王の決断、またはそれにまつわる話

椎名さえら

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 その日、王は今までの人生でも今後の人生でも二度とはない決断を下した。

 全てが終わると、愛人の待つ私室へ向かった。部屋はいつものように心地よく整えられており、人払いもされていた。若い頃から苦楽を共にしている愛人――ジュベール侯爵公の二番目の娘だった――は、王の顔を一目見るや全てを察した。

「陛下、すぐにお休みになられますか?」

 女性にしては低めの静かなトーンの声が耳に優しい。それまで気を張っていた王はそこでようやく人心地がつき、細く息を吐いた。

「いや。明日は公務が午後にしかないから、酒を飲むことにする」

 彼女は余計なことは一切言わない。

「かしこまりました。では準備させていただきますね」

「ああ、頼む」

「お疲れでしょう、楽になさっていて」

 出会った頃はもっと畏まった話し方だった。こうして家族のように話しかけてくれるようになったのはいつからだったか……。

 ガタンと小さな音を立てて、豪華な革張りのソファに腰かけた。普段の王ならば絶対に立てないが――そもそも造りのよいソファでスプリングの音などほとんど鳴らない――こんな振る舞いも彼女の前だけは許される。王はソファに背を預け、眉間に自然と寄ってしまっている皺を、指でつまんで解した。

 手際よく酒の準備をして戻ってきた彼女に、王が告げた。

「ノーラ、ついに私は決断した」

 ☆

 隣国との政治的思惑が合致した結果、政略結婚をした王妃とは最初から関係は冷え切っていた。隣国で蝶よ花よと育てられていた第二王女であった妃は気位がとにかく高く、実務と遠乗りを好む活動的な王とは最初から気が合わなかった。私室も寝室も別であることを王妃は望んだ。
 公務の他は、子供を為すためだけ数回の閨のために顔をあわせただけである。それも部屋の中には何人もの側仕えや使用人が控え、王妃は全ての召し物を脱がなかった。

 一年後に産まれたのが王子だったため、その後二度と王妃は王に身体を開くことはなかった。一人は跡継ぎがいるからいいでしょう、と王妃は側仕えに話したと人づてに聞いた。王も王妃との意思疎通は諦めていた。

 その頃王宮での夜会で出会ったのが、ジュベール侯爵の次女であるノーラだった。

 ノーラはかつて王国一の美女と讃えられた彼女の母に似て、美しい女性だ。だが王の興味を引いたのは、彼女の端正な容姿にではなく、控えめな微笑みだった。話してみれば彼女は話題は豊富で、明晰な頭脳の持ち主であることはすぐに分かった。

 王がノーラの内面の輝きに惹かれたように、彼女も凛々しい王が隠し持っている繊細な心に惹かれたようだった。そんなノーラは、影として密かに王を支え続けてくれることとなる。ジュベール侯爵家も、王の相手として何ら問題のない家柄であり、周囲は王がノーラを愛人とするのを許容することとなった。隣国の手前、側妃にはしなかったが実際には同じような扱いを周囲からされていた。

 数年後、ノーラが男子を産んだ。王妃との間にこれ以上子は望めなかったので、王は閣議にかけたのち、この子供を第二王子と公表することに決めた。この決定に王妃はまったく反対しなかった。

 要するに、王妃は興味がないのだ。
 この国にも、王にも、自分の立場にも。
 王妃は自分好みの若者を愛人として側におき、かつ贅沢三昧をし続けることが出来ればそれでよいらしい。

 王妃との間に生まれた第一王子、アレクサンダーは、幼い頃から可愛らしい顔立ちをしていたものの、残念なことにあまり優秀ではなかった。何をやらせても愛人の子である第二王子であるフィリップに劣った。
 帝王学を始めとする学業や、馬術、人心を把握する力すらフィリップに及ばなかった。成長すればするほど、その差は歴然と顕著となった。

 アレクサンダーには幼い頃から同い年の婚約者がいた。

 この国随一の権勢を誇る宰相の娘、マルグリータ=キャンべロップ公爵令嬢である。マルグリータはたおやかな容姿を持つ、優しい性格の令嬢だった。家柄としてもこの上ない婚約であったが、マルグリータにとっては残念なことに、いつか自分の妃になる令嬢にアレクサンダーはまったく興味をもたなかった。

 二人が十五歳になったある春。

 その日は、月に一度のお茶会が王宮の庭園で開かれていた。
 側仕えは控えているものの、アレクサンダーとマルグリータは基本二人で時間を過ごす。しかし会話を誘導するべきアレクサンダーが黙っているのでマルグリータが水を向けた。

「殿下、本日は天気もよろしく、お茶会日和ですわね」

「……ああ」

 無表情でそっけないアレクサンダーに、いつしかマルグリータは慣れていた。まったく優しくはないし自分に気のないことは丸わかりだが、それでも彼は乱暴ではないし、自分を無下にすることはない。貴族同士の婚姻というものは往々としてこういうものであり、マルグリータの両親もそうだったから彼女は気にしていなかった。

「今度の夜会のことですけれど、ドレスを新調致しましたの。王宮で今、最新の流行と言われている袖が膨らんでいる形で、殿下もお気に召していただければいいのですが――」
 
 マルグリータはいわゆる貴族令嬢らしい令嬢で、これが彼女にとって精一杯の会話だった。そのマルグリータにアレクサンダーは温度の感じられない瞳を向けた。彼はお茶に一切手をつけていない。

「ねえ」

「はい?」

「君さ、つまらなくないの」

 どこか切り込むような口調だった。
 マルグリータは瞬いた。

「どういう、意味でしょう?」

 告げられた言葉は、容赦のないものだった。

「僕が君のこと、どう思っているのか知ってるでしょう?」

「それは……」

 マルグリータは口ごもり、返答を濁した。答えたくない話題に、明確な返事をしないのは貴族令嬢の嗜みである。アレクサンダーはそんな彼女を哀れなものを見るかのように眺めた。

「分かっていると思うけれど、君と同じ気持ちを僕は返せないよ」

 ぐさり、と鋭い言葉に胸を刺されたかのように痛みを感じた。マルグリータが息を止めると、アレクサンダーは少しだけ瞳を細めて、口調を和らげた。

「ごめんね、傷つけたいわけじゃない。だからといって僕は君との婚約を破棄したりはしないよ。それが義務だから。ただ僕に期待しないでほしいんだ――今日ももう義務は果たしたからいいよね? じゃあまた来月」

 さっさと席を立つと、アレクサンダーは振り向くこともなく去っていった。マルグリータは手にしていたカップを見下ろした。ぽた、ぽたと水滴が紅茶に混じり、小さな水紋ができた。

(お気持ち、ばれていたんだわ……)

 マルグリータは、心の底でどこかアレクサンダーに惹かれていた。彼は容姿端麗で、少しだけ排他的なところはあるがどこかほっておけないような寂寥感を漂わせていた。自分の抱いているものが恋心だとはマルグリータは気づかないふりをしていた。

「マルグリータ」
 
 そこでよく知った声がかけられて、マルグリータは顔をあげた。おそらく一部始終を見ていたのだろう、フィリップがそこには立っていた。二つ年下の彼は、この時まだ十三歳で、大人への階段を登り始めたところだった。

「また兄上が貴女にひどいことを言ったのか」

「ひどいことではないわ。殿下は、私が期待しないようにしてくださっているだけだもの」

 それは一見冷たい態度であるように思うが、アレクサンダーの優しさでもあった。
 フィリップはその整った顔を遠慮なく顰めた。

「僕が子供だと思って適当なことを言ってるな」

「言っていないわ」

 フィリップ王子にはまるで自分の弟に対するかのような柔らかな言葉遣いになる。

「そうかな」

 ふん、と鼻を鳴らしながら、フィリップは先程までアレクサンダーの座っていた椅子に座ると、あれこれ会話をし始めた。マルグリータは相槌をうちながら、いつの間にか泣き止んでいる自分に気づいていた。明るい性格のフィリップを相手にすると、アレクサンダーを前にするよりも言葉が自然に出る。

 そうして、いつしか泣いているマルグリータを慰めるのはフィリップの役目となっていく。

 夜会でマルグリータをエスコートをし、ファーストダンスの相手をつとめるのは婚約者であるアレクサンダーだ。しかしアレクサンダーは、それが済むと義務は果たしたとばかりにマルグリータの手を離す。マルグリータが少しでも戸惑うような素振りを見せると途端に彼のまとう温度が下がるのが感じられる。

 いつしかマルグリータは、ファーストダンスのあと、アレクサンダーの手を自分から離すようになった。
 大概アレクサンダーはその後は夜会を辞してしまい、ぽつんと孤立してしまう彼女を周囲は同情の眼差しで眺めた。

 だが。

「マルグリータ、僕の相手をしてくれないか?」

 そんな時、彼女にダンスを申し込むのはフィリップだった。ダンスが終われば、彼女の手を離さずエスコートもする。
 
 それからも数多くの夜会で、アレクサンダーの次にマルグリータにダンスを申し込むフィリップの姿を人々は目撃している。またフィリップと楽しそうに笑うマルグリータの姿も、同時に。

 ☆

「陛下! ――いえ、父上!」

 フィリップが十七歳になったある日、王は息子につめよられた。

「兄上が愛人を囲っているともっぱらの噂ではありませんか!」

 私室の一つで、政務をしていた王は、ため息をついた。面倒なことになった。きっと次男はまともな返事をするまで納得しないだろう。

「ああ、そうらしいな。私にもその情報は届いている」

 手を止めて、執務机の前に立った次男を見上げた。

「しかも相手はメイドだとか……マルグリータの気持ちを考えたことがありますか!」 
 
 今年十九歳になったアレクサンダーは没落した子爵令嬢で、今は王宮でメイドをしているジャクリーヌという女性にうつつを抜かしていた。
 最初は王妃付きだったのをアレクサンダーが見初めたらしいが、彼女はとにかく美しい容姿を持っていると、王にも報告されていた。
 アレクサンダーは今では他のメイドは一切寄せ付けず、彼の身の回りは彼女に任せている。アレクサンダーにとっての初めての醜聞であり、つまりそれだけ真剣だということを意味した。

 今まで以上に、アレクサンダーはマルグリータに素っ気なくなった。それでも、夜会ではマルグリータを未来の伴侶としてエスコートするのは、アレクサンダーである。だが、今までは冷たい対応をされても、アレクサンダーに他の女性の影はなかったためまだ我慢することができた。けれど、今はもう違う。アレクサンダーの相手が使用人階級であることが、マルグリータの貴族令嬢としてのプライドをいたく傷つけた。

「アレクサンダーは最低限の義務は果たしているらしいが。まぁ、もちろん、マルグリータ嬢は不快だろう」

 王はそう認めたが、すぐに続けた。

「だが、彼女も遅かれ早かれ、こうなるだろうということは予想していたのではないのかね」

 マルグリータの元にアレクサンダーの気持ちがないことは幼い頃から周知の事実だ。それを指摘すると、フィリップは、怒りで目元に朱を走らせた。

「だとしても相手が相手です! 私が兄上に意見しましても、話を聞いてもくれませんでした」

 その様子は簡単に想像がついた。アレクサンダーが、マルグリータにつれない態度を取るたびに怒るのはマルグリータ本人ではなく、フィリップである。アレクサンダーに直接つめよったことも数え切れない。

 だが、アレクサンダーが言うことは決まっている――『それでも僕がマルグリ―タの婚約者だ。僕がどうやってマルグリータを扱おうとお前には関係ない』

 そう言われてしまえば、フィリップは黙るしかない。今回も同じような流れだったのに違いない。

 王は羽ペンを手慰みに弄びながら、さてどうやって次男を説得しようかと考えていた。

 王としては、アレクサンダーが手広く女遊びをするよりは、と容認する構えだったのである。王宮の使用人に関してはきちんとした紹介状がないと採用されず、ましてや王妃付きとなるほどなのだから身の程をわきまえているだろう。実際、ジャクリーヌ自身はアレクサンダーに応えることはなく一線は越えていない、という報告もあった。その時が来ればジャクリーヌには金を握らせ、暇を取らせばいい。言い方はよくないが、要は使用人であればどうとでもできる。

(だが、フィリップはマルグリータ嬢に心酔しているからな……)

 幼い頃からフィリップはマルグリータしか見ていない。フィリップにも婚約者を、と周囲がどれだけすすめても頑として受け入れなかった。兄上が結婚した後だったらどんな婚約者でも受け入れます、と王にも堂々と宣言していたくらいだ。そんなフィリップに、今やマルグリータも心を寄せている。成長するにつれ、二人の心の距離が近づいてきたのは誰の目にも明らかだった。最早、マルグリータはアレクサンダーに特別な感情は抱いていないはずだ。

(ただこればかりは私の一存ではどうにもならないからな)

 王家の婚姻は余程の事情がない限り、覆すことができない。第一、マルグリータの生家であるキャンべロップ公爵家が黙っていないだろう。アレクサンダーとマルグリータの婚約はこのまま維持するしかない。

「とりあえず今の時点では相手が使用人であれば私は不問に付すつもりだ」

「父上!」

 フィリップが非難めいた声をあげたが、王は右手をあげて制した。

「アレクサンダーは何をどうしていようが、いずれマルグリータ嬢を娶る。それが政治的に一番おさまる。お前も分かっているだろうが、王家の婚姻とはこういうものだ」
 
 両手を握りしめたフィリップはしばらく立ち尽くしていたが、やがて項垂れた。

「……存じ上げて、います」

 もちろん、フィリップは分かっている。彼の父である王は、彼の母であるノーラを誰よりも愛しているが、正式な婚姻を結ぶことは生涯ない。公式の場で、王が伴侶として扱うのは王妃である。それでも父の愛が、母だけに注がれていることをフィリップはよく知っていた。

 フィリップは悲しげな顔になると、力なく挨拶をして部屋を辞した。

 王の私室に、重いため息が響いた。

 ☆

 しかし急展開が訪れたのは、まさしく今日であった。

 アレクサンダーは、来月二十一歳になり、成人の儀を控えている。王子の成人の儀で、王位継承権のあり方を公的に示すのがこの国では慣習となっており、そうなるともう覆すことはできない。そう考えた宰相が自分の首が飛ぶことを覚悟で、秘密裏に閣議を開くことを望んだ。

 議論されたのは、アレクサンダー王子は王位継承権を与えるのに相応しい人物であるかどうか、である。

 そして宰相だけではなく側近たち全てが、第二王子であるフィリップが将来この国を背負って立つべきだと言って聞かなかった。誰もが皆、フィリップが愛人の子であることを知っていた上での判断だった。
 
「陛下、どうかご英断を! アレクサンダー殿下ではこの国は滅ぶかも知れませぬ」

 宰相が言えば、他の家臣たちも続いた。
 辛辣な意見を言うことで知られるある年老いた家臣はため息をついた。
 
「もちろん、必ずしも賢王である必要はありますまい。しかしアレクサンダー殿下は、日がな一日ぼんやりとメイドの尻ばかりを追いかけておられる。あれでは先が思いやられるというもの」

「仰るとおりです。まともに机について政務をされることが出来るのかどうか疑わしい。そもそも座学の類もフィリップ王子が群を抜いて素晴らしかったと記憶しております」

 そう言った別の家臣は言い過ぎたと思ったのか、動揺して激しく瞬いた。だが誰も咎める者がいない。そのことがこの場にいる家臣たちの意思を示していた。

「メイドとなぞ子供を成されたら困るのだが」

 そこへ苦悶に満ちた声を出したのは、マルグリータの父であるキャンべロップ公爵である。

「それはさすがに……。どうやら件のメイドは、元子爵令嬢。自分の立場を理解しているようで、王子の世話をする他は壁際に立って、まともに返事もしていないとか。夜は早々に王子の部屋を辞している様子です。なので、それに関しては心配ご無用かと」

 取りなすように他の家臣が同情に満ちた声をかけると、キャンべロップ公爵は不承不承といったように頷いた。

「どうか王には、正しい決断をしていただきたい」

 宰相が苦渋に満ちた表情を浮かべながらそう言った時、開いてはならないはずの扉が開いた。家臣たちの視線が扉に集中した。

「アレクサンダー殿下!」

 そこには、酒に酔って前後不覚のアレクサンダーが立っていた。

 王家特有のプラチナブランドの髪と、まるで宝石のようなエメラルドグリーンの瞳を持ち、端正な顔立ちではあるが、いかんせん服装がだらしない。フィリップのようにしゃんとした格好を好まないのもあるが、酒を浴びるように飲んでいる間に、脱いだり、緩めたりしている。今日もシャツはボタンが全部しまっていないし、ズボンは膝の部分が何故か汚れている。しかも泥酔してまっすぐ立ってはいられないアレクサンダーに、何人かの臣下たちは思わずといった風に顔を顰めていた。

「なにをしておられるのですか、皆で集まって?」

 呂律が回っていない王子がふらふらと室内に入ってくる、その後ろから精悍な青年が血相を変えて飛び込んできた。何しろこの部屋は閣議が執り行われている。王子や王の護衛騎士であってもおいそれとは入室を許されない、ということであればこの青年の正体は――。

「兄上、どうしてこのようなことを!」

 フィリップだった。

「何がだ?」

 淀んだ瞳を弟に向けたアレクサンダーが首をぐにゃりと傾げた。フィリップは、兄の腕に手をかけながら、懇願した。

「どうか私と共に前室に下がりましょう」

 二人の身体はほとんど背丈も厚みも同じだった。けれど一人は酩酊しており、一人は毅然とした態度ながらも相手の立場を慮っている――どちらが施政者に相応しいか。

 王はついに覚悟を決めた。

「ちょうどよい、二人にも聞いて欲しい」

 ☆☆☆

「我らの子が次期王になるなんて、な」

 グラスの中の酒を回しながら、王は呟いた。フィリップに正当な王位継承権を渡す、と宣言したとき、部屋にいた誰もが安堵しただろう。アレクサンダーはまったく反抗せず、へらへら笑いながら部屋を去っていった。フィリップは青天の霹靂とばかりに驚いていたが、王位継承権の譲渡と共に、アレクサンダーとマルグリータの婚約を破棄し、彼と結び直すと聞いた瞬間から顔つきが変わった。

『今からマルグリータのところへ行ってまいります、父上』

 閣議のあと、フィリップが声を弾ませて告げた。王がキャンべロップ公爵に視線を送れば、了承とばかりに目で合図をされた。キャンべロップ公爵も内心胸をなでおろしているはずだ。

 今まで失意の時間が多かったであろうマルグリータにとって、フィリップはヒーローのような存在だろう。周囲も今までのフィリップの献身を知っているから支持するだろうし、二人の婚姻がうまくいかない理由がない。

 愛だけで結ばれることのない王家の婚姻ではあるが、時にはこんな寓話のような出来事が起こってもいいのではないか。きっと国民が語り継いでいくような、仲睦まじい国王夫婦になるのに違いない。

「体面を考え、アレクサンダーは遠方に療養という体をとって送ることとなった。王妃には追って書面を送るが、これはもう閣議で決定したことだから覆ることはない」

 これで隣国も口は出してこないだろう。もちろん隣国の王家に根回しは必要不可欠だ。次の一手をどうするか、王の脳内で目まぐるしく、さまざまなことが駆け巡る。

 血筋も大事ではあるが、フィリップも自分の血の分けた息子である。しかも愛した女性との子供である。王にとっても可愛くないはずはなかった。ついに覚悟を決めた王は今後フィリップを守ることに徹するつもりだ。

「ええ」

 ノーラが静かに相槌を打つ。

「お前はフィリップに王を継いで欲しくなかっただろうな」

 フィリップが次期王として承認されれば、王宮の勢力図も大きく変わり、フィリップが望まなくてもその争いに巻き込まれることとなる。ノーラはいらぬ苦労を息子にかけたくなかったに違いない。
 
 しかし王がノーラを見れば、彼女はいつものように彼を寛がす笑みを浮かべた。

「私の望みなど些細なもの。天が全てをお決めになられるでしょうから。それにフィリップ自身が望んでいるのでしょう? それであれば私はそれに従うのみです」

 ノーラはフィリップの良い母親だ。決して甘やかすことはなかったが、今までも知恵と助言を惜しみなく与えてきた。これからも彼女は影でフィリップを支えていくだろう――王である自分にそうしてくれたように。

「そうだな」

 王はグラスに残った酒をぐいと飲み干すと、脳裏を横切ったもう一人の息子の幻影を消すことに決めた。

(それにお前が一番これを望んでいただろう、アレクサンダー?)

 ★

 鬱蒼とした森の中にあったその屋敷は、古ぼけてこじんまりとしていた。屋敷を囲む門だけは頑丈で、まるで刑務所であるかのようだ。

 閣議終了の数日後に、王の手によって遠方の領地にある屋敷に送られたアレクサンダーは、馬車を出て表玄関までの階段を登るのも千鳥足だった。表向きは療養という体ではあるが、もう彼が王都に戻ることはない。

 王子についてきたのは、幼い頃から彼の面倒をみてきた三人の側仕えと、二人の護衛騎士、それからジャクリーヌだ。彼女はアレクサンダーの数歩後ろを歩いていた。ふらふらとしながらも、自分の足で玄関から入ったアレクサンダーは、古ぼけては見えるがさすがに掃除が隅々まで行き届いている玄関ホールを見渡した。

「ここが僕の終の棲家か。悪くないね」

 執事すらいないこの屋敷にアレクサンダーは満足しているようだ。必要があればあとで使用人を雇うことになるだろう。罪人ではないので、王としてもそれくらいの我儘は聞いてくれるはずだ。
 玄関の扉が閉まるのを待って、それまで丸まっていたアレクサンダーの背中がしゃんと伸びた。

「うん、全く悪くない。とても気に入った」

 口調すらも突如として明瞭となった。

 それまでの千鳥足が嘘のように、背筋を伸ばした彼は屋敷の中を歩いて回った。
 アレクサンダーの変化に、側仕えと護衛騎士も誰も驚いてはいない。もちろんジャクリーヌも。側仕えと護衛騎士にアレクサンダーは指示を飛ばし、この屋敷を整えるよう動くように命じた。

「急ぐことはない。何しろ時間ならたっぷりある――お前たちも今夜は早めに休め。主寝室以外ならどの部屋を使ってくれても構わない。そのあたりはお前たちに任せる」

 気遣うアレクサンダーに感謝を示した彼らは速やかに散った。

 ★

 アレクサンダーはジャクリーヌを伴って、屋敷の奥にある主寝室に入った。彼がぎしりと音を立てて、部屋の中央にある天蓋付きのベッドに腰かけると、王宮でいつもそうしていたようにジャクリーヌが壁際に寄り、立った。

「ようやくここまでこれたな」

 それまで一言も発していなかったジャクリーヌが顔を綻ばせる。普段は無表情な彼女がそうして、はしばみ色の瞳を緩めると、誰よりも美しいことをアレクサンダーは知っている。出会った最初の日から、その瞳が彼を捉えて離さないのだ。

「フィリップもマルグリータも幸せになる。ノーラだって、次期王の産みの母として少しは王宮での立場もよくなるだろう。最初はごねるかもしれないが、母上はどうせ自分のことにしか興味がないから父上がうまく御するだろう――父上にはノーラがいるしな。うん。これで王家はますます繁栄していくのに違いない」

 独り言のようにアレクサンダーが呟くと、ジャクリーヌがそっと視線を逸して床を見つめた。そこでアレクサンダーはベッドから立つと、まっすぐにジャクリーヌの前に行き、彼女を見下ろした。

「僕も君にやっと求愛できるね」

「殿下……」

「ああ、君が返事をしてくれるのはいいな。今まで周囲を気にして、ほとんど話してくれなかった」

 アーモンドの形の美しい瞳を潤ませたジャクリーヌが、彼を見上げる。

「何しろ今までは立場が違います、の一点張りで口づけすらさせてくれなかったんだから。閨指導を君に指名しようかと何度思ったことか。まぁ結局、座学のみで済ませることができたから必要なかったんだけど」

 明け透けな言葉に、おろおろと視線をさまよわせるジャクリーヌのすべすべした頬にアレクサンダーが手を置いた。

「ジャクリーヌ、僕はね……十歳のときに庭園で見かけた君に恋をしたんだ。あれ以来、君以外は誰もいらないんだ……口づけをしても?」

 ぐっと二人の間の距離を縮めて、アレクサンダーが尋ねた。ジャクリーヌがか細い声で返事をする。

「はい、殿下」

 その返事に、アレクサンダーの手がぴくりと動いた。

「ね……君の本当の気持ちを教えて」

「殿下……」

「今までずっと我慢してたんだから、少しくらいご褒美をくれてもいいと思うんだけどな」

 冗談めかした口調ながらも、彼の視線は真剣そのものだった。その意味を知るジャクリーヌの瞳に再び涙が浮かび上がった。

「私、も、貴方のことをずっとお慕いしていました――庭園で会ったあの日から」

 彼の唇が、ジャクリーヌの唇を奪った。


 ★★★

 そのまますぐに寝台になだれ込もうとするアレクサンダーをジャクリーヌが制した。

 何しろ長旅で埃まみれだし、汗もかいていた。さすが王家所有の屋敷だけあって主寝室の隣に浴室があった。また信じられないことにぬるいお湯が蛇口から出ることが分かった。王都でも王宮や経済的に裕福な貴族の屋敷にしかないシステムだがここにも有しているらしい。

 いつものようにアレクサンダーは一人で風呂に入った。その後にジャクリーヌも湯を使わせてもらい、手早く身体を綺麗にしてから、浴室を出ると――今度こそ待ちくたびれたアレクサンダーに攫われた。

 ベッドの上に寝かされ、既に上半身裸のアレクサンダーに、邪魔だとばかりにさっさと夜着を取り払われる。アレクサンダーは肌がきめ細かく、人目につかないところでは鍛えてもいたから、均整の取れた身体の持ち主だ。そんな彼の前で、自分の貧相な裸体を晒すことに多少の抵抗があった。

 痩せぎすで、肌も色だけは白いけれど、家が没落してからは使用人として働いていたからろくな手入れをしていない。しかしそんな彼女の戸惑いを前に、アレクサンダーは熱心に身体中を探り始めた。彼の滑らかな手に対し、自分のざらついた肌はふさわしくない気がした。

 けれど躊躇うジャクリーヌを決してアレクサンダーは許さず、どんどん暴いていく。

「殿下、あの、そのっ……! ひゃぅっ!」

 変な声を出してしまったのは、彼が躊躇いもせずにぱくりと乳首を口に含んだからだ。ちゅっちゅと舐められているうちにじんわりと快感がわき起こってきた。もう片方の乳首を彼の指がくりくりとつまんで遊んでいる。

「で、でんか、そのっ。あっ……っ」

 すっかり勃ってしまった乳首をきゅうっとつねられるかのように扱かれた。

「なに」

 唾液でべたべたになるまで乳首を味わってからようやくアレクサンダーが顔をあげた。

「どうせろくでもないことを言おうとしているんでしょ。だからもう黙っててくれていいよ。僕は君しかいらないんだから、そこをちゃんと分かってもらわないとね」

 そう言いながら、彼女の足元に座る。彼が何をするかを察知したジャクリーヌは、思わず太腿をすり合わせた。

「やっ、そこはきたなっ……!」

 アレクサンダーは彼女の太ももを両手で難なく割り開くと、躊躇いなく彼女の秘められた箇所に指を伸ばした。彼女の抵抗などものともせず、和毛をかきわけて彼女の蜜口に触れた。

「濡れてる。よかった。君の身体に汚い場所なんてないよ。――まあ言ってたらいいよ、後で僕はここを舐めるつもりだからね?」

「な、な、なめっ…!!」

 顔を真っ赤にしたジャクリーヌが絶句すると、アレクサンダーはにっこりと笑った。彼の瞳はまったく笑っていなかった。

「僕を待たせていた罪は重いよ? やりたいことは全部するつもりだ」

 ★

  数時間後、ベッドの上では裸で絡み合う二人の姿があった。

 今やアレクサンダーは正常位でジャクリーヌを貫いていて、猛り狂った屹立がジャクリーヌの秘部を容赦なく犯している。

「あっあ、んっ……!」

 最初は痛いだろうから、とアレクサンダーは丹念に処女地を解した。

 やがて彼が取り出した屹立は、大きくそそりたっていて、ジャクリーヌは凄まじい痛みを覚悟した。だが確かに破瓜の瞬間こそ、身体を裂くような痛みが走ったが、それが収まるとどうしてか快感がやってきてジャクリーヌを戸惑わせた。

 前戯でさんざん秘所を弄られ、舐められ、啜られた。確かにぷっくりと腫れた秘豆を歯で軽く齧られた時は驚くほどの快感が彼女を襲い、思わず嬌声をあげたくらいだった。だが蜜口から指を差し込まれると、どれだけ中が濡れていようとも違和感しかなかったというのに。

「ど、どして、初めてなのに、私ったら……!!」

 ぞくぞくするような刺激が背中を走り、びくんと震えながらジャクリーヌは顔を両手で覆った。その彼女に覆いかぶさるようにアレクサンダーが姿勢を変えると、中にある彼のものの角度が代わり、膣壁を抉った。それがまた新しい刺激を呼んだ。

「だめ、それは……っ!」

 自分でも一体何が起こっているのか分からない。

「初めてなのに、感じたらだめなのか? 僕は初めてでも気持ちいいよ、すごく気持ちいい」

 アレクサンダーの色気が滴るような声が響いた。ジャクリーヌのために、彼は腰の動きを止めてくれた。ようやく少しだけ余裕ができたジャクリーヌが、両手を外して彼を見上げた。

「だ、男性はともかく、女性である私は、そ、そんなの、おかしいっ……っ! んぅ」

 アレクサンダーの唇が彼女の唇を奪った。厚みのある舌が彼女の口腔内に忍び込んできて、音を立てて絡められる。

(殿下の、舌。入ってきてる……ああ、気持ち、いい……)

 あっけなく彼女は差し出された快楽に夢中になってしまった。

「は、はぁ……むぅ、ちゅっ……」

 しばらくしてようやく唇が離されたとき、身体から力が抜け、くったりとしていた。そんなジャクリーヌをアレクサンダーが食べてしまいたい、とばかりの熱い視線で見下ろした。

「潤んだその瞳が僕をおかしくさせるって君は学んだ方がいいね」

 彼がとん、と奥に腰を送り込むと、ジャクリーヌの身体にじぃんとした快感が走る。彼の亀頭の先は、彼女の感じるスポットばかりを掠めていく。

「僕の身体が君にぴったりにできているなら、これ以上幸せなことはないよ」 

 ジャクリーヌは息も絶え絶えに訪ね返した。

「で、殿下……幸せ、ですか?」

「ああ。もう君の中から出たくないくらいだ」

 そう言うなり、彼が律動を再開した。

「あっ、ん、ふ……っ……!」
 
 じゅぼじゅぼといやらしい音を立てながら、屹立が蜜道を行ったり来たりすると、ジャクリーヌは為すすべなく絶頂への階段を登り始めた。思わずアレクサンダーの背中にしがみつくと、熟れきった乳首が彼の胸板でこすれて、それもまた凄まじく気持ちがよかった。

「僕の精を受け止めるのは……君だけだ」

 掠れた声が耳元で響いたかと思うと、彼の律動が激しさを増した。

「あ、あ、んっ、あっ、だめ、も、もおっ……!」

「ジャクリ―ヌ……!」

 中で彼のものが大きく膨らんだような気がしたと同時に、ジャクリーヌは人生で初めての絶頂に達した。

 ★★★

 お互いを貪り合った二人は、まるで昏倒するように眠りについた。明け方、先に目が覚めたアレクサンダーは腕の中で丸まっているジャクリーヌの髪の毛をそっと撫でた。

 今、自分の胸のうちにあるのは決して単純な思いではない。けれど、彼女のシルクのような髪を撫でているだけで、少しはその揺らぎが落ち着く気がした。

「僕は、君と結ばれることだけを考えてきたんだ……他の人の心の痛みを感じないふりをして……」

 父である王が自分に次期王として期待していたことは知っていた。けれどそれも自分の目的のために踏みにじった。そしてマルグリータの可愛らしい自分への思慕も、またフィリップの怒りにも鈍感なふりをした。出来る限り、彼らを傷つけないように細心の注意を払っていたつもりだ。しかし結果としては、つらい思いをさせたこともあっただろう。だがそれもこれもやってくる未来が、自分が次期王となるよりも遥かに豊かで素晴らしいと確信していたからこそ。
 
(もちろん、全ては僕のエゴだ……誰かにとっての幸福を僕が決めて良いはずはない。だが……)

 幼い頃から、彼は寂しかった。父は可愛がってくれていたが、明確な距離があった。母は自分に一切興味がなかった。そしてなにより、両親はお互いにまったく関心がなかった。三人で過ごす心温かい時間は皆無だった。

 アレクサンダーはフィリップを羨んでいた。ノーラはフィリップを愛して育てていたし、そのノーラを父は殊の外大切にしていた。公務のあと父が戻り、夜を過ごすのはノーラとフィリップの待つ部屋だった。
 
 使用人たちの手で育てられたアレクサンダーは常に疎外感を感じていた。

 十歳の頃、ジャクリーヌを王宮の庭園で見かけたのは単なる偶然だった。最初は王宮には珍しい同じ年頃の少女がいると思った。それから彼女が振り向いて、自分と視線を合わせたのだ。

「……!」

 あまりにも美しい少女で、一瞬で心を奪われた。思わず近寄り、名前を尋ねた。

『ジャクリーヌ=モンテディオと申します』

 彼女は、アレクサンダーのことを王子だとは思っていなかったかもしれないが、彼の着ている服の高級さや護衛騎士たちの多さから、ある程度の身分だということは薄々察してはいただろう。しかしジャクリーヌはそのことに怯んだりせず、きちんと彼の瞳を見つめた。その瞳の強さに、アレクサンダーは恋をしたのだ。

 ジャクリーヌは、遠縁の女性が王宮で働いているとかで、子爵と子爵夫人と共に訪ねに来ていた。当時まだ子爵令嬢だったとはいえ、本来であれば会うこともない立場だったから、この邂逅は運命だったとしかいいようがない。会話を交わしたのはたった数分ほど。
 護衛騎士に促され、王宮の自分の部屋に戻りながら、アレクサンダーは両手の拳を強く握った。
 
(あの子に側にいて欲しい……!)

 それは今まで何も固執したことのなかったアレクサンダーが、人生で唯一欲しいと心の底から願った瞬間だった。あまりにも強い乾きに似た思いに、彼自身も怯えたくらいだった。

 それからは護衛騎士に秘密裏に命じて、彼女の行方を追わせ続けていた。アレクサンダーはしかし自分の立場も理解していて、彼女を遠くから見守るだけのつもりだった。淡い初恋として胸に抱えて生きていければいいと、そう思っていた。自分は王子であり、愛せないにせよマルグリータという婚約者がいるのだから。
 
 小さな変化が訪れたのは、どうやらジャクリーヌの実家の経済状態があまりよくないと分かった頃だった。彼が十三、四歳くらいだったろう。王位を継ぐことに何の魅力も感じていなかった。誰にでも愛され頼られ、また正義感の強いフィリップが王になった方がいいとアレクサンダーは考え、少しずつ表では愚鈍な王子を演じ始めていた。

 数年後ジャクリーヌの実家が没落し、彼女の両親は失意のうちに亡くなった。他に兄弟はおらず、遠縁の伝手で、王妃付きのメイドとなったと聞いて、居てもたってもいられず、会いに行ってしまった。美しく成長した彼女を目の前にしてしまうと、それからは手離すことは不可能となった。

『貴方は、あのときの……?』

 ジャクリーヌが美しい瞳を瞬いて、自分を見つめた。
 彼女も自分のことを覚えてくれていた、とアレクサンダーは喜び、またジャクリーヌの瞳の輝きが以前とまったく変わっていないことに気づいたその瞬間、二度目の恋に落ちた。

 彼女は聡明で、彼の立場のことを慮り、何一つ言葉にしたことはない。それでも視線で、自分を思いやってくれていることは十分伝わってきていた。すぐに彼女を自分付きのメイドにしたが、ジャクリーヌは手際がよく、飲み込みが早かった。彼女と同じ部屋にいるだけで、ぽっかり開いていた心の穴が埋まっていくような不思議な感覚がしていた。
 
 ジャクリーヌと二人静かに暮らすことが、自分にとってのただ一つの幸福だ。

 アレクサンダーがそう結論づけるまでに時間はかからなかった。一度決めてしまえば、アレクサンダーの心は一切揺るがなかった。
 
 だが、ここに至るまでには気の遠くなるような時間とあまりにも細く険しい道のりだった。時には絶望し、時には歯を食いしばりながらも、自分はなんとかやり遂げた。

(一番は……父上のお陰だろうな)

 父は愚かではない。だから、あの父が何も気づいていないとは信じ難い。いつでも距離があり、父親とは思えない人ではあったが、最後にはこうして第一王子としてではなく、アレクサンダーとしての幸福を護ってくれた。それは今後も変わらず、この屋敷にいる限り、父は自分を護ってくれるはずだ。お互いに何一つ言葉にはしなかったが、アレクサンダーは父に深く感謝していた。

 父のことを考えると、胸が痛んだ。
 疼く痛みを感じながら、彼はそっと愛しい人を抱きしめた。

「色々あったが……君とこうしていられて僕は嬉しい」
  
 眠っている彼女のこめかみに唇を落とすと、ゆっくりとジャクリーヌの瞳が開いた。

「殿下……?」

「ごめん、起こしてしまったかな」

「ん……」

 ジャクリーヌが甘えるように彼にくっついてきた。今まで王子とメイドとしての壁を一切越えようとしなかった彼女のこの仕草に、アレクサンダーはたまらなくなった。

「もう一度眠るかい……?」

 彼女の背中を優しく撫でおろすと、ジャクリーヌは首を微かに横に振った。

「殿下、少しだけお話ししてもいいですか?」

「もちろん」

「庭園で貴方が立っておられるのを見かけた日……、なんて寂しそうなんだろうって思いました」
 
 少しだけまだ眠気が残る声で、ジャクリーヌが話し始めた。

「僕が、寂しそう?」

「ええ。たくさんの護衛や家臣に囲まれて、素敵な服を着ておられたのに、貴方はちっとも幸せそうには見えなかった」

「うん。……君は間違ってない」

 アレクサンダーは、ジャクリーヌの言葉を一言一句聞き漏らすまいと耳を傾けた。

「それから貴方と再会した日、やっぱり同じように感じたんです。それで……貴方がずっと私を気にしてくださっていたことを知って、すごく嬉しかった」

「その……気持ち悪くはなかった? ずっと君の動向を追われていて」

 それはアレクサンダーが密かに気にしていたことだった。自分の想いが度の過ぎた執着であることを彼は自覚していた。

「まさか。私が忘れられなかった最初の出会いを、殿下も忘れないでくださったことを知って、嬉しくないはずがないです」

 ジャクリーヌの瞳をのぞき込めば、それは澄んでいて、彼への愛情を惜しげもなく映し出していた。

「殿下が私を求めてくださって……。だから……私のすべてを差し出して、少しでも幸せになっていただけるならそうしたい、とあの日からずっと思っています」

「ジャクリーヌ……!」

 ぎゅうっと抱きついてきたジャクリーヌは、決して男性として大柄ではない自分の腕にすっぽりとはまる。彼女のほっそりした身体は、微かに震えていた。

「貴方が犠牲にしたものを私は本当の意味では理解できないことが歯がゆいです。辛いことや大変なことはすべて殿下がして下さいました。私はただ黙って、見ていただけ……」

 使用人としてのジャクリーヌに許されていたのは、彼の言葉に視線で応えることだけだった。彼女は自分の言動で、アレクサンダーの立場が少しでも脅かされるのを恐れていた。そんな彼女だからこそアレクサンダーはますます愛することとなった。

「ジャクリーヌ……それは」

 いいんだ、僕がしたかったから――と続くはずの言葉をアレクサンダーは飲み込む。ジャクリーヌが彼の腕の中で顔をあげ、真っ直ぐな視線で彼を見つめたからだ。

「殿下は、没落した家柄の私でも良いと言って下さいました。そんなこと、普通の貴族の方でも考えられないでしょうに……」

「そりゃそうだ。僕は、君がいいんだ。君の家柄に恋したわけではないから」

 アレクサンダーにとっては当たり前のことすぎて、思わず右眉をあげてしまった。ふふふ、と鈴が鳴るような声をあげて、ジャクリーヌが笑った。

(ああ、初めてこんな無防備な顔を見る……)

 ようやくこうして素の彼女と触れ合えるのだ、と実感が湧く。これから知れば知るほど彼女に魅了されていくだろう。

「笑ってしまってごめんなさい。演技をしておられない殿下が、どんなお相手にでも誠意をもたれて接するのを見てきました。貴方は……高潔な方で、心から尊敬しています。そしてそんな貴方だからこそ、私はお側にいたい――どうか、いさせてください」

「いてくれないと、困る」

 即答した。

 ジャクリーヌを抱きしめようと手を伸ばしたところで、ふと窓辺のカーテンの隙間から光が差し込めていることにアレクサンダーは気づいた。
 
「ジャクリーヌ、見て、朝陽だ」

 ベッドから起き上がり、共に窓辺に寄った。窓の外にバルコニーが広がっているのを見てとり、アレクサンダーがガラス扉を開けた。朝の冷たい冷気が押し寄せてきて、薄い夜着だけでは風邪を引くかもしれない。そう思ったアレクサンダーは、一旦室内に戻り、ベッドからシーツを剥ぎ取った。ジャクリーヌを後ろから抱きしめ、二人の身体にふわりとシーツをかけた。

 夜明けだ。

 このバルコニーからは庭園と、その先にある鬱蒼とした森が見渡せた。そしてその森の奥から、朝陽が昇っているのが見えた。最初は橙色だったそれが、徐々に黄金の輝きで眩く光り始める。

「綺麗だ」

「はい」

「僕達二人で迎える、初めての朝だね」

「ええ」

「死ぬまで、毎朝一緒だからね」

「ふふ、かしこまりました」

 こうしていると、ただただ二人の未来は明るく、一点の曇りもないかのようだった。

「ね、ジャクリーヌ。この素晴らしい朝を記念して、どうかアレクサンダーと呼んでくれないか」

 君にそうやって呼ばれることだけを夢見ていたんだ、とうそぶく彼にジャクリーヌは微笑んだ。

 アレクサンダーの腕の中で振り返った彼女は、自分の口元を彼の耳に近づけ、その名前を呼んだ。
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