去ってしまったのだから。
 でもそれでいいのだと永絆は思う。彼には彼の生き方、愛し方があった。それを最期まで貫いたのだ。
「オレは、オレの幸せを生きていきます」
 彼に背を向けて丘を下りていく。後ろを振り向く事はしなかった。振り向かなくても、彼が優しく見守ってくれているのを感じられたから。
 芝生の上で座る子供の前にしゃがむと、嬉しそうな顔で作っていた小さな花束を差し出した。
「くれるの?」
 もみじの様な手から花束を受け取ると、弾けそうな笑顔で喜ぶ子供。
「ありがとう、大切にするね」
 自分の身体から産まれてきた小さな生命の温もりに涙が出そうになった。
 この子がαでも、Ωでも、なんだって構わない。かけがえのない愛しい我が子がただ健やかに成長してくれるなら、それ以上の幸福はない。
 傍で見守る番を見ると、彼も幸せそうに顔を綻ばせていた。
 いつでもそこに、見守ってくれている存在がある。それがこんなにも心強く頼もしく思える。
 番の前まで行き花束を見せると、そこからは花園のどの花よりも甘く気持ちの安まる匂いが立ち込めた。
 この花の匂いには覚えがある。
「初めて藍に逢った日の、あの花の匂いだ……」
 忘れられない強い衝撃を受けたあの日のあの匂い。以来、その花の匂いは微かだが絶えず藍から漂ってきていた。一番安心する、藍の匂いだ。
「お前と同じ、花の匂いだな」
 そう言って口唇にキスを落として藍が微笑むから、永絆も嬉しくなって笑顔を返した。
 この夢が覚めたら、一番最初に藍の名前を呼ぼう。
 誰よりも何よりも愛しい、運命の番の名前を。
 毎朝、目が覚める度に呼べたならいい。喧嘩した日の朝でも、時間が合わなくてすれ違った次の日の朝でも。
 毎朝、一番最初に口にする名前が番の名前であれば。
 それが何よりも幸せなんだ――。

***

 そっと目を開ける。
 隣にはまだ寝息をたてて眠る藍の姿がある。
 その寝顔を黙って見つめていた。藍が目を覚ますまでずっと、飽きもせずに。
 やがて、もぞもぞと動き出した藍が薄目を開けてこちらを見た。
 まだ眠気眼の瞳に永絆の姿が映る。
 そっと口付けて、永絆は言葉を紡いだ。
 

 それは愛しい花の名前だった――。
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