先生、それ、事件じゃありません

菱沼あゆ

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事件の匂いがするらしいです……

本人の意見も聞いてあげてください

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 事務所を出て、みんなとも、じゃあねーと別れた夏巳は、
「おっかしーなー」
と呟きながら、古い平屋の家の門から出てくる男と出会った。

 よく見れば、高校の事務のおじさんだ。

「あ、こんにちはー」
と言うと、

「ああ、こんにちは」
と挨拶を返してくれるが、向こうからすれば、たくさん居る生徒のひとり、せいぜい顔を覚えてるくらいのことだろうな、と思っていた。

「どうかされたんですか?

 ……どうかされたんですかっ?」

 最初は軽い調子で訊いた夏巳だったが、思わず、二度訊きしてしまう。

 よく見れば、そのおじさん、平川ひらかわの後頭部は血塗れになっていたのだ。

 えっ? なに?
という顔をした平川は夏巳に言われ、ようやく、後ろ頭を撫でてみている。

「いてっ。
 って、……うわっ」
と平川は、おのれの手を見て、驚いていた。

 もう血は固まっているようだが、指先に少し血がついていた。

 なんでこの人、怪我したのに気づいてないんだ、と思いながら、
「大丈夫ですか?」
と夏巳が訊いたとき、

「おい、夏巳」
と声がした。

 振り代えると、あの白いビニール袋を手にした桂がこちらに向かい、歩いてくるところだった。

「やっぱり、俺ひとりじゃ食べきれないから、一個持って帰れよ。
 ……どうした」

 はあ、血塗れのおじさんが、と思っていると、案の定、桂は平川の後ろ頭を見、
「事件かっ?」
と言ってくる。

 だが、平川は呑気に笑って言った。

「いやいや。
 よろけてぶつけたか、どうかしたんでしょう。

 よくあるんですよ~。

 今日は妻が出かけてたんで、朝っぱらから、一杯ひっかけて寝てて――」

 一杯じゃないのでは……、と酒臭い平川を見ながら夏巳は思う。

「たぶん、酔って、トイレに行こうとして、柱にでもぶつけたんでしょう。

 この間なんか、目が覚めたら、あちこちあざだらけで」

 ……危険な酒だな。

 確かに。
 古い家には、たまにやけに鋭利な角のある柱があって、そこに頭をぶつけると、切れてしまったりもするが。

 それやるのって、大抵、子どもだけど、と夏巳は、いい大人である平川を見た。

「まあ、頭って、ちょっと切れただけでも、結構血が出ますもんね」
と夏巳は言ったのだが、桂は、

「事件じゃないのか?」
と意気込んでまた言う。

 いや、本人が酔って頭を打ったと言ってるんですが……。

 酔っ払いは、痛みを感じないことが多い。

 起きてびっくりなんて、よくあることらしいし。

 たぶん、平川が言うのが正しいのだろうと夏巳は思っていたが、桂は言う。

「そういえば、あんた、今、おかしーなーとデカイ声で言いながら出て来たよな」

 事件なら、この人は被害者のはずだが、何故、詰問きつもん口調。

 どうしても事件であって欲しい焦りの表れだろうか……。

 そう思う夏巳の前で、まだ酔っているのか、のらりくらりと平川は話し出す。

「ああ。
 妻がまだ帰ってなかったので、おかしいなと思って。

 習い事はもう終わってるはずなんですけどね。
 また、ランチにでも行ってんのかなー」

 妻の車を探すように、目の前の大きな道を平川は見回していた。

 ランチの時間なんて、もうとうに過ぎていると思うが。

 まあ、女性同士だとトークが長いからな、と思っていると、
「夏巳」
と声がした。

 振り返ると、スーツ姿の背の高い男と、スーツの上を脱いで、腕に引っ掛けている若い男がやってくるところだった。

「お父さん、どうしたの?」
と夏巳が言うと、その背の高い方である、夏巳の父は、

「いや、萩警察署にちょっと用があって」
と言いかけた言葉を止め、

「誰だ、夏巳。
 この男は」
と何故か、桂を睨む。

 桂はそれに気づいているのか、いないのか。

「ああ、お父さんですか」
と言った。

「お父さんっ!?」
と父、寛太かんたが叫ぶ。

「あのー、蒲生さん……」
と夏巳は言ったが、なにも察しない桂は、

「どうした?
 お前のお父さんなんだろ?」
と言ってくる。

 いや、そうなんですけどねー。


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