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第三章 蔑むべきもの
夜襲の果てに
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柔剣道場を出ると、外では西宮が、今か今かと待ち構えていた。彼は桃子の姿を捉えるなり、感極まった様子で駆け寄り、抱きしめた。
西宮が桃子の無事を何より喜んでいるのは嬉しかったが、桃子はどこか、複雑な気持ちを抱えていた。
夜になると、今宵も桃子の寝る和室には、当然のように布団が二組敷かれていた。
こうなることはすでにわかっていたので、桃子はもう大きく動揺したりはしなかった。それに、桃子の心中を知る西宮なら、自主的に別室で寝る選択をしてくれるだろうとも思ったのだ。
しかし。
予想に反して、彼は今夜、桃子と同室で眠ると宣言した。慌てる桃子に、西宮が真剣な顔で語った。
今後、忍をはじめとした北条の手の者が、いつ桃子を狙ってくるかわからない。差し迫った状況になれば、強硬手段に出てくる可能性もある。しばらくは、西宮邸の警備も強化するとのことだった。
「俺と同室で寝るのが嫌なのはよくわかる。けど、下手をすればお前は殺されるかもしれない。お前に危険が迫っている以上、こればっかりは譲れない」
西宮は頑として引かなかった。
「俺が東宮から荒神の力を奪ったとき、あいつが腑抜けていたからすんなり事が運んだけど、もしもあいつに戦意があったなら、どっちかが死んでてもおかしくはなかった。神の力に関わるっていうのは、そういうことでもある」
春彦が、荒神の力は生かすか殺すかだと言っていたことを、桃子は思い出していた。
だから西宮は、その覚悟のもと、凄まじすぎる荒神の力を、いまだほとんど使ったことがないのだとも打ち明けた。
「お前に何かあってから後悔するくらいなら、嫌われてでも、俺はお前のそばにいるぞ」
こうまで言われてしまえば、桃子も承服せざるをえなかった。
(春彦くんにも、似たようなことを言われたな……)
そう思うと、少なからず胸が痛んだ。
幸いなことに、北条側の目的ははっきりしている。彼らが欲するものはただ一つ、現時点で桃子が有している「巫女姫の座」だ。それがわかっているだけで、出方も講じやすくなる。
この邸宅の中で一番安全な場所は、憑坐である西宮のそばにいることだった。
「心配しなくても、南条が嫌なうちは、絶対に手を出したりなんてしない。俺だって、もうこれ以上、お前に嫌われたり泣かれたりなんてしたくないんだよ」
西宮が自発的にそう宣言してきたので、少しだけほっとした。
本音を言えば、今日大巫女に聞かされた話を思い返すと、無理を押してでも、もう一度西宮に抱かれるべきなのだろうかとも考えた。
――しかし、忍にあのような恐ろしい幻を見せられたあとでは、とてもそんな勇気は持てなかった。
西宮は、桃子の気持ちを最大限に尊重してくれている。そして、彼自身も非常に穏やかで、荒ぶるような兆しは今のところ見受けられない。
それならば、もう少しだけ、今のままでも許されるのではないかと思えた。
西宮が以前語った、「憑坐と巫女姫の関係は、体だけの繋がりでできているわけじゃない」という言葉を信じて。
間もなく、二人はそれぞれの床についた。
眠れるわけがないと思っていたのに、体は連日の睡眠不足に負けて、桃子はいつの間にかうとうとしてしまっていた。
しかし、場の空気が変わったことを察知すると、考えるより先に、体が布団から跳ね起きていた。
西宮がふすまの前で、刀を構えて臨戦態勢をとっているのが見えた。
その張り詰めた表情を見るに、彼はずっと起きていたのかもしれない。
あたりはまだ、月明かりしか差し込まないような、深い夜に包まれていた。
ふすまの向こうに一室、そしてそこから廊下に続いており、窓を開ければすぐ縁側に繋がっている。ようするに、屋敷の外だ。
桃子が西宮に問いかけるより先に、彼は動いていた。
西宮が抜刀と同時に、目の前にあったふすまを切り裂く。
弾け飛んだふすまの向こうには、開け放たれたガラス戸と夜月を背に立つ、巫女装束姿の忍がいた。
月明かりに照らされた北条の巫女は、明るいうちに目にする以上に冴え冴えと美しく、桃子は思わず息を呑んだ。
しかし、見とれてはいられない。この美しい娘にとっての巫女装束とは、紛うことなき戦闘服なのだ。
眉一つ動かすことなく、忍が言った。
「荒神の力とはこの程度か。思ったほどではなかったな」
これには西宮も、負けじと反論する。
「ばーか、今のは警告だ。俺はまだ、一度もこの神の力を使ったことはないんだ。だから匙加減もわからない。お前を生かしたまま捕らえるような、器用な使い方はできねえからな」
西宮の言葉を聞くと、忍はくっと声を押し殺すように笑った。
「私がこの程度かと言ったのは、この屋敷の警備に対してだよ。てっきり、敷地内を丸ごと異層に置いて、北条の手の届かないところに逃げ込むくらいはしているものと思った。神の力があれば可能だろう」
「それは俺も考えた。でも、誰もが別の層で長いこと平気でいられるわけじゃないし、界層が変われば流れる時間だって変わる。そんな不毛な籠城で長期戦に持ち込むより、あえて敵を懐に誘い込んで、さっさとけりをつけたくてね。俺は気が短いほうなんだ」
「なるほど。だから私は見逃され、ここまですんなり入り込めたというわけか。ものものしく警戒態勢が敷かれていた割には、幻術に耐性のない者ばかりで、少々肩透かしをくらっていた」
そう言われて、西宮はかすかに眉を動かす。
「そんなやわな連中ばかりじゃねえはずだけど。そっちがよっぽど卑怯な手でも使っていない限りは」
「ああ、それもそうだな。たしかに、西宮の手の者が特別弱いというわけではなかった。西宮に限らず、もともとこの町の者は、長らく北条の幻術にかかりっぱなしでいたから、惑わされやすくなっているのは仕方のないこと」
西宮が、わずかに目を見張った。
「俺も憑坐になってから、初めてお前が幾重にも幻術をまとっているのを知ったよ。でも、そこまで大掛かりなものとは思わなかった。神の目は見えすぎるから、時々普通の人間の感覚を忘れちまうのがやっかいだな。お前が下手なことをしなければ見逃してやろうと思ってたけど、それが甘かったってことか。観念しろよ、北条。これでお前の小細工もおしまいだ」
「好きにするといい。もとより、こちらは覚悟の上だ」
この場では、明らかに忍が不利な状況であることは間違いない。
そのはずだが、彼女は単身ここまで乗り込んできたあげく、荒神の力を持つ西宮の前でも、まったく動じる様子を見せなかった。
西宮は、そこが少々引っかかり、気味悪くも感じていた。
「北条、一つ聞きたい。お前、こんなところまでたった一人で、しかも一番警戒が強まってるだろう今夜ってタイミングをあえて選んで、さすがに下手打つって思わなかったのか。冷静なお前らしくもない」
「ああ、そうかもな……。西宮、お前の言うとおり、今の私は冷静さを欠いている。だってそうだろう。冷静でなどいられるものか。私は、もうずっと耐えてきたんだ。絶好の状況とタイミングを見計らえば、今より勝算はあったかもしれない。でも、そうして日を追うごとに、お前のような薄汚い憑坐が、巫女姫を穢し食い物にしているのかと思うと、もはや我慢がならない。こんなことは、一日も早く終わらせなければならない」
忍の言葉を聞いて、西宮が目を瞬かせた。
「お前、巫女姫の座を、南条から奪いにきたんじゃないのか」
「奪おうとしていたさ。もう、何年も前からずっと。でも、それはどうあっても叶わないことだと悟った。だからお前を殺しに来たんだ、西宮」
「は……、え?」
西宮は、忍が何を言っているのかまったく理解できなかった。
彼が目を白黒させているあいだに、忍は短剣を構えた。
「今度は幻の剣などではないぞ。覚悟しろ、荒神」
忍が西宮に襲いかかろうとしたとき、背後に控えていた桃子が叫んだ。
「やめて、忍ちゃん! お願い西宮くん、忍ちゃんを殺さないで……ッ」
「――くそっ」
桃子の悲痛な声がわずかに西宮をとどまらせ、彼の殺意をぎりぎりのところで押しとどめた。
忍が向かってきたとき、西宮は彼女の体を突き飛ばして剣をかわした。それとともに、忍がまとっていた幻術も解除した。
だが――。
西宮自身も、そのとき同時に奪われたものがあった。
「な……」
西宮が、信じられないとばかりに、わなわなと両手を震わせていた。
「北条、お前――――――――ちくしょう、やりやがったな! 最初からそれが目的だったのか!」
地面に倒れ込んだ忍に、西宮が怒号を浴びせた。
西宮は、今しがた自身に起こったことが受け止めきれず、何度も自分と忍とを交互に見比べては、愕然とした。
しかし、この場で誰より動転していたのは、実のところ忍本人だった。
「忍ちゃん、大丈夫?」
桃子が裸足のまま外に降り立ち、忍のそばに駆け寄ろうとした――――そのとき。
「……来るな!」
忍がきつく制した。
聞いたこともない低い声に、桃子は驚き、思わず足を止めていた。
今の声は本当に忍のものかと耳を疑ったほど、普段とはあまりに違う声質。
忍の長い髪は解けて乱れ、彼女の素顔がほとんど隠れてしまっている。
しかし、一瞬だけ、その白い頬が濡れて光っているのが見えた。
「お願いだ、桃子……私を見ないでくれ……」
そう言い残すと、忍は瞬く間にこの場から姿を消していた。
彼女がいなくなってからも、桃子は呆然としたまま、しばらくその場から動けずにいた。
忍の発した声が、いつまでも脳裏に焼きついて離れない。
(本当に低い声だった。まるで、男の人みたいな――――)
そして、それ以上に気にかかることがあった。わずかに桃子と目が合ったときの、忍の絶望に打ちひしがれたような、あの表情。
あんな顔をした忍を、桃子は今まで一度も見たことがなかった。まるで、何か恐ろしいものに怯える、哀れな幼子のような目をしていた。
桃子がふらふらと歩き始めたのを見て、西宮が彼女の腕を掴んで止めた。
「待てよ、南条。どこに行く気だ」
「泣いてたの……あんなにいつも気丈な忍ちゃんが、まるで子どもみたいに。私、行かなきゃ……」
「だめだ、行かせない。絶対に」
西宮は、いっそう桃子の腕を強く掴んでいた。力任せに引き止めるというよりは、ほとんど懇願に近い形で、彼は桃子に追いすがった。
「行かないでくれ、南条。頼む、行くな」
「ごめんなさい、西宮くん……。でもこれは、たぶん私にしかできないことなの。忍ちゃんを救えるのは私だけだって、今ならそれがわかるから」
「俺にだって、お前が必要なのに。俺よりあいつを選ぶのか。俺が――憑坐じゃなくなったから」
声を詰まらせながら西宮が言った。桃子は胸が痛んだが、それでも、ここに留まることはできないと考えた。
新たな憑坐となり、荒神の力を手にした忍を――あのように追い詰められた目をした彼女を、このまま放っておくわけにはいかない。ひどく悪い予感がした。
何か良くないことが起こってしまう前に、止めなければ。それができるのは、巫女姫である桃子だけだった。
「西宮くん、今までありがとう。それから……勝手でごめんなさい」
「行くな、南条――――……桃子……っ!」
西宮の悲痛な声にも、桃子はついぞ振り返らなかった。
彼から下の名を呼ばれたのは何年ぶりかと思うと、自然と涙がこぼれた。
西宮が桃子の無事を何より喜んでいるのは嬉しかったが、桃子はどこか、複雑な気持ちを抱えていた。
夜になると、今宵も桃子の寝る和室には、当然のように布団が二組敷かれていた。
こうなることはすでにわかっていたので、桃子はもう大きく動揺したりはしなかった。それに、桃子の心中を知る西宮なら、自主的に別室で寝る選択をしてくれるだろうとも思ったのだ。
しかし。
予想に反して、彼は今夜、桃子と同室で眠ると宣言した。慌てる桃子に、西宮が真剣な顔で語った。
今後、忍をはじめとした北条の手の者が、いつ桃子を狙ってくるかわからない。差し迫った状況になれば、強硬手段に出てくる可能性もある。しばらくは、西宮邸の警備も強化するとのことだった。
「俺と同室で寝るのが嫌なのはよくわかる。けど、下手をすればお前は殺されるかもしれない。お前に危険が迫っている以上、こればっかりは譲れない」
西宮は頑として引かなかった。
「俺が東宮から荒神の力を奪ったとき、あいつが腑抜けていたからすんなり事が運んだけど、もしもあいつに戦意があったなら、どっちかが死んでてもおかしくはなかった。神の力に関わるっていうのは、そういうことでもある」
春彦が、荒神の力は生かすか殺すかだと言っていたことを、桃子は思い出していた。
だから西宮は、その覚悟のもと、凄まじすぎる荒神の力を、いまだほとんど使ったことがないのだとも打ち明けた。
「お前に何かあってから後悔するくらいなら、嫌われてでも、俺はお前のそばにいるぞ」
こうまで言われてしまえば、桃子も承服せざるをえなかった。
(春彦くんにも、似たようなことを言われたな……)
そう思うと、少なからず胸が痛んだ。
幸いなことに、北条側の目的ははっきりしている。彼らが欲するものはただ一つ、現時点で桃子が有している「巫女姫の座」だ。それがわかっているだけで、出方も講じやすくなる。
この邸宅の中で一番安全な場所は、憑坐である西宮のそばにいることだった。
「心配しなくても、南条が嫌なうちは、絶対に手を出したりなんてしない。俺だって、もうこれ以上、お前に嫌われたり泣かれたりなんてしたくないんだよ」
西宮が自発的にそう宣言してきたので、少しだけほっとした。
本音を言えば、今日大巫女に聞かされた話を思い返すと、無理を押してでも、もう一度西宮に抱かれるべきなのだろうかとも考えた。
――しかし、忍にあのような恐ろしい幻を見せられたあとでは、とてもそんな勇気は持てなかった。
西宮は、桃子の気持ちを最大限に尊重してくれている。そして、彼自身も非常に穏やかで、荒ぶるような兆しは今のところ見受けられない。
それならば、もう少しだけ、今のままでも許されるのではないかと思えた。
西宮が以前語った、「憑坐と巫女姫の関係は、体だけの繋がりでできているわけじゃない」という言葉を信じて。
間もなく、二人はそれぞれの床についた。
眠れるわけがないと思っていたのに、体は連日の睡眠不足に負けて、桃子はいつの間にかうとうとしてしまっていた。
しかし、場の空気が変わったことを察知すると、考えるより先に、体が布団から跳ね起きていた。
西宮がふすまの前で、刀を構えて臨戦態勢をとっているのが見えた。
その張り詰めた表情を見るに、彼はずっと起きていたのかもしれない。
あたりはまだ、月明かりしか差し込まないような、深い夜に包まれていた。
ふすまの向こうに一室、そしてそこから廊下に続いており、窓を開ければすぐ縁側に繋がっている。ようするに、屋敷の外だ。
桃子が西宮に問いかけるより先に、彼は動いていた。
西宮が抜刀と同時に、目の前にあったふすまを切り裂く。
弾け飛んだふすまの向こうには、開け放たれたガラス戸と夜月を背に立つ、巫女装束姿の忍がいた。
月明かりに照らされた北条の巫女は、明るいうちに目にする以上に冴え冴えと美しく、桃子は思わず息を呑んだ。
しかし、見とれてはいられない。この美しい娘にとっての巫女装束とは、紛うことなき戦闘服なのだ。
眉一つ動かすことなく、忍が言った。
「荒神の力とはこの程度か。思ったほどではなかったな」
これには西宮も、負けじと反論する。
「ばーか、今のは警告だ。俺はまだ、一度もこの神の力を使ったことはないんだ。だから匙加減もわからない。お前を生かしたまま捕らえるような、器用な使い方はできねえからな」
西宮の言葉を聞くと、忍はくっと声を押し殺すように笑った。
「私がこの程度かと言ったのは、この屋敷の警備に対してだよ。てっきり、敷地内を丸ごと異層に置いて、北条の手の届かないところに逃げ込むくらいはしているものと思った。神の力があれば可能だろう」
「それは俺も考えた。でも、誰もが別の層で長いこと平気でいられるわけじゃないし、界層が変われば流れる時間だって変わる。そんな不毛な籠城で長期戦に持ち込むより、あえて敵を懐に誘い込んで、さっさとけりをつけたくてね。俺は気が短いほうなんだ」
「なるほど。だから私は見逃され、ここまですんなり入り込めたというわけか。ものものしく警戒態勢が敷かれていた割には、幻術に耐性のない者ばかりで、少々肩透かしをくらっていた」
そう言われて、西宮はかすかに眉を動かす。
「そんなやわな連中ばかりじゃねえはずだけど。そっちがよっぽど卑怯な手でも使っていない限りは」
「ああ、それもそうだな。たしかに、西宮の手の者が特別弱いというわけではなかった。西宮に限らず、もともとこの町の者は、長らく北条の幻術にかかりっぱなしでいたから、惑わされやすくなっているのは仕方のないこと」
西宮が、わずかに目を見張った。
「俺も憑坐になってから、初めてお前が幾重にも幻術をまとっているのを知ったよ。でも、そこまで大掛かりなものとは思わなかった。神の目は見えすぎるから、時々普通の人間の感覚を忘れちまうのがやっかいだな。お前が下手なことをしなければ見逃してやろうと思ってたけど、それが甘かったってことか。観念しろよ、北条。これでお前の小細工もおしまいだ」
「好きにするといい。もとより、こちらは覚悟の上だ」
この場では、明らかに忍が不利な状況であることは間違いない。
そのはずだが、彼女は単身ここまで乗り込んできたあげく、荒神の力を持つ西宮の前でも、まったく動じる様子を見せなかった。
西宮は、そこが少々引っかかり、気味悪くも感じていた。
「北条、一つ聞きたい。お前、こんなところまでたった一人で、しかも一番警戒が強まってるだろう今夜ってタイミングをあえて選んで、さすがに下手打つって思わなかったのか。冷静なお前らしくもない」
「ああ、そうかもな……。西宮、お前の言うとおり、今の私は冷静さを欠いている。だってそうだろう。冷静でなどいられるものか。私は、もうずっと耐えてきたんだ。絶好の状況とタイミングを見計らえば、今より勝算はあったかもしれない。でも、そうして日を追うごとに、お前のような薄汚い憑坐が、巫女姫を穢し食い物にしているのかと思うと、もはや我慢がならない。こんなことは、一日も早く終わらせなければならない」
忍の言葉を聞いて、西宮が目を瞬かせた。
「お前、巫女姫の座を、南条から奪いにきたんじゃないのか」
「奪おうとしていたさ。もう、何年も前からずっと。でも、それはどうあっても叶わないことだと悟った。だからお前を殺しに来たんだ、西宮」
「は……、え?」
西宮は、忍が何を言っているのかまったく理解できなかった。
彼が目を白黒させているあいだに、忍は短剣を構えた。
「今度は幻の剣などではないぞ。覚悟しろ、荒神」
忍が西宮に襲いかかろうとしたとき、背後に控えていた桃子が叫んだ。
「やめて、忍ちゃん! お願い西宮くん、忍ちゃんを殺さないで……ッ」
「――くそっ」
桃子の悲痛な声がわずかに西宮をとどまらせ、彼の殺意をぎりぎりのところで押しとどめた。
忍が向かってきたとき、西宮は彼女の体を突き飛ばして剣をかわした。それとともに、忍がまとっていた幻術も解除した。
だが――。
西宮自身も、そのとき同時に奪われたものがあった。
「な……」
西宮が、信じられないとばかりに、わなわなと両手を震わせていた。
「北条、お前――――――――ちくしょう、やりやがったな! 最初からそれが目的だったのか!」
地面に倒れ込んだ忍に、西宮が怒号を浴びせた。
西宮は、今しがた自身に起こったことが受け止めきれず、何度も自分と忍とを交互に見比べては、愕然とした。
しかし、この場で誰より動転していたのは、実のところ忍本人だった。
「忍ちゃん、大丈夫?」
桃子が裸足のまま外に降り立ち、忍のそばに駆け寄ろうとした――――そのとき。
「……来るな!」
忍がきつく制した。
聞いたこともない低い声に、桃子は驚き、思わず足を止めていた。
今の声は本当に忍のものかと耳を疑ったほど、普段とはあまりに違う声質。
忍の長い髪は解けて乱れ、彼女の素顔がほとんど隠れてしまっている。
しかし、一瞬だけ、その白い頬が濡れて光っているのが見えた。
「お願いだ、桃子……私を見ないでくれ……」
そう言い残すと、忍は瞬く間にこの場から姿を消していた。
彼女がいなくなってからも、桃子は呆然としたまま、しばらくその場から動けずにいた。
忍の発した声が、いつまでも脳裏に焼きついて離れない。
(本当に低い声だった。まるで、男の人みたいな――――)
そして、それ以上に気にかかることがあった。わずかに桃子と目が合ったときの、忍の絶望に打ちひしがれたような、あの表情。
あんな顔をした忍を、桃子は今まで一度も見たことがなかった。まるで、何か恐ろしいものに怯える、哀れな幼子のような目をしていた。
桃子がふらふらと歩き始めたのを見て、西宮が彼女の腕を掴んで止めた。
「待てよ、南条。どこに行く気だ」
「泣いてたの……あんなにいつも気丈な忍ちゃんが、まるで子どもみたいに。私、行かなきゃ……」
「だめだ、行かせない。絶対に」
西宮は、いっそう桃子の腕を強く掴んでいた。力任せに引き止めるというよりは、ほとんど懇願に近い形で、彼は桃子に追いすがった。
「行かないでくれ、南条。頼む、行くな」
「ごめんなさい、西宮くん……。でもこれは、たぶん私にしかできないことなの。忍ちゃんを救えるのは私だけだって、今ならそれがわかるから」
「俺にだって、お前が必要なのに。俺よりあいつを選ぶのか。俺が――憑坐じゃなくなったから」
声を詰まらせながら西宮が言った。桃子は胸が痛んだが、それでも、ここに留まることはできないと考えた。
新たな憑坐となり、荒神の力を手にした忍を――あのように追い詰められた目をした彼女を、このまま放っておくわけにはいかない。ひどく悪い予感がした。
何か良くないことが起こってしまう前に、止めなければ。それができるのは、巫女姫である桃子だけだった。
「西宮くん、今までありがとう。それから……勝手でごめんなさい」
「行くな、南条――――……桃子……っ!」
西宮の悲痛な声にも、桃子はついぞ振り返らなかった。
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