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第三章 蔑むべきもの
荒魂
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桃子は初めて自分の意識下で、結びの力を使っていた。違う界層へと飛び込み、忍のあとを追って走った。
肌がぴりぴりするのを感じて、時空の歪みが生じているのを悟る。時間が少し動いたのかもしれない。急がなければならなかった。
走りながら、少しずつ現世の界層に戻っていくのがわかった。
現世はまだ夜のようだ。それほど時間が経過したわけではないと安心しかけたとき、目の前に信じがたい光景が飛び込んできた。
辺り一面、見渡す限り火の海だ。いくつかの建物が激しく燃え盛る炎に包まれ、周囲の森にまで飛び火し、まるで昼間のように明るくなっている。
あまりの惨状に言葉を失った。
ふらつく足元に固い何かがぶつかる。地面に転がっていたのは、壊れた石像。狼を象ったものだった。
この石像には見覚えがある。もとは北上神社の入り口に配された狛犬――その片割れだったものだ。
こんな特徴的な狛犬を見間違えるはずがない。
桃子は、ここが変わり果てた北上神社だということをようやく悟った。
あんなに立派で美しかった社殿も、神門も、塀も垣も、庭園までも、すべてが無残な姿で焼け落ちてしまっている。
北上神社の関係者と思しき者たちが、忙しなく消火活動に当たっている。
桃子は、この中のどこかに忍がいるのではないかと必死で探した。「忍のもとへ」と願ってひたすら走り抜けて出た場所が、ここだ。忍は確かにこの近くにいるはずなのだ。
「そこにいるのは、南条桃子さんじゃないか?」
急に背後から呼び止められ、振り返る。
そこには屋敷から焼け出されてきたと見られる忍の両親が、二人して立っていた。彼らは、寝巻姿に裸足でいる桃子を見ても、特に驚く素振りもない。
忍の父――北条昌宏が、悲愴な面持ちで口を開いた。
「桃子さん、君が来てくれるんじゃないかと思っていたよ。でなければ、こちらから探しに行くつもりでいた。身勝手は承知の上で、お願いしたいことがある。どうか忍を――息子を助けてはもらえないだろうか。あれは、荒れすさぶ神になってしまった。我々もまったく予期していなかったことなのだ」
桃子は思わず聞き返していた。
「息子……?」
「話せば長くなる。我々北条は、この町の住民すべてを欺く大掛かりな幻術を施し、忍を巫女姫候補として擁立した。しかし、あの子は本当は男子なのだ。今まで騙すような真似をして、本当に申し訳なかった。こうでもしなければ、北条の体面を保つことができなかった。
北条の血族は近年男ばかりで、選定の儀が差し迫る中、巫女姫候補となる女子をついに用意できなかった。決して多くはないが、男子の巫女姫が選ばれた前例も、過去にないわけではない。もちろん、憑坐が女子であったことも。忍も納得してくれていた。それが、まさかこんなことになるなんて……」
桃子は、ふと思い返していた。
忍は昔、男の子のようにわんぱくだったと記憶していたが、あれは本当に男の子だったのだ。
頭の中が、すっきりと晴れ渡っていくようだった。どうして忘れていたのだろう。北条の幻術に、桃子自身も長年惑わされてきたということなのか。
そうだ、忍は最初から男の子だった。一緒に遊ぶとき、足が速くて桃子はいつも置いていかれてしまった。必死で追いかけると、遠くで少年の忍が手を振り、桃子を待ってくれていた。そんな幼少期を今になって思い返す。
いつから忍が女性として振る舞うようになったのかはわからないが、忍がまだ男の子でいたときのことを、桃子は確実に知っていた。
昌宏のそばにいた忍の母――喜佐子が、黙っていられず桃子の手を握りしめた。
「桃子さん、私たちはあなたを追い落とそうとした身ですが、恥を忍んで私からもお願いします。忍をどうか助けてあげて。巫女姫であるあなたにしか頼めない。あの子のためならどんなことでもします、だからどうか……っ」
昌宏と喜佐子がその場で膝をつき、額が地面につくほどひれ伏したため、桃子は慌てて同じように膝をついて、彼らの肩に手をやった。
「顔を上げてください、おじ様、おば様。お願いされるまでもなく、私は最初から忍ちゃんが心配でここに来たんです。それで、忍ちゃんは今どこに……?」
「本殿に立てこもったまま、出てこないんだ。社も何もかもすべて焼け落ちてしまったというのに、不思議なことに、忍のいる本殿だけは、燃えながらも形を残してそのままそこにある」
話を聞くと、桃子はすぐさま身をひるがえして本殿へと向かった。
駆けているうちに、忘れていた忍との思い出が次々と脳裏によみがえっていた。「大人になったら結婚しよう」と二人で約束したこともあった。幼少期の、何の拘束力も持たないよくある口約束だ。
だが、あるとき桃子が、忍とは結婚できないかもしれないと言って泣いたのだ。
「私は大きくなったら、荒神様の巫女姫に選ばれないといけないって。巫女姫っていうのは、神様のお嫁さんのことなんだって。私、巫女姫になんてなりたくない」
泣きじゃくる桃子を優しく抱きしめて、少年の忍が言った。
「大丈夫だ、桃子。お前のことは俺が守る。荒神になんてやるものか」
そのやりとりを思い出したとき、桃子は涙があふれて止まらなかった。
(そうだ、私を守ると言ってくれた小さな男の子……あれは忍ちゃんだったんだ……)
参道を一気に走り抜けて本殿にたどり着くと、袖で涙をひと拭いした。
平時ならば、拝殿の奥に秘め隠されるようにして建っていた本殿だが、今は前方の拝殿がすっかり焼け落ちてしまい、本殿の建物がむき出しになっていた。昌宏の話のとおり、本殿も激しい炎に包まれているというのに、朽ちる様子もなく、それどころか普段にも増して堅牢にすら見えた。
とてもではないが、燃え盛る扉には触れられそうもない。
桃子は意を決し、空間をすり抜けて本殿の中に入り込んでいた。屋内まで燃えていたら焼け死んでいたところだが、幸いにも中に炎や煙の被害はなく、外の喧騒が嘘のように静まりかえっていた。
いつの間にか、桃子は巫女装束になっていたことに気づき、驚く。ここは北上神社の中枢であり、忍の領域だ。望めば、それが幻となって現れるのかもしれない。
本殿外陣を抜け、内陣に突入したとき――桃子は想像を絶するおぞましい光景を目にしていた。
高い天井すらも突き破ってしまいそうな、とてつもなく巨大な蛇――それも、八頭を携え、室内を窮屈そうにうごめく蛇神が、一斉にこちらをにらみ据えてきた。
血の気が引くなどという生易しいものではない。今の一瞬で、桃子は自らの死をはっきりと予感させられていた。あの鬼灯のような赤いギョロリとした目に睨まれれば、誰であろうとすくみ上がるしかなくなる。
しかし――。どういうわけか、大蛇は桃子を一瞥したきり目もくれず、別の標的を見定めていた。
それは、気を失い無防備に床に横たわっている忍だった。
おそらくあの大蛇は、荒神の一部である八岐大蛇。大蛇は神話のころより贄を求めるものであり、忍は供物として最高の馳走だと、大蛇自身が判断したのだ。
なぜ、憑坐となったはずの忍が、荒神の一部である大蛇に牙を剥かれているのか理由はわからない。
しかし、巫女姫の桃子が、いまだ荒神を鎮められずにいるのだ。憑坐もまた、すぐに荒神にその身を馴染ませられるとは限らないのかもしれない。
もしも忍が荒神を拒絶しているのだとしたら、その一部である大蛇が暴走してもなんらおかしくはない。
すくんでいた足がようやく動くようになったときには、もう遅かった。
大蛇が一斉に、忍めがけて鎌首をもたげる。駆けつけた桃子が、とっさに障壁のような結界を張り、いくつかの頭を弾き返したが、それでも八つは防ぎきれず、数頭が忍の体を食い破った。
桃子はそれを見た瞬間、我を忘れた。
逆上に駆られ咆哮しながら大蛇に飛びかかっていた。
いつの間にか両手に持っていた長物を、大蛇に向かって激しく振るう。すると、振るった軌跡がそのまま異界送りの門印となり、忍を貪っていた大蛇の頭一つが消し飛んだ。
桃子が手にしていたのは、箒筆だった。その名のとおり、箒のような形状と丈をした大筆だ。
その筆で、大蛇に向かって無意識に文字を書いたのだった。
祓詞の冒頭の、ほんの数文字だった。「掛けまくも畏き伊邪那岐大神……」から始まる、神事の前に唱えられる祝詞の一つ。すべて古文で書かれるものだ。
桃子はこの祝詞の意味もよく知らない幼い時分から、これに慣れ親しみ、いつもまじないのように心中で唱えていた。書道においても、一番書きなれた言葉だ。
大蛇の牙が向かってくるたび箒筆を振るい、祓詞の続きを大蛇にぶつける。
すると、浮かび上がった筆跡が、一つ頭分ずつ大蛇を次々と消していった。
退治ではなく、あくまであるべき異層へと追い返したに過ぎないが、危機回避にはなりえていた。
息もつけない中、ようやく最後の頭を消し飛ばしたことで、大蛇の姿は跡形もなく消えていた。
憑坐とは、こんなに恐ろしいものと一つになるということだったのだ。
あとに残ったのは、大蛇に食われ、深手を負った忍だけだった。
桃子は今しがたの恐怖や疲労も忘れて、忍のそばへと駆け寄った。
「しっかりして、忍ちゃん」
腹部外傷による出血がひどかった。
あの大蛇に襲われ、即死でなかっただけまだ幸運とも言えたが、瀕死であることに変わりない。忍が息をしていることが、奇跡のようだった。
血に染まった白衣を素早く脱がし、創部を確かめる。そのとき、初めて忍の男性としての体を目の当たりにして動揺したが、今はそれどころではなかった。
創部に両手をかざす。今の自分ならば、そして相手が忍であれば、この傷を癒せると確信した。
内臓まで損傷しているような深い傷だったが、思ったとおり、桃子の神力を受けて、傷がみるみるうちに塞がっていく。
忍が、ゆっくりと開眼していた。
「桃子、そんなこと、しなくていい……このまま死なせてくれ……」
低音でも、女性だったときと変わらず綺麗な声だった。しかし、開口一番に告げられた言葉がそれでは、命懸けで助けに来た桃子は憤然とするしかなかった。
「馬鹿なこと言わないで。忍ちゃんが生きようとしなければ、私がどんなにがんばったってこの傷は癒えないんだから」
「それでいい。荒神になんかなりたくない、お前を穢し傷つけるものになど……。そうなるくらいなら、このまま息絶えたほうがましだ」
「そんなの絶対許さない」
桃子は忍に文句を言いたい気持ちをぐっと抑えて、神力を使い続けた。その間にも、忍が静かに涙を流しているのを見て、泣きたいのはこちらだと視界がにじんだ。
桃子は悟った。
忍は――彼は、ここで死ぬつもりだったのだ。荒神を拒絶することで、大蛇に食われることを自ら望んだ。
忍がこれほど弱りきっているところを、桃子は今まで見たことがなかった。忍の知らない一面に触れたことが、不謹慎にも嬉しかった。誰にも本心を明かさなかった忍の、本当の姿を知りたいとずっと思っていたのだ。
弱い部分や秘密を知って、落胆するどころか、想いはますます強まった。どんなことをしても、この高潔で美しい人を守りたいと思った。
「大丈夫だよ、忍ちゃん。私は巫女姫よ。大切な人を――あなたを癒すためにここにいるの」
忍が目を見開く。そこで初めて、彼は傷の痛みに苦しみだしていた。痛みを感じるということは、すなわち生きたいという意思の表れでもあった。
桃子は必死で、傷の治癒に全神経を注いだ。幸いなことに、もう創部はかなり塞がりかけていた。荒神の器としての自己治癒力が高いことも、奏効しているのかもしれない。
しかし、ふとした瞬間に、先ほど異界送りにしたはずの大蛇が、まだ忍を食いたがって彼の中で暴れているのが見えた。
(忍ちゃんの生きたい気持ちと、荒神を受け入れたくないという思いが、闘っている……)
今のままでは、どちらが勝ってもおかしくはなかった。忍の魂は苦しみ、かつてないほど荒ぶっている。桃子には、それが手に取るようにわかった。
おそらく、忍の傷を完全に癒すことができても、それだけでは何の解決にもならないのだろう。また大蛇が暴れ出す可能性は十分にあった。
忍がここまで荒神を拒絶する理由は、明白だった。先ほど死にかけながら、桃子に告げた言葉がすべてなのだ。
荒神になって、桃子を傷つけたくない。かつて荒神から守ると約束した少女を、最後まで守り通したい。ただそれだけなのだ。
桃子は唇をきつく引き結ぶ。そして、苦しみ喘ぐ忍の耳元に、そっとささやいた。
「忍ちゃん、私はあなたに穢されたりなんてしないよ」
桃子は汗で張りついた忍の前髪を、優しく指ですいてから、わずかに微笑んだ。
「私があなたを穢すの」
忍の唇に、自身の唇を重ねる。口内で、忍の悲鳴が小さく上がったのがわかった。
肌がぴりぴりするのを感じて、時空の歪みが生じているのを悟る。時間が少し動いたのかもしれない。急がなければならなかった。
走りながら、少しずつ現世の界層に戻っていくのがわかった。
現世はまだ夜のようだ。それほど時間が経過したわけではないと安心しかけたとき、目の前に信じがたい光景が飛び込んできた。
辺り一面、見渡す限り火の海だ。いくつかの建物が激しく燃え盛る炎に包まれ、周囲の森にまで飛び火し、まるで昼間のように明るくなっている。
あまりの惨状に言葉を失った。
ふらつく足元に固い何かがぶつかる。地面に転がっていたのは、壊れた石像。狼を象ったものだった。
この石像には見覚えがある。もとは北上神社の入り口に配された狛犬――その片割れだったものだ。
こんな特徴的な狛犬を見間違えるはずがない。
桃子は、ここが変わり果てた北上神社だということをようやく悟った。
あんなに立派で美しかった社殿も、神門も、塀も垣も、庭園までも、すべてが無残な姿で焼け落ちてしまっている。
北上神社の関係者と思しき者たちが、忙しなく消火活動に当たっている。
桃子は、この中のどこかに忍がいるのではないかと必死で探した。「忍のもとへ」と願ってひたすら走り抜けて出た場所が、ここだ。忍は確かにこの近くにいるはずなのだ。
「そこにいるのは、南条桃子さんじゃないか?」
急に背後から呼び止められ、振り返る。
そこには屋敷から焼け出されてきたと見られる忍の両親が、二人して立っていた。彼らは、寝巻姿に裸足でいる桃子を見ても、特に驚く素振りもない。
忍の父――北条昌宏が、悲愴な面持ちで口を開いた。
「桃子さん、君が来てくれるんじゃないかと思っていたよ。でなければ、こちらから探しに行くつもりでいた。身勝手は承知の上で、お願いしたいことがある。どうか忍を――息子を助けてはもらえないだろうか。あれは、荒れすさぶ神になってしまった。我々もまったく予期していなかったことなのだ」
桃子は思わず聞き返していた。
「息子……?」
「話せば長くなる。我々北条は、この町の住民すべてを欺く大掛かりな幻術を施し、忍を巫女姫候補として擁立した。しかし、あの子は本当は男子なのだ。今まで騙すような真似をして、本当に申し訳なかった。こうでもしなければ、北条の体面を保つことができなかった。
北条の血族は近年男ばかりで、選定の儀が差し迫る中、巫女姫候補となる女子をついに用意できなかった。決して多くはないが、男子の巫女姫が選ばれた前例も、過去にないわけではない。もちろん、憑坐が女子であったことも。忍も納得してくれていた。それが、まさかこんなことになるなんて……」
桃子は、ふと思い返していた。
忍は昔、男の子のようにわんぱくだったと記憶していたが、あれは本当に男の子だったのだ。
頭の中が、すっきりと晴れ渡っていくようだった。どうして忘れていたのだろう。北条の幻術に、桃子自身も長年惑わされてきたということなのか。
そうだ、忍は最初から男の子だった。一緒に遊ぶとき、足が速くて桃子はいつも置いていかれてしまった。必死で追いかけると、遠くで少年の忍が手を振り、桃子を待ってくれていた。そんな幼少期を今になって思い返す。
いつから忍が女性として振る舞うようになったのかはわからないが、忍がまだ男の子でいたときのことを、桃子は確実に知っていた。
昌宏のそばにいた忍の母――喜佐子が、黙っていられず桃子の手を握りしめた。
「桃子さん、私たちはあなたを追い落とそうとした身ですが、恥を忍んで私からもお願いします。忍をどうか助けてあげて。巫女姫であるあなたにしか頼めない。あの子のためならどんなことでもします、だからどうか……っ」
昌宏と喜佐子がその場で膝をつき、額が地面につくほどひれ伏したため、桃子は慌てて同じように膝をついて、彼らの肩に手をやった。
「顔を上げてください、おじ様、おば様。お願いされるまでもなく、私は最初から忍ちゃんが心配でここに来たんです。それで、忍ちゃんは今どこに……?」
「本殿に立てこもったまま、出てこないんだ。社も何もかもすべて焼け落ちてしまったというのに、不思議なことに、忍のいる本殿だけは、燃えながらも形を残してそのままそこにある」
話を聞くと、桃子はすぐさま身をひるがえして本殿へと向かった。
駆けているうちに、忘れていた忍との思い出が次々と脳裏によみがえっていた。「大人になったら結婚しよう」と二人で約束したこともあった。幼少期の、何の拘束力も持たないよくある口約束だ。
だが、あるとき桃子が、忍とは結婚できないかもしれないと言って泣いたのだ。
「私は大きくなったら、荒神様の巫女姫に選ばれないといけないって。巫女姫っていうのは、神様のお嫁さんのことなんだって。私、巫女姫になんてなりたくない」
泣きじゃくる桃子を優しく抱きしめて、少年の忍が言った。
「大丈夫だ、桃子。お前のことは俺が守る。荒神になんてやるものか」
そのやりとりを思い出したとき、桃子は涙があふれて止まらなかった。
(そうだ、私を守ると言ってくれた小さな男の子……あれは忍ちゃんだったんだ……)
参道を一気に走り抜けて本殿にたどり着くと、袖で涙をひと拭いした。
平時ならば、拝殿の奥に秘め隠されるようにして建っていた本殿だが、今は前方の拝殿がすっかり焼け落ちてしまい、本殿の建物がむき出しになっていた。昌宏の話のとおり、本殿も激しい炎に包まれているというのに、朽ちる様子もなく、それどころか普段にも増して堅牢にすら見えた。
とてもではないが、燃え盛る扉には触れられそうもない。
桃子は意を決し、空間をすり抜けて本殿の中に入り込んでいた。屋内まで燃えていたら焼け死んでいたところだが、幸いにも中に炎や煙の被害はなく、外の喧騒が嘘のように静まりかえっていた。
いつの間にか、桃子は巫女装束になっていたことに気づき、驚く。ここは北上神社の中枢であり、忍の領域だ。望めば、それが幻となって現れるのかもしれない。
本殿外陣を抜け、内陣に突入したとき――桃子は想像を絶するおぞましい光景を目にしていた。
高い天井すらも突き破ってしまいそうな、とてつもなく巨大な蛇――それも、八頭を携え、室内を窮屈そうにうごめく蛇神が、一斉にこちらをにらみ据えてきた。
血の気が引くなどという生易しいものではない。今の一瞬で、桃子は自らの死をはっきりと予感させられていた。あの鬼灯のような赤いギョロリとした目に睨まれれば、誰であろうとすくみ上がるしかなくなる。
しかし――。どういうわけか、大蛇は桃子を一瞥したきり目もくれず、別の標的を見定めていた。
それは、気を失い無防備に床に横たわっている忍だった。
おそらくあの大蛇は、荒神の一部である八岐大蛇。大蛇は神話のころより贄を求めるものであり、忍は供物として最高の馳走だと、大蛇自身が判断したのだ。
なぜ、憑坐となったはずの忍が、荒神の一部である大蛇に牙を剥かれているのか理由はわからない。
しかし、巫女姫の桃子が、いまだ荒神を鎮められずにいるのだ。憑坐もまた、すぐに荒神にその身を馴染ませられるとは限らないのかもしれない。
もしも忍が荒神を拒絶しているのだとしたら、その一部である大蛇が暴走してもなんらおかしくはない。
すくんでいた足がようやく動くようになったときには、もう遅かった。
大蛇が一斉に、忍めがけて鎌首をもたげる。駆けつけた桃子が、とっさに障壁のような結界を張り、いくつかの頭を弾き返したが、それでも八つは防ぎきれず、数頭が忍の体を食い破った。
桃子はそれを見た瞬間、我を忘れた。
逆上に駆られ咆哮しながら大蛇に飛びかかっていた。
いつの間にか両手に持っていた長物を、大蛇に向かって激しく振るう。すると、振るった軌跡がそのまま異界送りの門印となり、忍を貪っていた大蛇の頭一つが消し飛んだ。
桃子が手にしていたのは、箒筆だった。その名のとおり、箒のような形状と丈をした大筆だ。
その筆で、大蛇に向かって無意識に文字を書いたのだった。
祓詞の冒頭の、ほんの数文字だった。「掛けまくも畏き伊邪那岐大神……」から始まる、神事の前に唱えられる祝詞の一つ。すべて古文で書かれるものだ。
桃子はこの祝詞の意味もよく知らない幼い時分から、これに慣れ親しみ、いつもまじないのように心中で唱えていた。書道においても、一番書きなれた言葉だ。
大蛇の牙が向かってくるたび箒筆を振るい、祓詞の続きを大蛇にぶつける。
すると、浮かび上がった筆跡が、一つ頭分ずつ大蛇を次々と消していった。
退治ではなく、あくまであるべき異層へと追い返したに過ぎないが、危機回避にはなりえていた。
息もつけない中、ようやく最後の頭を消し飛ばしたことで、大蛇の姿は跡形もなく消えていた。
憑坐とは、こんなに恐ろしいものと一つになるということだったのだ。
あとに残ったのは、大蛇に食われ、深手を負った忍だけだった。
桃子は今しがたの恐怖や疲労も忘れて、忍のそばへと駆け寄った。
「しっかりして、忍ちゃん」
腹部外傷による出血がひどかった。
あの大蛇に襲われ、即死でなかっただけまだ幸運とも言えたが、瀕死であることに変わりない。忍が息をしていることが、奇跡のようだった。
血に染まった白衣を素早く脱がし、創部を確かめる。そのとき、初めて忍の男性としての体を目の当たりにして動揺したが、今はそれどころではなかった。
創部に両手をかざす。今の自分ならば、そして相手が忍であれば、この傷を癒せると確信した。
内臓まで損傷しているような深い傷だったが、思ったとおり、桃子の神力を受けて、傷がみるみるうちに塞がっていく。
忍が、ゆっくりと開眼していた。
「桃子、そんなこと、しなくていい……このまま死なせてくれ……」
低音でも、女性だったときと変わらず綺麗な声だった。しかし、開口一番に告げられた言葉がそれでは、命懸けで助けに来た桃子は憤然とするしかなかった。
「馬鹿なこと言わないで。忍ちゃんが生きようとしなければ、私がどんなにがんばったってこの傷は癒えないんだから」
「それでいい。荒神になんかなりたくない、お前を穢し傷つけるものになど……。そうなるくらいなら、このまま息絶えたほうがましだ」
「そんなの絶対許さない」
桃子は忍に文句を言いたい気持ちをぐっと抑えて、神力を使い続けた。その間にも、忍が静かに涙を流しているのを見て、泣きたいのはこちらだと視界がにじんだ。
桃子は悟った。
忍は――彼は、ここで死ぬつもりだったのだ。荒神を拒絶することで、大蛇に食われることを自ら望んだ。
忍がこれほど弱りきっているところを、桃子は今まで見たことがなかった。忍の知らない一面に触れたことが、不謹慎にも嬉しかった。誰にも本心を明かさなかった忍の、本当の姿を知りたいとずっと思っていたのだ。
弱い部分や秘密を知って、落胆するどころか、想いはますます強まった。どんなことをしても、この高潔で美しい人を守りたいと思った。
「大丈夫だよ、忍ちゃん。私は巫女姫よ。大切な人を――あなたを癒すためにここにいるの」
忍が目を見開く。そこで初めて、彼は傷の痛みに苦しみだしていた。痛みを感じるということは、すなわち生きたいという意思の表れでもあった。
桃子は必死で、傷の治癒に全神経を注いだ。幸いなことに、もう創部はかなり塞がりかけていた。荒神の器としての自己治癒力が高いことも、奏効しているのかもしれない。
しかし、ふとした瞬間に、先ほど異界送りにしたはずの大蛇が、まだ忍を食いたがって彼の中で暴れているのが見えた。
(忍ちゃんの生きたい気持ちと、荒神を受け入れたくないという思いが、闘っている……)
今のままでは、どちらが勝ってもおかしくはなかった。忍の魂は苦しみ、かつてないほど荒ぶっている。桃子には、それが手に取るようにわかった。
おそらく、忍の傷を完全に癒すことができても、それだけでは何の解決にもならないのだろう。また大蛇が暴れ出す可能性は十分にあった。
忍がここまで荒神を拒絶する理由は、明白だった。先ほど死にかけながら、桃子に告げた言葉がすべてなのだ。
荒神になって、桃子を傷つけたくない。かつて荒神から守ると約束した少女を、最後まで守り通したい。ただそれだけなのだ。
桃子は唇をきつく引き結ぶ。そして、苦しみ喘ぐ忍の耳元に、そっとささやいた。
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桃子は汗で張りついた忍の前髪を、優しく指ですいてから、わずかに微笑んだ。
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霧内杳/眼鏡のさきっぽ
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