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第一章 神に選ばれしもの
語り継がれる神話
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「――えっと、それは……」
春彦の直球すぎる質問に、桃子は戸惑った。
この学園の中で、桃子が虐げられている理由を知らない者などいない。あらためて誰かに説明したことなどなかった。
「何も――ずっとこの状況が続くわけではない、と思うの。明日の選定の儀が終われば、全部解決するはず。私が巫女姫に選ばれるわけなんてないから、西宮くんが私を遠ざける必要もなくなるし……」
「西宮くん? それが、桃子さんがないがしろにされる原因を作った人ですか」
やけに敵意を感じる口調に、桃子はやや焦った。
「い、いえ、私の言い方が悪かったわ。この町の内情を知らない春彦くんには、ピンとこなくて当然よ。それに、私の事情はともかく――この町のことに関しては、春彦くんも知っておいたほうがいいと思うから、一から説明するね」
「お願いします」
……とは言ったものの、桃子自身、外から来た人に何から話し始めればいいのか、塩梅がよくわからなかった。
「そうね、まずは……この町の信仰に関わることなんだけど。国生みの古い神話はわかる?」
「国生み……神話……?」
「そう、古事記とか日本書紀。この国を、神様がどう創ったかという話。外から来た人には突拍子もなく思えるかもしれないけど、この町では古くから信仰されてきた土地の礎とも言えるものなの。それが明日の選定の儀にも繋がっている。少し長くなるけど……」
「構いません、教えてください」
桃子はゆっくり頷いた。
「まず最初に、男女の対の神がいたの。男神の伊邪那岐と、女神の伊邪那美。力を合わせてこの国の大地を創り、たくさんの国津神を生み出して、国を豊かにした。けれども、火の神を産んだときの火傷で女神は亡くなり、黄泉の国へと旅立ってしまう。女神の死を悲しんだ男神が、黄泉の国まで追いかけていくのだけど、そこで醜く変わり果てた女神の姿にショックを受け、命からがら逃げ伸びる。男神は千引の岩で黄泉の国との道を塞ぎ、永久に女神との縁を絶った。
そして、男神は死者の国で受けた穢れを洗い流すため、禊を行う。左目を洗うと天照大御神が、右目を洗うと月読命が、そして、最後に鼻を洗うと、凄まじい荒神――須佐之男命が生まれた。この三柱の神が、三貴子と呼ばれる神々で、日本神話で特に重要とされているんだけど……ここまで大丈夫? あまり上手く説明できなくて……」
春彦は桃子の話を不思議そうに聞いていたが、ここでふと思いついたようにつぶやいた。
「……桃……」
「え?」
「――桃の実を……投げたという逸話が、そのどこかにありませんでしたか……?」
そう言われて、桃子もはっとして頷き返した。
「そう、そうよ。黄泉の国で女神の手勢に追われた男神が、桃の実を投げつけて逃げ伸びたの。桃には、悪いものを寄せつけない力があると言われているから」
「やっぱり……そうですよね。今の話と桃子さんのお名前とで、なんだか急に頭に浮かんできました。僕はその古い神話を、どこかで聞いたことがあるのかもしれません」
「そう。有名な話だから、知っていてもおかしくないと思う。それなら、その続きもわかる?」
「いえ、そこまでは……」
かぶりを振る春彦に、桃子は説明を再開した。
「さっき話した三貴子の末の荒神――須佐之男命が、この町にとっては馴染みの深い、特に信仰され続けている神様なの。須佐之男命は荒神と呼ばれるにふさわしく、数々の悪事を働いては太陽神である姉神を困らせ続けた。そして、ついには罰として、天から追放されて地上に降り立つ。
そのとき地上では、八岐大蛇という八頭の大蛇が暴れていて、若い娘を生贄に差し出すよう何度も要求していた。それを憐れんだ須佐之男命は、大蛇を仕留め、そして救った娘を妻にめとった。その子孫が、この町の住民――私たちなのだと伝わっている」
「な……なるほど。――でも、それはただのおとぎ話なんですよね……?」
春彦にそう言われることを想定していた桃子は、少し困り顔で笑った。
「ええ、おとぎ話だと思われているわ。――峰の外では。今の話がおとぎ話ではないと証を立てるとすれば――。そうね……春彦くんがさっき見た、あの鬼火。ああいった力がこの町の人々に宿っているのは、私たちが、いまだ神の血を濃く受け継いでいるからだと言われているの」
「神の血……?」
途方もない話だと思われることは百も承知で、桃子は続けた。
「狭い土地で血族結婚を繰り返してきた結果だそうよ。……もっとも、私は出来損ないで、そういう力は少しもないんだけど。だから、これは私を例外として聞いてほしいんだけど」
桃子は少し口ごもりながら話を続けた。
「産巣日町には、最も神の血を濃く受け継ぐ一族と見なされている家が四つあるの。四方家(しほうけ)と呼ばれているんだけど。それが東宮、西宮、南条、北条の家のこと。四つの方角に連なる名のとおり、町の四方にそれぞれの社を配し、この町をずっと昔から守護し続けている。東宮にはこの世のすべてを束ねる王者の力が、西宮にはあらゆる武を司る力が、南条には界を結ぶ力が、北条には幻術を操る力が備わっている」
「南条……。それは、桃子さんのおうちのことですか?」
「――そう、一応……。でも、何度も言うけど、私個人には特別な力なんて宿っていないから」
春彦は、少し考え込んでいた。
「……つまり、この町には、僕がさっき見たような不思議な力を持つ人たちが、他にもたくさんいるということですか」
「そうよ。能力の種類や力量は、人それぞれだけど」
「そんな重大な秘密を、僕が聞いてしまっても大丈夫なんですか。そういった話は、本来秘め隠されるのが普通では……」
「構わないの。どうせ峰外に出てしまえば、幻術ですべて忘れてしまうことだから。北条の力でね。だから、この町の秘密は今までずっと守られてきた。この土地に、いまだに神が降り続けているということも、外の人たちは決して知りえない」
「え……それは、どういう……」
春彦が目を瞬かせた。
「神が、降りる……? まさか。今うかがった神話に登場するような神が、本当にこの町に現れるとでも?」
さすがにここまでは信じられない、とでも言いたげに、春彦は言葉尻を濁した。桃子は春彦の戸惑いを受け入れ、ただ静かに頷く。
「そうよね。いくらなんでもこんな話、簡単には信じてもらえないと思う。私もこの目でその瞬間を見たことはないから、どちらかと言えば春彦くんの気持ちのほうが理解できるもの。……一つ言えることは、歴代の大巫女様の占で、この地に大きな災厄が降りかかると出たときに、神が降臨するそうよ。選ばれた者の体を憑坐としてね。そこで神の御意思に従えば、災厄は無事に退けられるの。
過去に数回、神意に背いた事例があるらしいんだけど、そのときは占どおり、災厄がこの町を襲ったというわ。災厄というのは、主に地震や洪水、台風なんかの自然災害や、重篤な感染症が蔓延したりすること。でも、神意に従いさえすれば、災いを退けることができる。だからこの産巣日町は、この国でもっとも自然災害や病気が少ない平和な町となりえたの」
「そんな……そんなことが、本当に……?」
春彦は当惑しながらも、桃子が嘘を言っているとも思えず、ただあふれる疑問を口にするしかなかった。
「そもそも、神の意思ってなんなんですか。その神は、あなた方にいったい何を要求するんです」
「さっきの須佐之男命の話に戻るんだけど……」
桃子は春彦をなだめるように、穏やかな口調で語った。
「須佐之男命が八岐大蛇を退治したと言ったでしょう? あれは、神話の上ではそう伝わっているけど、本当は、大蛇を完全に倒すことができなかったの。だから、自身の体内で大蛇を封印した。つまり、どういうことかというと、須佐之男命は三貴子の一柱でもあり、また八岐大蛇という邪神でもあるということなの。
須佐之男命は大蛇から救った娘を妻として迎えたけど、それは見方によっては、娘は結局大蛇の供物になったということでもある。以前は荒ぶる神だった須佐之男命が、その後この地に安住したのは、妻となった娘が鎮めの技を持っていたから。でも、その技の効力はもって数百年とも言われていて、その期を過ぎると、大蛇でもある須佐之男命は、再び荒ぶる兆しを見せる。それを鎮めるために、選定の儀があるのよ」
桃子は淡々と告げた。
「須佐之男命は、この地を災厄から救う善神でもあり、また同様に、破壊しようとする邪神でもある。だから、須佐之男命がこの地に降臨するための現身として、器となる憑坐を一人選んだのちに、それを鎮めるための巫女姫も一人差し出す必要があるの。それが神の要求するもの。つまり選定の儀というのは、須佐之男命の憑坐となる者と、その荒魂を鎮める巫女姫を、それぞれ選ぶための儀式なのよ」
「それはもしかして、生贄として命を差し出すというのでは……」
「まさか。いくらなんでも、そこまで昔にならったりしないわ。それに、憑坐や巫女姫だって、今では儀式上でのただの役割に過ぎないのよ。もちろん、神話のように二人が婚姻しなければならないということもないし。――でも、いくら形式的な関係とはいえ、町で一番重要視されている儀式を共同作業で行う以上、生涯にわたって二人のあいだに特別な絆が生まれるのは事実だと思う。だから――」
桃子は少し言い淀んでから、小さく息を吐いた。
「だから、西宮くんは私を避けているの。もし西宮くんが憑坐に選ばれたとき、巫女姫に私が選ばれないように。彼は私をとても嫌っているから。憑坐は神に選ばれるものだけど、巫女姫の選定は、憑坐の意思に大きく左右されるらしいから」
桃子はそう口にして、誤解のないようにと慌てて補足した。
「あ、あのね、でもそれは、南条家が歴代にわたって巫女姫に選ばれることが多かったというだけで、私自身が選ばれる可能性が高いという意味では決してないのよ。何の神力も持たない者が、憑坐や巫女姫に選ばれることなんてまずありえないから。選ばれてきたのは、いつだって、誰もが認める高い能力を持っている特別な人だけ。だから、西宮くんのはただの杞憂なのよ。
東宮のご子息がこのまま現れなければ、たぶん、憑坐は西宮くんで決まりだと誰もが思っている。西宮くんが憑坐に、そして北条家の忍ちゃんが巫女姫に選ばれて、選定の儀が無事に終われば、私は完全に部外者になるから、西宮くんが私を避ける理由もなくなって、今のこの状況も少しは変わるかと……」
桃子の話を黙って聞いていた春彦が、ふいにつぶやいた。
「その西宮という人は、僕には少し、かわいそうに思えてしまいます」
「え……?」
「だって、わけのわからないしがらみのせいで、桃子さん自身を見ることができないでいるじゃないですか。だから、桃子さんの魅力にも気づけない。もし僕がその立場にあったら、絶対に、喜んであなたを選ぶのに」
桃子は言葉を失った。何やらとんでもないことを言われた気がする。
「な、何言って――」
動揺した桃子が、背後にあった誰かのカバンに腕をぶつけて、そのまま床に落としてしまった。それは春彦のカバンだった。チャックも蓋も開いたままだったようで、教科書やペンケースの中身までもが、派手に床に散らばった。
「ご、ごめんなさい、私ったら……」
桃子が慌てて落としたものを拾い始める。そこで、教科書や文具にまぎれて、なんとも異質なものが目に飛び込んできた。金襴模様が散りばめられた、細い縦長の錦袋――その留め紐が解けており、中から黒い竹筒のようなものが飛び出していた。
桃子が手にしてみると、それは龍笛だった。彼女は驚き、さらに慌てふためく。
「大変……! 割れてない? 本当にごめんなさいっ」
「あ、いえ。大丈夫みたいですよ」
春彦が横笛を受け取り、大事がなかったことを確認した。
桃子はその様を見て、不思議に思って問いかけた。
「その笛、春彦くんのもの? 見事な龍笛だわ。私はそこまで詳しくないけど、神事で神職さんたちが吹いているのはいつも見てるの。春彦くんも笛を吹くの?」
「いえ、僕は笛なんて吹いたことは一度も――」
春彦は、なぜこんなものが自分のカバンに入っていたのかと、まるでわからない様子だった。
「……もしかしたら、兄の私物を間違って持ってきてしまったのかもしれません。兄ならきっと、こんな笛くらいいとも簡単に……」
「へえ、お兄さんがいるんだね。いくつ違いのお兄さん?」
桃子がそう尋ねたとき、春彦は桃子を見てはいなかった。ただ呆然とその場で立ち尽くし、龍笛に目を落としていた。
「……春彦くん?」
「――あ、はい」
「大丈夫? なんだか、急に魂が抜けたみたいになってたよ」
「すみません。よくぼうっとしているとは言われるんです」
「……あ、やだ、いけない。もうこんな時間。私、校門のところで車を待たせてあるの。もう帰らなくちゃ」
落とした荷物の片づけを手伝い終え、桃子が急いで教室を後にしようとすると、背後から呼び止められていた。
「桃子さん……っ」
春彦がかすかに頬を上気させている。
「あの、いろいろとありがとうございました。また明日からも、お話ししてくれますか」
熱心にそう懇願してくる彼は、やはり桃子の目には非常に好ましく映った。戸惑うよりも、嬉しい気持ちのほうが勝っていた。
「――うん。こちらこそ、これからよろしくね」
こんな気持ちは初めてだった。
春彦の直球すぎる質問に、桃子は戸惑った。
この学園の中で、桃子が虐げられている理由を知らない者などいない。あらためて誰かに説明したことなどなかった。
「何も――ずっとこの状況が続くわけではない、と思うの。明日の選定の儀が終われば、全部解決するはず。私が巫女姫に選ばれるわけなんてないから、西宮くんが私を遠ざける必要もなくなるし……」
「西宮くん? それが、桃子さんがないがしろにされる原因を作った人ですか」
やけに敵意を感じる口調に、桃子はやや焦った。
「い、いえ、私の言い方が悪かったわ。この町の内情を知らない春彦くんには、ピンとこなくて当然よ。それに、私の事情はともかく――この町のことに関しては、春彦くんも知っておいたほうがいいと思うから、一から説明するね」
「お願いします」
……とは言ったものの、桃子自身、外から来た人に何から話し始めればいいのか、塩梅がよくわからなかった。
「そうね、まずは……この町の信仰に関わることなんだけど。国生みの古い神話はわかる?」
「国生み……神話……?」
「そう、古事記とか日本書紀。この国を、神様がどう創ったかという話。外から来た人には突拍子もなく思えるかもしれないけど、この町では古くから信仰されてきた土地の礎とも言えるものなの。それが明日の選定の儀にも繋がっている。少し長くなるけど……」
「構いません、教えてください」
桃子はゆっくり頷いた。
「まず最初に、男女の対の神がいたの。男神の伊邪那岐と、女神の伊邪那美。力を合わせてこの国の大地を創り、たくさんの国津神を生み出して、国を豊かにした。けれども、火の神を産んだときの火傷で女神は亡くなり、黄泉の国へと旅立ってしまう。女神の死を悲しんだ男神が、黄泉の国まで追いかけていくのだけど、そこで醜く変わり果てた女神の姿にショックを受け、命からがら逃げ伸びる。男神は千引の岩で黄泉の国との道を塞ぎ、永久に女神との縁を絶った。
そして、男神は死者の国で受けた穢れを洗い流すため、禊を行う。左目を洗うと天照大御神が、右目を洗うと月読命が、そして、最後に鼻を洗うと、凄まじい荒神――須佐之男命が生まれた。この三柱の神が、三貴子と呼ばれる神々で、日本神話で特に重要とされているんだけど……ここまで大丈夫? あまり上手く説明できなくて……」
春彦は桃子の話を不思議そうに聞いていたが、ここでふと思いついたようにつぶやいた。
「……桃……」
「え?」
「――桃の実を……投げたという逸話が、そのどこかにありませんでしたか……?」
そう言われて、桃子もはっとして頷き返した。
「そう、そうよ。黄泉の国で女神の手勢に追われた男神が、桃の実を投げつけて逃げ伸びたの。桃には、悪いものを寄せつけない力があると言われているから」
「やっぱり……そうですよね。今の話と桃子さんのお名前とで、なんだか急に頭に浮かんできました。僕はその古い神話を、どこかで聞いたことがあるのかもしれません」
「そう。有名な話だから、知っていてもおかしくないと思う。それなら、その続きもわかる?」
「いえ、そこまでは……」
かぶりを振る春彦に、桃子は説明を再開した。
「さっき話した三貴子の末の荒神――須佐之男命が、この町にとっては馴染みの深い、特に信仰され続けている神様なの。須佐之男命は荒神と呼ばれるにふさわしく、数々の悪事を働いては太陽神である姉神を困らせ続けた。そして、ついには罰として、天から追放されて地上に降り立つ。
そのとき地上では、八岐大蛇という八頭の大蛇が暴れていて、若い娘を生贄に差し出すよう何度も要求していた。それを憐れんだ須佐之男命は、大蛇を仕留め、そして救った娘を妻にめとった。その子孫が、この町の住民――私たちなのだと伝わっている」
「な……なるほど。――でも、それはただのおとぎ話なんですよね……?」
春彦にそう言われることを想定していた桃子は、少し困り顔で笑った。
「ええ、おとぎ話だと思われているわ。――峰の外では。今の話がおとぎ話ではないと証を立てるとすれば――。そうね……春彦くんがさっき見た、あの鬼火。ああいった力がこの町の人々に宿っているのは、私たちが、いまだ神の血を濃く受け継いでいるからだと言われているの」
「神の血……?」
途方もない話だと思われることは百も承知で、桃子は続けた。
「狭い土地で血族結婚を繰り返してきた結果だそうよ。……もっとも、私は出来損ないで、そういう力は少しもないんだけど。だから、これは私を例外として聞いてほしいんだけど」
桃子は少し口ごもりながら話を続けた。
「産巣日町には、最も神の血を濃く受け継ぐ一族と見なされている家が四つあるの。四方家(しほうけ)と呼ばれているんだけど。それが東宮、西宮、南条、北条の家のこと。四つの方角に連なる名のとおり、町の四方にそれぞれの社を配し、この町をずっと昔から守護し続けている。東宮にはこの世のすべてを束ねる王者の力が、西宮にはあらゆる武を司る力が、南条には界を結ぶ力が、北条には幻術を操る力が備わっている」
「南条……。それは、桃子さんのおうちのことですか?」
「――そう、一応……。でも、何度も言うけど、私個人には特別な力なんて宿っていないから」
春彦は、少し考え込んでいた。
「……つまり、この町には、僕がさっき見たような不思議な力を持つ人たちが、他にもたくさんいるということですか」
「そうよ。能力の種類や力量は、人それぞれだけど」
「そんな重大な秘密を、僕が聞いてしまっても大丈夫なんですか。そういった話は、本来秘め隠されるのが普通では……」
「構わないの。どうせ峰外に出てしまえば、幻術ですべて忘れてしまうことだから。北条の力でね。だから、この町の秘密は今までずっと守られてきた。この土地に、いまだに神が降り続けているということも、外の人たちは決して知りえない」
「え……それは、どういう……」
春彦が目を瞬かせた。
「神が、降りる……? まさか。今うかがった神話に登場するような神が、本当にこの町に現れるとでも?」
さすがにここまでは信じられない、とでも言いたげに、春彦は言葉尻を濁した。桃子は春彦の戸惑いを受け入れ、ただ静かに頷く。
「そうよね。いくらなんでもこんな話、簡単には信じてもらえないと思う。私もこの目でその瞬間を見たことはないから、どちらかと言えば春彦くんの気持ちのほうが理解できるもの。……一つ言えることは、歴代の大巫女様の占で、この地に大きな災厄が降りかかると出たときに、神が降臨するそうよ。選ばれた者の体を憑坐としてね。そこで神の御意思に従えば、災厄は無事に退けられるの。
過去に数回、神意に背いた事例があるらしいんだけど、そのときは占どおり、災厄がこの町を襲ったというわ。災厄というのは、主に地震や洪水、台風なんかの自然災害や、重篤な感染症が蔓延したりすること。でも、神意に従いさえすれば、災いを退けることができる。だからこの産巣日町は、この国でもっとも自然災害や病気が少ない平和な町となりえたの」
「そんな……そんなことが、本当に……?」
春彦は当惑しながらも、桃子が嘘を言っているとも思えず、ただあふれる疑問を口にするしかなかった。
「そもそも、神の意思ってなんなんですか。その神は、あなた方にいったい何を要求するんです」
「さっきの須佐之男命の話に戻るんだけど……」
桃子は春彦をなだめるように、穏やかな口調で語った。
「須佐之男命が八岐大蛇を退治したと言ったでしょう? あれは、神話の上ではそう伝わっているけど、本当は、大蛇を完全に倒すことができなかったの。だから、自身の体内で大蛇を封印した。つまり、どういうことかというと、須佐之男命は三貴子の一柱でもあり、また八岐大蛇という邪神でもあるということなの。
須佐之男命は大蛇から救った娘を妻として迎えたけど、それは見方によっては、娘は結局大蛇の供物になったということでもある。以前は荒ぶる神だった須佐之男命が、その後この地に安住したのは、妻となった娘が鎮めの技を持っていたから。でも、その技の効力はもって数百年とも言われていて、その期を過ぎると、大蛇でもある須佐之男命は、再び荒ぶる兆しを見せる。それを鎮めるために、選定の儀があるのよ」
桃子は淡々と告げた。
「須佐之男命は、この地を災厄から救う善神でもあり、また同様に、破壊しようとする邪神でもある。だから、須佐之男命がこの地に降臨するための現身として、器となる憑坐を一人選んだのちに、それを鎮めるための巫女姫も一人差し出す必要があるの。それが神の要求するもの。つまり選定の儀というのは、須佐之男命の憑坐となる者と、その荒魂を鎮める巫女姫を、それぞれ選ぶための儀式なのよ」
「それはもしかして、生贄として命を差し出すというのでは……」
「まさか。いくらなんでも、そこまで昔にならったりしないわ。それに、憑坐や巫女姫だって、今では儀式上でのただの役割に過ぎないのよ。もちろん、神話のように二人が婚姻しなければならないということもないし。――でも、いくら形式的な関係とはいえ、町で一番重要視されている儀式を共同作業で行う以上、生涯にわたって二人のあいだに特別な絆が生まれるのは事実だと思う。だから――」
桃子は少し言い淀んでから、小さく息を吐いた。
「だから、西宮くんは私を避けているの。もし西宮くんが憑坐に選ばれたとき、巫女姫に私が選ばれないように。彼は私をとても嫌っているから。憑坐は神に選ばれるものだけど、巫女姫の選定は、憑坐の意思に大きく左右されるらしいから」
桃子はそう口にして、誤解のないようにと慌てて補足した。
「あ、あのね、でもそれは、南条家が歴代にわたって巫女姫に選ばれることが多かったというだけで、私自身が選ばれる可能性が高いという意味では決してないのよ。何の神力も持たない者が、憑坐や巫女姫に選ばれることなんてまずありえないから。選ばれてきたのは、いつだって、誰もが認める高い能力を持っている特別な人だけ。だから、西宮くんのはただの杞憂なのよ。
東宮のご子息がこのまま現れなければ、たぶん、憑坐は西宮くんで決まりだと誰もが思っている。西宮くんが憑坐に、そして北条家の忍ちゃんが巫女姫に選ばれて、選定の儀が無事に終われば、私は完全に部外者になるから、西宮くんが私を避ける理由もなくなって、今のこの状況も少しは変わるかと……」
桃子の話を黙って聞いていた春彦が、ふいにつぶやいた。
「その西宮という人は、僕には少し、かわいそうに思えてしまいます」
「え……?」
「だって、わけのわからないしがらみのせいで、桃子さん自身を見ることができないでいるじゃないですか。だから、桃子さんの魅力にも気づけない。もし僕がその立場にあったら、絶対に、喜んであなたを選ぶのに」
桃子は言葉を失った。何やらとんでもないことを言われた気がする。
「な、何言って――」
動揺した桃子が、背後にあった誰かのカバンに腕をぶつけて、そのまま床に落としてしまった。それは春彦のカバンだった。チャックも蓋も開いたままだったようで、教科書やペンケースの中身までもが、派手に床に散らばった。
「ご、ごめんなさい、私ったら……」
桃子が慌てて落としたものを拾い始める。そこで、教科書や文具にまぎれて、なんとも異質なものが目に飛び込んできた。金襴模様が散りばめられた、細い縦長の錦袋――その留め紐が解けており、中から黒い竹筒のようなものが飛び出していた。
桃子が手にしてみると、それは龍笛だった。彼女は驚き、さらに慌てふためく。
「大変……! 割れてない? 本当にごめんなさいっ」
「あ、いえ。大丈夫みたいですよ」
春彦が横笛を受け取り、大事がなかったことを確認した。
桃子はその様を見て、不思議に思って問いかけた。
「その笛、春彦くんのもの? 見事な龍笛だわ。私はそこまで詳しくないけど、神事で神職さんたちが吹いているのはいつも見てるの。春彦くんも笛を吹くの?」
「いえ、僕は笛なんて吹いたことは一度も――」
春彦は、なぜこんなものが自分のカバンに入っていたのかと、まるでわからない様子だった。
「……もしかしたら、兄の私物を間違って持ってきてしまったのかもしれません。兄ならきっと、こんな笛くらいいとも簡単に……」
「へえ、お兄さんがいるんだね。いくつ違いのお兄さん?」
桃子がそう尋ねたとき、春彦は桃子を見てはいなかった。ただ呆然とその場で立ち尽くし、龍笛に目を落としていた。
「……春彦くん?」
「――あ、はい」
「大丈夫? なんだか、急に魂が抜けたみたいになってたよ」
「すみません。よくぼうっとしているとは言われるんです」
「……あ、やだ、いけない。もうこんな時間。私、校門のところで車を待たせてあるの。もう帰らなくちゃ」
落とした荷物の片づけを手伝い終え、桃子が急いで教室を後にしようとすると、背後から呼び止められていた。
「桃子さん……っ」
春彦がかすかに頬を上気させている。
「あの、いろいろとありがとうございました。また明日からも、お話ししてくれますか」
熱心にそう懇願してくる彼は、やはり桃子の目には非常に好ましく映った。戸惑うよりも、嬉しい気持ちのほうが勝っていた。
「――うん。こちらこそ、これからよろしくね」
こんな気持ちは初めてだった。
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