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昔の事件
ええっ!? 無視ですかっ?
しおりを挟む先生は幕田さんのところに様子を見に行ってしまった。
部屋でくつろいでいるところに女が行くのも悪いしな、と思った深鈴は遠慮し、ひとり自室に戻ろうとしていた。
廊下の両側にはずらりと部屋に並んでいて、窓はない。
古い蛍光灯の灯りは少し薄暗かった。
菜切に聞いた話や、夕暮れの仏像群を思い出した深鈴は、突き当たりの白い壁の前に、勝手に怖い幻を見る。
ぞくりとしたとき、
「亮灯!」
といきなり誰かが自分を呼んだ。
いや、誰かって。
あの人しか居ないのだが。
晴比古先生には、亮灯と呼ぶことは禁じているし。
振り返ると、案の定、志貴が嬉しそうに手を振り、こちらに来るところだった。
どうやら、警察から戻ってきたようだ。
一応、此処では部外者なので、どの程度の話が聞けたのかはわからないが。
「もう~、志貴ったら」
此処で亮灯と呼ぶなと文句を言おうとした深鈴の手を取り、志貴は言う。
「大丈夫?
晴比古先生になにもされなかった?」
いきなり、それか……と苦笑いしながら、深鈴は、
「志貴。
誰が聞いてるかわからないのに、その名で呼ばないでって言ったじゃない」
と咎めたが、
「大丈夫。
誰も居ないよ」
と志貴は廊下なのに、抱き締めて来ようとする。
駄目よ、と押し返そうとする自分に、
「なんのために僕が此処まで来たと思ってるんだよ」
と志貴は文句を言ってくる。
そういえば、志貴は、事件のために来たわけでも、仏像を探しに来たわけでもなかったな、と気づいた。
「僕は亮灯に会いに来たんだよ。
なのに、なに?
なんでそんなにつれないの?
やっぱり、僕より、晴比古先生の方がよくなった?
わかったよ。
今すぐ、晴比古先生を殺してくるよ」
「待ったっ、志貴っ」
志貴は、つらつらと言ったかと思うと、すぐに踵を返そうとする。
迷いなくやるっ。
この人はやるっ。
深鈴は慌てて、志貴の腕を掴んだ。
「志貴、いつも言ってるでしょ。
私が好きなのは志貴だけだって」
「ほんとに?」
とすぐに足を止め、振り向いた志貴に、深鈴は、あれ? なんかはめられた? と思った。
「じゃあ、今すぐ、此処でキスしてよ」
そう志貴は言ってくる。
えーと……。
「早く。
十秒以内にしなかったら、晴比古先生、殺すから」
この人、刑事の自覚はあるのだろうかな?
「大丈夫。
晴比古先生でも解けないトリック使って殺すから」
もう考えてある、などと物騒なことを言い出す。
「いやあの、その場合、先生殺されてるから、謎解かないわよね。
っていうか、いつも謎解いてるの私で、先生、犯人見つけてるだけなんだけど」
もう~、しょうがないなあ、と言いながら、志貴の腕に触れ直すと、志貴が笑う。
こういう顔は好きなんだけどな、と思いながらも、廊下なので照れてキスなど出来ない。
そもそも自分からすることなどあまりないし。
「ほら、亮灯。
10……」
きゃああああああっ。
階下から悲鳴が聞こえてきた。
えっ? 今っ!? と思いながら、
「志貴、悲鳴が」
と言ったのだが。
「9……」
ええっ?
無視!?
「誰かっ。
誰か来てっ」
バタバタと人が走る音がする。
「8……」
「志貴っ」
「どうしたっ!?」
と下から聞き慣れた声が聞こえてきた。
ああ、先生がもう行ってる~っ!
「7……」
「わかったっ。
もうっ、わかったからっ」
軽く背伸びをして、少しだけ志貴の唇に触れてみた。
すぐに離れたので、怒るかと思ったが、志貴は、それだけで満足したようで、
「早く行こう、亮灯」
と手を握ってくる。
いやだから。
貴方ですよね。
貴方が引き止めてたんですよね~っ、と思いながら、深鈴は志貴に手を引かれ、階段に向かい、駆け出した。
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