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第一章 神に選ばれしもの
選定の儀①
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選定の儀の当日を迎えた斉城学園は、いつも以上に清浄な気で満ちていた。いたるところに紙垂の下がった注連縄が張り巡らされ、学園敷地内を神域として包み込んでいる。学園全体が神社のような装いになっていた。
このように特定の場所を結界占地とする技は、南条がもっとも得意とするものだ。
そのため桃子の母――雪江は、昨日桃子が帰宅したときには、すでに祭祀準備のために家を出ていた。桃子が雪江を振り切って家を飛び出した、昨日の朝以来、会ってはいない。
桃子は正直なところ、帰宅後母と顔を合わせずに済んでほっとしていた。
しかし、問題はあくまで先延ばしになっただけで、少しも楽観視はできない。加えて、相変わらず夢見も悪いまま。
それでも、桃子の気持ちと関係なく空はよく晴れ、大半の人々にとっては、幸先の良い一日の始まりに映っていると見えた。
学園内には生徒や教師だけでなく、その保護者や町の神社の代表者たち、そしてそれぞれの神社の氏子総代なども一同に介しており、ひしめく人数分だけ騒がしくなっていた。全生徒にも、朝から校庭に集まるよう前もって指示が出されている。
桃子たちのクラスも、登校してそのままグラウンドで待機させられていた。
向かって正面、階段を数十段ほどのぼった先には高台がある。普段は朝礼台として使われているが、学園祭などではちょっとしたステージ場としても活用できる場所だ。その高台の奥に、今は立派な祭壇がまつられていた。これからいよいよ選定の儀が始まるのだと、誰もが意識させられるような舞台装置だった。
早朝から儀式準備の手伝いに来ていた忍とは、桃子は早くから互いに存在を認識し合っていた。しかし、今日に限っては桃子も声をかける気になれず、忍のほうも桃子を避けている節があった。
今まで誰もが桃子を無視しても、忍だけは友人であり続けてくれたというのに。巫女姫の座を争う者同士、もう慣れ合うつもりはないということなのだろう。たとえ桃子に一切その気がなくても、忍からはそのような気概が感じられた。
(私が選ばれるわけない。巫女姫はきっと、みんなの言うとおり忍ちゃんで決まりだし、憑坐は西宮くんだ。これが覆るなんて、誰にも考えられないことなのに)
桃子は次に、友人たちに囲まれて屈託なく笑っている西宮を、遠くから眺めた。
できるだけ目立ちたくない性分の桃子とは対照的に、西宮は、いつだって人の輪の中心にいて、堂々と注目を集めた。本人も派手好きな性格で、そういう星のもとに生まれついた者として、わかりやすく人一倍陽の気を放っている。
かつては桃子も、彼に淡い恋心を抱きもした。しかし、時を重ね、自分や相手の置かれた立場・状況がわかってくると、もう何も考えずに憧れ続けることはできなかった。
何より、西宮が桃子を避け始めたのは、そんな桃子の恋心を察して、嫌気がさしたからに違いないのだ。これ以上、彼に迷惑な想いを寄せるわけにはいかない。
一人陰鬱でいると、背後から桃子を呼び止める声がした。
「おはようございます、桃子さん」
「――春彦くん」
桃子を見つけて、山田春彦はすこぶる嬉しそうだった。
彼の身なりは、昨日よりもずいぶんとましになっていた。寝ぐせは相変わらずだが愛嬌で済む程度には整えられていたし、眼鏡のゆがみも修繕されている。制服も転校生らしく、汚れのない真新しいものを着ていた。(昨日泥が付いていたのは、登校時派手に転んでしまったためらしい)
顔色も良く、表情も明るい。
いくらか様変わりした春彦を見て、桃子は目を見張ると同時に、複雑な気分にもなっていた。
昨夜、自宅に帰ってからもう一度考え直したことだが、やはり春彦と仲良くするのは、どう考えても彼のためにならない。ただでさえ、よそ者と爪はじきにされているのに、この上自分のような者と親しくしては、彼の立場はますます悪くなる。春彦は転校したてでまだ友人もおらず、少し親切にしてくれた桃子に、とりあえず懐いているだけなのだ。
彼のためを思うなら、もう一度桃子がきちんと説明して、仲良くできない事情をわかってもらわなくてはならない。
――そう、思っていたのに。
春彦の顔を見て、無邪気な笑みを間近にしてしまうと、もうだめだった。
実のところ、桃子も本当は、押しつぶされるギリギリのところまで孤独に耐えていた。一度でも人と接する温かさや楽しさを思い出してしまうと、それを自ら手放すのは容易なことではなかった。
決心がつかないまま、結局は昨日と同じ調子で春彦と接してしまう。
何も知らない春彦が、桃子に話しかける。
「教室に誰もいなくて驚きました。もう授業が始まる時間なのに」
「今日の授業はないの。午前中の時間全部が選定の儀にあてられる。そのあとは町全体で直会をするから、部活動も休みなの」
「直会?」
春彦が首をかしげた。
「……えっと。直会っていうのは、祭祀が終わったあとに神饌――神様にお供えした飲食物を、参列者のみんなで戴くことよ。神人共食といって、神に感謝しながら、神の力を授かろうというものなの。今回は普通の直会と違って町全体で催されるものだから、お祭りみたいな形に近いと思う。荒神様に選ばれた、憑坐と巫女姫の二人をお祝いするのよ」
「荒神様?」
「ああ、ごめんなさい……いろいろと説明不足よね。荒神様というのは、昨日話した須佐之男命のこと。大蛇でもある須佐之男命を、この町では総じて荒神様と呼んでいる。神の御名を軽々しく口に上らせることは、本来とても恐れ多いことだから。憑坐も巫女姫も体こそ人間のものだけど、特に憑坐は、その体を現身として荒神様にお貸し申し上げることになるから、実質的に現人神として扱われる。とても尊いお立場なの」
春彦は素直に耳を傾けてはいるものの、その話に特別関心を寄せるわけでもないようだった。
「なるほど。でも、その偉い人たちのことなんて、僕らにはさほど関係ありませんよね? ――ねえ、桃子さん。儀式が終わったら、その直会というお祭り、僕と一緒に回ってくださいませんか。僕、もっとあなたと一緒にいたいんです」
桃子は一瞬目を瞬かせて、それからみるみるうちに顔を赤らめていった。
「い、いえ……そもそも、それは無理な話なの。直会のあいだ、私は自由にできるわけじゃないのよ。南条家の者として、お母様や叔父様について、いつもお世話になっている氏子さんや崇敬者さんたち、議員の先生方とか他神社の神職さんたちとか、いろんな方々のところに挨拶回りをしなくてはならないから」
「そう、ですか」
「ごめんなさい、せっかく誘ってくれたのに」
「いえ。こちらこそ、桃子さんのご都合も考えず、ぶしつけなお願いをしてしまいました」
春彦が見るからに残念な様子で肩を落としていたので、桃子も幾分か申し訳ない気持ちになっていた。だから、つい本音を漏らしてしまった。
「そうできれば、私もどれだけよかったか。……本当は、神社の娘としての挨拶回りなんて、嫌で億劫で仕方がないの」
それを聞いた春彦は、桃子が驚くほどに、目の色を変えてむきになっていた。
「そんな。そんなに行きたくないものなら、行かなければいいのに。――桃子さんのお母様は? 今日、この場に来られていますよね。一度僕と話をさせてください、きっと説得してみせます」
「だ、だめよ、急に何言ってるの」
「だって、あなたはあまりにも、ご自身の意思とは無関係なところで振り回されすぎている。この学園でひどい仕打ちを受けていることだって、お母様はそもそもご存知なんですか? もし存じ上げないようならすぐにでも知っていただくべきですし、知っていて放置しているとすれば、そんなおうちに桃子さんを置いておくわけにはいきません」
「ま、待って。話が飛躍しすぎ――」
と、慌てて制したものの。今の春彦の言葉で、桃子はふいに泣きそうになっていた。
今までこんなふうに、桃子を真剣に心配してくれたり、桃子の代わりに怒ってくれたりする者など、周りには誰もいなかった。それが当たり前で、降りかかってきた災難は、すべて自分一人でなんとかするしかないと思っていた。
目からこぼれかけた涙はすぐにぬぐったが、内心の動揺は、春彦には簡単に見透かされていた。
「僕は、決して軽はずみな気持ちで言っているわけではありません。昨日、桃子さんが僕を助けてくれたみたいに、今度は僕があなたの力になりたいんです」
「ありがとう……でもいいの。今いろいろ上手くいっていないのは、結局、全部自分が招いたことなんだもの。嫌なことから逃げ続けてきた私のせい。私は忍ちゃんのように、厳しい巫女修行に耐えることができなかった。何をしても、忍ちゃんや西宮くんのような特別な神力は、私に宿らなかった。春彦くんにかばってもらう価値なんて、私には……」
「逃げて何が悪いんですか。耐えられないほど辛いことなら、むしろ逃げるべきなんです」
春彦が桃子の両肩を掴む。
「人間以外の生きものは、みんな逃げることが一番の生存戦略だと知っています。人間だけがいろんな理屈をこねて、逃げるのはよくないことだと言い張るんです。逃げずにとどまった結果、体や心を壊したり、命まで落としてしまっても、逃げるなと言ったほうは責任なんか取ってはくれないのに」
春彦は、どこか異様なまでに悲愴な表情をしていた。
「桃子さんのような優しい方が、他人にいいように利用されたり、傷つけられたりするのは絶対に許せません。これからは、僕があなたを守ります。そうさせてください。あなたのそばにいたいんです」
桃子は言葉を失った。自分が誰かにこんなことを言ってもらえる日が来るなんて、思ってもみなかった。
(……あれ? でもそういえば、昔誰かにも、こんなふうに言われたことがあったような……)
ふいに、忘れていた遠い過去の記憶がよみがえり、桃子は不思議な気持ちになっていた。
幼いころ、同じように「桃子を守る」と言ってくれた男の子がいたような気がする。が、それが誰だったのかはわからない。こんな不甲斐ない自分に、そんなことを言ってくれる人が何人もいるとは思えないのだが。
気恥ずかしさが先に立ってしまい、せっかく熱心な言葉をかけてくれた春彦に、桃子は少しも同じ熱量の言葉を返せなかった。
「な、なんだか春彦くん、昨日とずいぶん感じが変わったよね」
「そうでしょうか」
「うん。昨日はなんていうか、あまり元気がなさそうだったから。でも、今日は昨日よりもずっと頼もしく見えるよ」
「それはきっと、桃子さんに出会えたからですよ。今日もあなたにお会いできるのが楽しみで、始業時間が待ち遠しかったんです」
桃子はまたも面食らわされたが、春彦の言動にいちいち動揺するのはやめることにした。話しているとなんとなく感じるのだが、この山田春彦という転校生は、子どものように、ただただ素直で純真なだけなのだ。
この笑顔が嘘ではないということだけははっきりわかるのだから、もうそれで充分だと思った。
「そろそろ時間よ。もうすぐ前儀が始まる」
「前儀?」
「選定の儀の前に、邪気や不浄を祓うための儀式よ。雅楽奏上から始まって、お弓神事とそれから神楽舞を荒神様に奉納するの。雅楽奏上は東宮家が、お弓神事は西宮家が、そして神楽舞は、南条家と北条家が行うものと昔から決まっている」
「では、桃子さんも後で舞を?」
「いえ、私は……」
桃子はやや表情をくもらせてから、取り繕うように微笑んだ。
「私は頭数には含まれていないの。神楽舞は忍ちゃんと、私の一つ下の従妹――千歳ちゃんが舞うことになってる」
「従妹? ですが、本家のご息女は桃子さんのはずでは」
「そう、なんだけど……。私では荷が勝ちすぎるもの。本家も分家も関係なく、より能力の高い人が務めるべきお役目でしょうし。私が不出来でも千歳ちゃんがいるから、南条はこれからも安泰のはずよ」
このとき春彦が何か言おうとしていたが、桃子はわざと気づかない振りをした。
このように特定の場所を結界占地とする技は、南条がもっとも得意とするものだ。
そのため桃子の母――雪江は、昨日桃子が帰宅したときには、すでに祭祀準備のために家を出ていた。桃子が雪江を振り切って家を飛び出した、昨日の朝以来、会ってはいない。
桃子は正直なところ、帰宅後母と顔を合わせずに済んでほっとしていた。
しかし、問題はあくまで先延ばしになっただけで、少しも楽観視はできない。加えて、相変わらず夢見も悪いまま。
それでも、桃子の気持ちと関係なく空はよく晴れ、大半の人々にとっては、幸先の良い一日の始まりに映っていると見えた。
学園内には生徒や教師だけでなく、その保護者や町の神社の代表者たち、そしてそれぞれの神社の氏子総代なども一同に介しており、ひしめく人数分だけ騒がしくなっていた。全生徒にも、朝から校庭に集まるよう前もって指示が出されている。
桃子たちのクラスも、登校してそのままグラウンドで待機させられていた。
向かって正面、階段を数十段ほどのぼった先には高台がある。普段は朝礼台として使われているが、学園祭などではちょっとしたステージ場としても活用できる場所だ。その高台の奥に、今は立派な祭壇がまつられていた。これからいよいよ選定の儀が始まるのだと、誰もが意識させられるような舞台装置だった。
早朝から儀式準備の手伝いに来ていた忍とは、桃子は早くから互いに存在を認識し合っていた。しかし、今日に限っては桃子も声をかける気になれず、忍のほうも桃子を避けている節があった。
今まで誰もが桃子を無視しても、忍だけは友人であり続けてくれたというのに。巫女姫の座を争う者同士、もう慣れ合うつもりはないということなのだろう。たとえ桃子に一切その気がなくても、忍からはそのような気概が感じられた。
(私が選ばれるわけない。巫女姫はきっと、みんなの言うとおり忍ちゃんで決まりだし、憑坐は西宮くんだ。これが覆るなんて、誰にも考えられないことなのに)
桃子は次に、友人たちに囲まれて屈託なく笑っている西宮を、遠くから眺めた。
できるだけ目立ちたくない性分の桃子とは対照的に、西宮は、いつだって人の輪の中心にいて、堂々と注目を集めた。本人も派手好きな性格で、そういう星のもとに生まれついた者として、わかりやすく人一倍陽の気を放っている。
かつては桃子も、彼に淡い恋心を抱きもした。しかし、時を重ね、自分や相手の置かれた立場・状況がわかってくると、もう何も考えずに憧れ続けることはできなかった。
何より、西宮が桃子を避け始めたのは、そんな桃子の恋心を察して、嫌気がさしたからに違いないのだ。これ以上、彼に迷惑な想いを寄せるわけにはいかない。
一人陰鬱でいると、背後から桃子を呼び止める声がした。
「おはようございます、桃子さん」
「――春彦くん」
桃子を見つけて、山田春彦はすこぶる嬉しそうだった。
彼の身なりは、昨日よりもずいぶんとましになっていた。寝ぐせは相変わらずだが愛嬌で済む程度には整えられていたし、眼鏡のゆがみも修繕されている。制服も転校生らしく、汚れのない真新しいものを着ていた。(昨日泥が付いていたのは、登校時派手に転んでしまったためらしい)
顔色も良く、表情も明るい。
いくらか様変わりした春彦を見て、桃子は目を見張ると同時に、複雑な気分にもなっていた。
昨夜、自宅に帰ってからもう一度考え直したことだが、やはり春彦と仲良くするのは、どう考えても彼のためにならない。ただでさえ、よそ者と爪はじきにされているのに、この上自分のような者と親しくしては、彼の立場はますます悪くなる。春彦は転校したてでまだ友人もおらず、少し親切にしてくれた桃子に、とりあえず懐いているだけなのだ。
彼のためを思うなら、もう一度桃子がきちんと説明して、仲良くできない事情をわかってもらわなくてはならない。
――そう、思っていたのに。
春彦の顔を見て、無邪気な笑みを間近にしてしまうと、もうだめだった。
実のところ、桃子も本当は、押しつぶされるギリギリのところまで孤独に耐えていた。一度でも人と接する温かさや楽しさを思い出してしまうと、それを自ら手放すのは容易なことではなかった。
決心がつかないまま、結局は昨日と同じ調子で春彦と接してしまう。
何も知らない春彦が、桃子に話しかける。
「教室に誰もいなくて驚きました。もう授業が始まる時間なのに」
「今日の授業はないの。午前中の時間全部が選定の儀にあてられる。そのあとは町全体で直会をするから、部活動も休みなの」
「直会?」
春彦が首をかしげた。
「……えっと。直会っていうのは、祭祀が終わったあとに神饌――神様にお供えした飲食物を、参列者のみんなで戴くことよ。神人共食といって、神に感謝しながら、神の力を授かろうというものなの。今回は普通の直会と違って町全体で催されるものだから、お祭りみたいな形に近いと思う。荒神様に選ばれた、憑坐と巫女姫の二人をお祝いするのよ」
「荒神様?」
「ああ、ごめんなさい……いろいろと説明不足よね。荒神様というのは、昨日話した須佐之男命のこと。大蛇でもある須佐之男命を、この町では総じて荒神様と呼んでいる。神の御名を軽々しく口に上らせることは、本来とても恐れ多いことだから。憑坐も巫女姫も体こそ人間のものだけど、特に憑坐は、その体を現身として荒神様にお貸し申し上げることになるから、実質的に現人神として扱われる。とても尊いお立場なの」
春彦は素直に耳を傾けてはいるものの、その話に特別関心を寄せるわけでもないようだった。
「なるほど。でも、その偉い人たちのことなんて、僕らにはさほど関係ありませんよね? ――ねえ、桃子さん。儀式が終わったら、その直会というお祭り、僕と一緒に回ってくださいませんか。僕、もっとあなたと一緒にいたいんです」
桃子は一瞬目を瞬かせて、それからみるみるうちに顔を赤らめていった。
「い、いえ……そもそも、それは無理な話なの。直会のあいだ、私は自由にできるわけじゃないのよ。南条家の者として、お母様や叔父様について、いつもお世話になっている氏子さんや崇敬者さんたち、議員の先生方とか他神社の神職さんたちとか、いろんな方々のところに挨拶回りをしなくてはならないから」
「そう、ですか」
「ごめんなさい、せっかく誘ってくれたのに」
「いえ。こちらこそ、桃子さんのご都合も考えず、ぶしつけなお願いをしてしまいました」
春彦が見るからに残念な様子で肩を落としていたので、桃子も幾分か申し訳ない気持ちになっていた。だから、つい本音を漏らしてしまった。
「そうできれば、私もどれだけよかったか。……本当は、神社の娘としての挨拶回りなんて、嫌で億劫で仕方がないの」
それを聞いた春彦は、桃子が驚くほどに、目の色を変えてむきになっていた。
「そんな。そんなに行きたくないものなら、行かなければいいのに。――桃子さんのお母様は? 今日、この場に来られていますよね。一度僕と話をさせてください、きっと説得してみせます」
「だ、だめよ、急に何言ってるの」
「だって、あなたはあまりにも、ご自身の意思とは無関係なところで振り回されすぎている。この学園でひどい仕打ちを受けていることだって、お母様はそもそもご存知なんですか? もし存じ上げないようならすぐにでも知っていただくべきですし、知っていて放置しているとすれば、そんなおうちに桃子さんを置いておくわけにはいきません」
「ま、待って。話が飛躍しすぎ――」
と、慌てて制したものの。今の春彦の言葉で、桃子はふいに泣きそうになっていた。
今までこんなふうに、桃子を真剣に心配してくれたり、桃子の代わりに怒ってくれたりする者など、周りには誰もいなかった。それが当たり前で、降りかかってきた災難は、すべて自分一人でなんとかするしかないと思っていた。
目からこぼれかけた涙はすぐにぬぐったが、内心の動揺は、春彦には簡単に見透かされていた。
「僕は、決して軽はずみな気持ちで言っているわけではありません。昨日、桃子さんが僕を助けてくれたみたいに、今度は僕があなたの力になりたいんです」
「ありがとう……でもいいの。今いろいろ上手くいっていないのは、結局、全部自分が招いたことなんだもの。嫌なことから逃げ続けてきた私のせい。私は忍ちゃんのように、厳しい巫女修行に耐えることができなかった。何をしても、忍ちゃんや西宮くんのような特別な神力は、私に宿らなかった。春彦くんにかばってもらう価値なんて、私には……」
「逃げて何が悪いんですか。耐えられないほど辛いことなら、むしろ逃げるべきなんです」
春彦が桃子の両肩を掴む。
「人間以外の生きものは、みんな逃げることが一番の生存戦略だと知っています。人間だけがいろんな理屈をこねて、逃げるのはよくないことだと言い張るんです。逃げずにとどまった結果、体や心を壊したり、命まで落としてしまっても、逃げるなと言ったほうは責任なんか取ってはくれないのに」
春彦は、どこか異様なまでに悲愴な表情をしていた。
「桃子さんのような優しい方が、他人にいいように利用されたり、傷つけられたりするのは絶対に許せません。これからは、僕があなたを守ります。そうさせてください。あなたのそばにいたいんです」
桃子は言葉を失った。自分が誰かにこんなことを言ってもらえる日が来るなんて、思ってもみなかった。
(……あれ? でもそういえば、昔誰かにも、こんなふうに言われたことがあったような……)
ふいに、忘れていた遠い過去の記憶がよみがえり、桃子は不思議な気持ちになっていた。
幼いころ、同じように「桃子を守る」と言ってくれた男の子がいたような気がする。が、それが誰だったのかはわからない。こんな不甲斐ない自分に、そんなことを言ってくれる人が何人もいるとは思えないのだが。
気恥ずかしさが先に立ってしまい、せっかく熱心な言葉をかけてくれた春彦に、桃子は少しも同じ熱量の言葉を返せなかった。
「な、なんだか春彦くん、昨日とずいぶん感じが変わったよね」
「そうでしょうか」
「うん。昨日はなんていうか、あまり元気がなさそうだったから。でも、今日は昨日よりもずっと頼もしく見えるよ」
「それはきっと、桃子さんに出会えたからですよ。今日もあなたにお会いできるのが楽しみで、始業時間が待ち遠しかったんです」
桃子はまたも面食らわされたが、春彦の言動にいちいち動揺するのはやめることにした。話しているとなんとなく感じるのだが、この山田春彦という転校生は、子どものように、ただただ素直で純真なだけなのだ。
この笑顔が嘘ではないということだけははっきりわかるのだから、もうそれで充分だと思った。
「そろそろ時間よ。もうすぐ前儀が始まる」
「前儀?」
「選定の儀の前に、邪気や不浄を祓うための儀式よ。雅楽奏上から始まって、お弓神事とそれから神楽舞を荒神様に奉納するの。雅楽奏上は東宮家が、お弓神事は西宮家が、そして神楽舞は、南条家と北条家が行うものと昔から決まっている」
「では、桃子さんも後で舞を?」
「いえ、私は……」
桃子はやや表情をくもらせてから、取り繕うように微笑んだ。
「私は頭数には含まれていないの。神楽舞は忍ちゃんと、私の一つ下の従妹――千歳ちゃんが舞うことになってる」
「従妹? ですが、本家のご息女は桃子さんのはずでは」
「そう、なんだけど……。私では荷が勝ちすぎるもの。本家も分家も関係なく、より能力の高い人が務めるべきお役目でしょうし。私が不出来でも千歳ちゃんがいるから、南条はこれからも安泰のはずよ」
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