期限付きの側室なのに皇太子殿下が離してくれません!

林檎

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第一章 契約の側室編

侍女の葛藤

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「あの女のせいで……! まさか、こんなことになるなんて……。全く、最悪だわ!この私に十万ルペも払わせるなんて!」

侍女長がヒステリックに喚き散らす声に、傍らに控えるシャーリーはビクッと肩を震わせた。
怒りの矛先がいつこちらへ向くか分からない。息を殺すように様子を窺うしかなかった。

(その十万ルペ、どうせリリアーヌ様に与えられる側室用の予算から出したんでしょうに……。)

だが、そんなことは死んでも口に出せない。言った瞬間、侍女長の怒りが自分にぶつけられるのは明白だった。

「駆除団子って何よ!あんな貧乏じみた団子なんか作ったせいで……!!」

完全な逆恨みだと気づいている者は多い。だが、誰一人としてそれを口に出す者はいない。
侍女長は舌打ちをし、

「ゴキブリがダメなら、次はムカデよ!」

侍女長は傍らに控えるシャーリーへ鋭く顎をしゃくった。

「シャーリー。今すぐムカデを集めてあの女の部屋にムカデを放してきなさい!」

「え、ええ!?わ、私がですか?」

「当然でしょう!どうしてこの私が、あんな気持ち悪い生き物に触らなきゃならないの!
これは命令よ!ぐずぐずしないで行きなさい!」

ムカデはシャーリー自身も大の苦手だ。
しかし、侍女長の冷たい瞳は拒絶を一切許さなかった。
涙目になりながら、シャーリーは庭の石畳の隙間からムカデを集め、小袋に押し込むしかなかった。

(な、なんで私が……)

胸の奥で小さく叫んだその声は、もちろん誰にも届かない。

シャーリーは、震える指先で小袋を抱え、廊下を進んだ。
袋の中ではムカデが、布越しにもわかるほどゆっくりとうねっている。

(嫌だ……。嫌だけど……、逆らったら、今度は私がどうなるか……)

罪悪感と恐怖が胸でせめぎ合う。
それでも、足はリリアーヌの部屋へ向かって進むしかなかった。

そっと扉を開け、誰もいない部屋に入る。
心臓は喉から飛び出しそうなほど跳ねている。

震えながら袋の紐に指をかけた——その瞬間。

足元で黒い影がバサッと動いた。

「きゃっ!?」

数匹のゴキブリが、まるで狙いすましたかのようにシャーリーの靴に向かって突撃してきた。

「ひっ……ひぃぃぃぃっ!!」

シャーリーは小袋を放り投げ、涙を散らしながら廊下へ飛び出した。
ゴキブリたちは、まるで追いかけるようにカサカサと床を走り回る。

天井の梁の上には、小さな光の塊がちょこんと腰かけていた。
羽をきらりと光らせながら、妖精は腕を組み、満足げに笑っている。

「……リリアーヌに手ぇ出すからだよ。」





ダリオと別れたリリアーヌは、余った団子をどうしようかと悩んでいた。

「あ、そうだ!侍女長の部屋にもゴキブリが出たって言ってたし、これ持って行ってあげよう!」

そんなことをすれば、さっきの侍女たちと同じような反応をされることだろう。
だが残念ながら、それを指摘する者はいない。ダリオがその場にいれば止めただろうが、もう別れた後だ。
リリアーヌは早速、侍女長の部屋へ向かおうとした。その時、廊下の向こうから悲鳴が聞こえた。

「きゃああああ!」

慌てて駆けつけると、見知らぬ侍女が数匹のゴキブリに追いかけられていた。物陰から小さな妖精たちがクスクスと笑っていた。
まるで悪戯を仕掛けたかのように――。
だが、リリアーヌはそれに気付かない。
リリアーヌはすぐさま虫除けスプレーを取り出し、ゴキブリたちに振りかけた。
強烈なハーブの香りに、ゴキブリたちは一目散に逃げていく。

「だ、大丈夫ですか?怪我はありませんか?」

「あ、ありがとうございます……。」

侍女は震えながら答えた。よく見ると、若い娘だった。とても疲れた顔をしている。
お仕着せの服の裾は少し擦り切れていて、顔色も優れない。

「き、急にゴキブリが現れて…。追いかけてきて……、」

「それは怖かったですね。あ、そうだ。良かったらこれ使って下さい。」

リリアーヌは彼女に駆除団子の袋を差し出した。

「これは…?」

「ゴキブリ退治用の特製駆除団子です。部屋に置いておけばゴキブリ避けになるんです。あ、これは食用じゃないので食べないでくださいね。持っているだけでもゴキブリ避けになりますから!」

「い、いいんですか?」

「はい!これ、とてもよく効くんですよ。」

侍女は戸惑いながらも袋を受け取った。

「ありがとうございます。あの、私は皇太子妃殿下にお仕えしている侍女のシャーリーと申します。よければお名前を……、」

「ヴェロニカ様の侍女の方だったんですね。私はリリアーヌと言います。」

「え……!?リリアーヌって、側室様と同じ名前ですよね?」

「?はい。そうですよ。私がその側室です。ああ。ごめんなさい。こんな格好しているから、誤解しますよね。これから、厨房でお菓子作る予定だったので……。」

「え……、あ…、そんな……。」

シャーリーは顔色が蒼白になった。

(この方が…、リリアーヌ様?)

侍女長から散々聞かされていた。
「あの女は卑しい私生児の癖に皇太子殿下の側室になるなんて身の程知らず」、「立場を分からせてやらないと」、「妃殿下から寵愛を奪い取ろうとしている浅ましい女」等々。
でも、目の前にいるのは、自分を助けてくれた親切な人だった。

「そういえば、ヴェロニカ様はお元気ですか?」

リリアーヌは屈託なく笑った。

「ヴェロニカ様のおかげで、こんなに快適に過ごせているんです。広い部屋に、美味しいご飯に、フカフカのお布団に、ドレスまで用意して下さって……。本当に感謝です。もし、良ければヴェロニカ様にお礼を伝えておいてもらえませんか?」

シャーリーの顔が強張った。
快適?感謝ですって?
違う。ヴェロニカ様は新しい側室に陰湿な嫌がらせを仕組んでいた。侍女長を筆頭に使用人達は皆、あの方の息がかかった者たちだ。勿論、自分もその一人…。シャーリーはギュッと手を握り締めた。

なのに、この人は…、何も知らない。
本気であの方に感謝をしている。これだけひどい嫌がらせを受けているのに……。

「あの…、リリアーヌ様……。」

「はい?」

「い、いえ…。何でもありません。」

シャーリーは言葉に詰まった。
真実を言おうとしたが、侍女長の冷酷な目を思い出し、口を噤んだ。

(もし、バレたら……。)

同僚の包帯を巻いた手が脳裏に浮かぶ。
自分も同じ目に遭わされるかもしれない。いや、もっとひどい目に……。考えるだけで身体が震えた。

「そ、それでは、失礼します…!」

シャーリーは逃げるように立ち去った。

「あ…、行っちゃった。急いでいたのかな?」

リリアーヌは不思議そうに首を傾げながら、その背中を見送った。





「はあ……。」

「あ、シャーリー!お帰り。大丈夫だった?」

「どうだった?上手くできた?」

使用人用の自分の部屋に戻ると、同室のルーラとメルルが駆け寄ってきた。二人もシャーリーと同じくヴェロニカの専属侍女だ。そして、シャーリーと同じ下位貴族の娘たちだった。

「……うん。」

「それなら、良かった…!」

ルーラとメルルはホッと安堵した。

「帰りが遅いから、てっきり失敗したんじゃないかと心配してたのよ。」

「……。」

「シャーリー?」

暗い顔をして、黙り込むシャーリーに、二人は心配そうな顔をする。

「リリアーヌ様に…会ったの……。」

「え、そうなの?」

「温かい人だった……。親切で、使用人の私にも分け隔てなく接してくれて……。」

シャーリーは胸が苦しくなった。侍女長の命令で、自分はリリアーヌ様の部屋にゴキブリを集めて放った。
嫌がらせに加担したというのに、そうとも知らずにあの方は自分に親切にしてくれた。

「あの方…、何も悪くないのに…。元々は、妃殿下の命令で側室にされただけなのに。どうして、あんな嫌がらせを……、」

「や、やめなさい!シャーリー!それ以上、言ったら駄目よ!」

慌ててルーラがシャーリーを止めた。

「どこで誰に聞かれているか分からないのよ!万が一、妃殿下に知られたら、どうするの……!」

「そ、そうよ。シャーリー。妃殿下の機嫌を損ねればどんな目に遭わされるか……!」

メルルも怯えたように頷く。彼女の右手には包帯が巻かれていた。
昨日のことだ。ヴェロニカの機嫌が悪く、メルルが紅茶を運んだ時―「遅い」と言われた。
メルルが謝罪しようとした瞬間、ヴェロニカはカップを傾けて、熱い紅茶をメルルの手の甲にかけたのだ。

そのせいでメルルの手の甲は、真っ赤に腫れ、水ぶくれができている。
しかし、メルルには治療も許されず、簡単な手当てと包帯を巻いただけで、仕事を続けさせられている。

「ッ……。」

シャーリーは口を噤んだ。
この王宮でヴェロニカの命令に逆らうことは許されない。彼女に背いたり、少しでも意に反する行動をすれば排除される。これまで、何人もの使用人が辞めさせられ、王宮を去ったことか……。

皇太子の寵愛深いヴェロニカに、誰も逆らえない。
皇太子は仕事では有能だが、彼女を溺愛するあまり、その言葉を全て信じてしまう。そのため、ヴェロニカはやりたい放題だった。

シャーリーは手の中の袋を握り締めた。リリアーヌが作った駆除団子。あんな風に優しくされたのは初めてだった。涙が溢れそうになる。
自分がやっていることは間違っている。それは十分すぎるほど分かっていた。
でも、シャーリーには勇気がなかった。侍女長とヴェロニカに逆らえば、虐めがエスカレートすることが分かっていたから。

シャーリーはヴェロニカ専属の侍女といっても、その立場は弱い。下位貴族の娘であるシャーリーは、彼女の憂さ晴らしの標的にされていた。同じく下位貴族出身のルーラとメルルも同じような扱いだ。
ヴェロニカは侍女たちの中から、必ず数人は下位貴族の娘を選ぶ。選民意識の強い彼女が、なぜ下位貴族の娘を自分の侍女に選ぶのか。その理由は単純明快。日頃の鬱憤を晴らす玩具が欲しいからだ。

貴族派の令嬢に嫌味を言われた。皇太子妃にふさわしくないと陰口を叩かれた。理由は様々だが、その苛々をぶつける対象が侍女だった。そのため、ヴェロニカの侍女は入れ替わりが激しい。シャーリーの前に辞めた侍女も、ヴェロニカと他の侍女たちの虐めに耐え切れず、王宮を去ったと聞く。

(私も…いつか…。)

シャーリーは震える手で袋を抱き締めた。

(リリアーヌ様……。)

あの温かな笑顔が、脳裏に浮かんだ。
誰にでも優しく、分け隔てなく接してくれた。
使用人の自分にも、親切にしてくれた。

(あんな方を……、私、傷つけてしまった……。)

涙が一筋、頬を伝って落ちた。
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