230 / 236
第6章 竜吟虎嘯の章
第230話 甲三同盟の密約
しおりを挟む
永禄十一年七月。武田信玄は上杉弾正少弼輝虎に叛乱を起こした本庄繫長の支援を名目に北信濃へ出陣。長沼の地に布陣し、飯山城や関山城攻めを開始していた。
「御屋形様」
「美濃守に三郎兵衛尉か。城攻めと城普請はいかがなっておる」
「はっ、城攻めの方はさすがは上杉。そう易々と落とすことは叶いませぬ」
「苦戦しておるか。して、城普請はいかがなっておるか」
「この三郎兵衛尉が見るところ、順調であると心得ます。おそらく、十月には完成となりましょう」
馬場美濃守信春、山県三郎兵衛尉昌景の両名からの報告を受け、信玄は瞠目したまま静かに頷く。
城攻めは上杉家に対する威嚇であり、来るべき駿河侵攻に備え、上杉を越後に釘付けにしておく陽動作戦である。
上杉弾正少弼輝虎は目下、外征の余裕など消失するほどに忙殺されていた。北越後では武田家や蘆名家の支援を受けた本庄繫長の反乱鎮圧、越後の西の越中では武田信玄の調略を受けた椎名康胤や神保長職、越中一向一揆が蜂起。
そこへ、北信濃へ武田信玄自らが大軍を率いて進軍してきたのであるから、三方に敵を受けることとなり、まさしく上杉輝虎包囲網とでも言うべき情勢が信玄によって構築されていたのである。
「これならば越後勢は北信濃など顧みる余裕など当面ございますまい。その間に、我らが駿河と遠江を平らげるまで」
「まさしく。美濃守殿の仰る通りでございます」
駿河に留まらず、遠江までも支配下に置かんと息巻く不死身の鬼美濃とも称される齢五十四の老将・馬場美濃守。これに山県三郎兵衛尉も大いに賛同した。その様子に信玄はにやりと獰猛な笑みを浮かべる。
そこへ、海津城代として北信濃に睨みを利かせ、武略・用兵は家中随一ともいわれる春日弾正虎綱が到着する。
「御屋形様、長沼の城普請にございますが、これが実現しますれば某の在城する海津城とも連携し、上杉家の動向に目を光らせることもできまする。加えて、この縄張りであれば、上杉軍の南下を阻止しうる城郭となりましょう」
「うむ。そうでなくては困る。我らが駿河へ侵攻する間、北信濃の守備は弾正、そなたに一任するゆえな。しかと頼むぞ」
「はっ、御屋形様のご期待に沿えますよう、しかと励みまする!深志城には工藤源左衛門尉昌秀もおりますれば、断じて上杉勢に信濃を侵させるような真似はさせませぬ」
「それでよい。源左衛門尉は副将としての才覚があるゆえな。弾正と組ませれば怖い者なしであろう」
工藤源左衛門尉昌秀こそ、後の内藤昌秀であり、この場に集う馬場信春、山県昌景、春日虎綱とともに後の世で『武田四天王』と称されることになる人物である。
そんな貫禄溢れる武田重臣が集う中、武田御一門衆の穴山左衛門大夫信君が一通の書状を手に現れた。
「御屋形様、左衛門大夫にございます」
「おお、左衛門大夫か。いかがした?さては、その書状がことで参ったか」
「はっ!ご推察の通りにございます。こちら、徳川三河守殿よりの書状と家老の酒井左衛門尉殿よりの副状となりまする」
「見せよ」
信玄は穴山左衛門大夫から二通の書状を受け取ると、じっくりと目を通していく。信玄が書状に目を通す間の沈黙を慣れた様子で見守る馬場美濃守、山県三郎兵衛尉、春日弾正の三名に対し、穴山左衛門大夫はどこか落ち着かぬ様子で舅の表情の変化を見過ごすまいと見つめていた。
「御屋形様、三河守殿よりの書状にはなんと?」
「見てみよ、三郎兵衛尉。今川領経略のため、当家と連携するよう弾正忠殿から伝達があったこと。そして、そのための第一報としての書状であることが明記されておろう」
「いかにも。まずはご当家の条件から先に承りたいと申してきておりますが……」
「おそらく、我らに気を遣っておるのであろうよ。まあ、国衆と守護大名とでは格式が違うゆえ、当然ともいえようが」
信玄は顎鬚を左の手でいじりながら目を閉じ、徳川家へ提示する条件について考え込んでいるようであった。
「ふむ、取り決めとして、この五カ条を提案するとしようか」
信玄は笑みをこぼすと文机を引き寄せ、筆を取る。信玄がたちどころにしたためた書状には以下の五カ条が記されていた。
一、当家と徳川氏は伝達を密にし、連携して今川攻めを行うこと。加えて、侵攻の期日については事前に連絡を取り合うべきこと。
一、当家も徳川氏も相互の合意なく今川方と無断で和睦すべからざること。
一、当家も徳川氏も相手を裏切ったり騙したりするような行為はしないこと。
一、甲三の同盟を確実なものとするため、当家が徳川氏から人質を預かりおくこと。
一、今川領分割については川切を目安とするが、相互に自力次第とすること。
「これならば良かろう。のう、左衛門大夫?」
「はっ、これならば徳川方も納得するのではないかと」
一カ条目は連携して今川領を経略しようということであり、侵攻する日時についても連絡を取り合おうと述べている。
続く二カ条目の双方無断で敵と和睦しないこと、三カ条目の互いに騙したり裏切ったりしないのも同盟交渉において明記しておくべき内容であるため、これも異議が申し立てられることはあるまいと読み手の穴山左衛門大夫も同意するところであった。
四カ条目では武田家が徳川家から提出された人質を預かると明記している。織田家との交渉ならばいざ知らず、家格に格差がある以上、武田家が格下の徳川家へ人質を出す謂れはないことくらい家康も理解しているだろうし、了解するだろうと穴山左衛門大夫は内心納得していた。
概ね信玄からの申し入れ内容に同意している穴山左衛門大夫であったが、唯一引っかかったのが最後の五カ条目である。
「御屋形様、五カ条目がちと曖昧ではありませぬか」
「どれ……川を境に自力次第を認めることであろう」
「はい。今川領内で大きな川が二つございます。大井川と天竜川、このどちらを境とするかを取り決めておいた方が良いのではございませぬか」
「ふっ、左衛門大夫よ。当然天竜川を境とするに決まっておろう。弾正忠殿からは必ず徳川殿へ援軍を派遣するとの書状も届いておるが、これから控える上洛を前に東へ兵を向けることはしまい。ともすれば、徳川如き国衆あがりでは天竜川以西を制圧するだけで手一杯ともなろう。ゆえに、境は天竜川で良い。それに大井川では当家が駿河、徳川が遠江と一国ずつ分割することになるではないか。我等よりも格下であることを理解しておる徳川が大井川を境になどと愚かなことを申すはずがないであろうが」
穴山左衛門大夫の意見を信玄は鼻で笑った。そして、その場にいる四名ともが悟った。主君は徳川を遥か格下だと見ているのだということを。
元より徳川家は国衆あがりであり、武田家は由緒正しい守護大名。格が違うと言えばそれまでだが、それは自分たちが思っている以上に格下と認識しているらしいことを。
「良いか、この旨を左衛門大夫と三郎兵衛尉の連署状で良い。徳川の家老、酒井に宛てて送っておくがよい」
信玄からの命を受けて山県三郎兵衛尉と穴山左衛門大夫は一礼し、すぐにも連署状を作成するべく本陣を去り、馬場美濃守と春日弾正もまた各々の持ち場へと戻っていくのであった。
そうして信長と義昭が対面を果たしている頃、武田家からの返書が岡崎城の家康のもとへ届けられたのである。
「殿!武田家からの返書が届きましてございます!」
そう言って岡崎城広間へ駆け込んできたのは吉田城を任されている家老・酒井左衛門尉忠次であった。齢四十二となっても変わらぬ様子で家康へ仕える無二の忠臣から差し出された書状を受け取り、家康は速やかに一読する。
「なるほど、同盟を結ぶにあたっての密約の内容か」
「はっ!殿はお読みになられて、何か申したきことはございますでしょうか?」
先に内容を一読している酒井左衛門尉は家康が激昂したりはせぬかと様子を窺うように、おどおどとした様子でお伺いを立てる。しかし、家康は激昂する風もなく、冷静に書状を読み終え、武田家へ伝えたい旨について考案し始める。
「そうじゃな、一カ条目はその通りであるし、続く二カ条目と三カ条目もそのままでよい。続く四カ条目、人質提出のことじゃが……」
「我らから人質を出すのに、武田からは人質は出さぬと。武田からも人質を出すよう求めまするか」
「やめよ。相手は代々の守護大名家じゃ。わしのような国衆出身の者が人質を求めてよい相手ではない。信玄殿を怒らせるだけじゃ」
「さ、されば、人質はいかにいたしましょう」
「わしと取次役の左衛門尉から一人ずつ出すこととしよう」
「ふ、二人も人質を出すのでございますか!?」
「そうじゃ。このぐらいせねば信玄は我らを味方とは思わぬ。いや、これでも足りぬくらいではなかろうか」
――武田信玄の歓心を買うために、人質を二名提出しても足らない。
そんな家康が吐露した本心を酒井左衛門尉は弱腰だと謗ることなどできなかった。徳川家は三河一国の戦国大名へ飛躍を遂げたとはいえ、相手は甲斐、信濃、西上野の三ヶ国にまたがる所領を有する大大名。格が違うのもあり、下手に出ざるを得ないのである。
「わしには人質に出せる身内が長女の亀姫か、異父弟の源三郎康俊と長福丸くらいであろうか」
「亀姫様も長福丸様もともに齢九ツにござれば、人質にいたすは危ういのでは……」
「ふむ、そうであるな。ともすれば、元服してもおる源三郎か。源三郎ならば齢も十七となっておるし、いざとなれば脱出することも叶おう。左衛門尉は誰を出せそうじゃ」
「某は長女のおふうを出しまする」
「たしか我が叔母を娶る前に生まれた娘であったか」
「はっ、齢は十一になりまする」
女子であるから何かあった時に逃げおおせられるか。その点については不安も残るが、亀姫や長福丸に比べれば二ツも齢は上であるから、まだ生き残る可能性は高い。そう家康も判断した。
「すまぬな、左衛門尉。娘を人質に出させるよう命じておきながら勝手ではあるが」
「いえ、ご案じなさいますな。殿とて数少ない弟君を人質とされるのです。某が人質の供出を渋るわけには参りませぬ。それに、ご当家の所領拡大のまたとない好機、それが叶うのであれば娘の一人、失ったとて惜しくなどありませぬ!はっ、はっ、はっ……!」
敬愛する主君のため、主家の領土拡大のため。そのためには人質を出すことなど厭わない。そう非情に言い切ろうとした酒井左衛門尉であったが、言葉の最後にはぼろぼろと大粒の涙をこぼしながら肩を激しく震わせていた。
「わしは今まで人質として出される側であったが、出す側とはこうまでも辛いものなのだな」
涙をこぼし、謝り続ける酒井左衛門尉の肩を優しく叩きながら、家康は酒井左衛門尉のほかには聞こえない声量で呟く。
「そうじゃ、左衛門尉。四カ条目に補足じゃ」
「何ぞ付け加えるのでございますか?」
「うむ。人質をこちらは出すのじゃ、どうせなら良い条件を引き出しておこうぞ」
「然らば、なんと付け足しましょうか」
「武田軍は駿河に侵攻するとなれば駿府も戦火に包まれよう。おそらくは遠江衆の人質なども駿府に集められておるはずゆえ、我らが経略した地域の遠江衆の人質について、武田方は異議なく引き渡すこと。これぐらいの我意は押し通させてもらおうぞ。それに、五カ条目は川切を目安としてその上での自力次第とあったが、是が非でも大井川まで我らの所領を拡大し、今川にも武田にも目にもの見せてやろうぞ!」
家康は人質を出す酒井左衛門尉のためにも、気丈に振る舞う。そして、武田方を尊重しながらもしっかり要望を通そうとする逞しい主君の姿に、酒井左衛門尉は気を取り直した。
「やってやりましょうぞ!殿!」
「尾張守殿が背後におるのじゃ、我らはただひたすらに東へ突き進むのみじゃ!面倒な今川の同盟相手の北条は我らには目もくれず、武田へ攻めかかろうゆえ、そこが長期戦となる間に一郡でも多く手中に収め、遠江一国を手に入れてくれよう!願わくば、駿河西部へ入ることも叶うよう、全身全霊で挑もうぞ!」
「殿のお気持ち、この左衛門尉、感銘を受けましてございます!然らば、殿が今しがた提示なされた条件を書き加え、武田方へ書状を送りまする!異議なくばそのまま起請文の交換へ移る旨も記しておきまするが、それでよろしゅうございますか!」
「構わぬ!そのように書き送っておいてくれ」
こうして家康は甲斐の武田信玄との今川領経略の密約を交わし、甲三同盟締結へと舵を切ったのである。
「御屋形様」
「美濃守に三郎兵衛尉か。城攻めと城普請はいかがなっておる」
「はっ、城攻めの方はさすがは上杉。そう易々と落とすことは叶いませぬ」
「苦戦しておるか。して、城普請はいかがなっておるか」
「この三郎兵衛尉が見るところ、順調であると心得ます。おそらく、十月には完成となりましょう」
馬場美濃守信春、山県三郎兵衛尉昌景の両名からの報告を受け、信玄は瞠目したまま静かに頷く。
城攻めは上杉家に対する威嚇であり、来るべき駿河侵攻に備え、上杉を越後に釘付けにしておく陽動作戦である。
上杉弾正少弼輝虎は目下、外征の余裕など消失するほどに忙殺されていた。北越後では武田家や蘆名家の支援を受けた本庄繫長の反乱鎮圧、越後の西の越中では武田信玄の調略を受けた椎名康胤や神保長職、越中一向一揆が蜂起。
そこへ、北信濃へ武田信玄自らが大軍を率いて進軍してきたのであるから、三方に敵を受けることとなり、まさしく上杉輝虎包囲網とでも言うべき情勢が信玄によって構築されていたのである。
「これならば越後勢は北信濃など顧みる余裕など当面ございますまい。その間に、我らが駿河と遠江を平らげるまで」
「まさしく。美濃守殿の仰る通りでございます」
駿河に留まらず、遠江までも支配下に置かんと息巻く不死身の鬼美濃とも称される齢五十四の老将・馬場美濃守。これに山県三郎兵衛尉も大いに賛同した。その様子に信玄はにやりと獰猛な笑みを浮かべる。
そこへ、海津城代として北信濃に睨みを利かせ、武略・用兵は家中随一ともいわれる春日弾正虎綱が到着する。
「御屋形様、長沼の城普請にございますが、これが実現しますれば某の在城する海津城とも連携し、上杉家の動向に目を光らせることもできまする。加えて、この縄張りであれば、上杉軍の南下を阻止しうる城郭となりましょう」
「うむ。そうでなくては困る。我らが駿河へ侵攻する間、北信濃の守備は弾正、そなたに一任するゆえな。しかと頼むぞ」
「はっ、御屋形様のご期待に沿えますよう、しかと励みまする!深志城には工藤源左衛門尉昌秀もおりますれば、断じて上杉勢に信濃を侵させるような真似はさせませぬ」
「それでよい。源左衛門尉は副将としての才覚があるゆえな。弾正と組ませれば怖い者なしであろう」
工藤源左衛門尉昌秀こそ、後の内藤昌秀であり、この場に集う馬場信春、山県昌景、春日虎綱とともに後の世で『武田四天王』と称されることになる人物である。
そんな貫禄溢れる武田重臣が集う中、武田御一門衆の穴山左衛門大夫信君が一通の書状を手に現れた。
「御屋形様、左衛門大夫にございます」
「おお、左衛門大夫か。いかがした?さては、その書状がことで参ったか」
「はっ!ご推察の通りにございます。こちら、徳川三河守殿よりの書状と家老の酒井左衛門尉殿よりの副状となりまする」
「見せよ」
信玄は穴山左衛門大夫から二通の書状を受け取ると、じっくりと目を通していく。信玄が書状に目を通す間の沈黙を慣れた様子で見守る馬場美濃守、山県三郎兵衛尉、春日弾正の三名に対し、穴山左衛門大夫はどこか落ち着かぬ様子で舅の表情の変化を見過ごすまいと見つめていた。
「御屋形様、三河守殿よりの書状にはなんと?」
「見てみよ、三郎兵衛尉。今川領経略のため、当家と連携するよう弾正忠殿から伝達があったこと。そして、そのための第一報としての書状であることが明記されておろう」
「いかにも。まずはご当家の条件から先に承りたいと申してきておりますが……」
「おそらく、我らに気を遣っておるのであろうよ。まあ、国衆と守護大名とでは格式が違うゆえ、当然ともいえようが」
信玄は顎鬚を左の手でいじりながら目を閉じ、徳川家へ提示する条件について考え込んでいるようであった。
「ふむ、取り決めとして、この五カ条を提案するとしようか」
信玄は笑みをこぼすと文机を引き寄せ、筆を取る。信玄がたちどころにしたためた書状には以下の五カ条が記されていた。
一、当家と徳川氏は伝達を密にし、連携して今川攻めを行うこと。加えて、侵攻の期日については事前に連絡を取り合うべきこと。
一、当家も徳川氏も相互の合意なく今川方と無断で和睦すべからざること。
一、当家も徳川氏も相手を裏切ったり騙したりするような行為はしないこと。
一、甲三の同盟を確実なものとするため、当家が徳川氏から人質を預かりおくこと。
一、今川領分割については川切を目安とするが、相互に自力次第とすること。
「これならば良かろう。のう、左衛門大夫?」
「はっ、これならば徳川方も納得するのではないかと」
一カ条目は連携して今川領を経略しようということであり、侵攻する日時についても連絡を取り合おうと述べている。
続く二カ条目の双方無断で敵と和睦しないこと、三カ条目の互いに騙したり裏切ったりしないのも同盟交渉において明記しておくべき内容であるため、これも異議が申し立てられることはあるまいと読み手の穴山左衛門大夫も同意するところであった。
四カ条目では武田家が徳川家から提出された人質を預かると明記している。織田家との交渉ならばいざ知らず、家格に格差がある以上、武田家が格下の徳川家へ人質を出す謂れはないことくらい家康も理解しているだろうし、了解するだろうと穴山左衛門大夫は内心納得していた。
概ね信玄からの申し入れ内容に同意している穴山左衛門大夫であったが、唯一引っかかったのが最後の五カ条目である。
「御屋形様、五カ条目がちと曖昧ではありませぬか」
「どれ……川を境に自力次第を認めることであろう」
「はい。今川領内で大きな川が二つございます。大井川と天竜川、このどちらを境とするかを取り決めておいた方が良いのではございませぬか」
「ふっ、左衛門大夫よ。当然天竜川を境とするに決まっておろう。弾正忠殿からは必ず徳川殿へ援軍を派遣するとの書状も届いておるが、これから控える上洛を前に東へ兵を向けることはしまい。ともすれば、徳川如き国衆あがりでは天竜川以西を制圧するだけで手一杯ともなろう。ゆえに、境は天竜川で良い。それに大井川では当家が駿河、徳川が遠江と一国ずつ分割することになるではないか。我等よりも格下であることを理解しておる徳川が大井川を境になどと愚かなことを申すはずがないであろうが」
穴山左衛門大夫の意見を信玄は鼻で笑った。そして、その場にいる四名ともが悟った。主君は徳川を遥か格下だと見ているのだということを。
元より徳川家は国衆あがりであり、武田家は由緒正しい守護大名。格が違うと言えばそれまでだが、それは自分たちが思っている以上に格下と認識しているらしいことを。
「良いか、この旨を左衛門大夫と三郎兵衛尉の連署状で良い。徳川の家老、酒井に宛てて送っておくがよい」
信玄からの命を受けて山県三郎兵衛尉と穴山左衛門大夫は一礼し、すぐにも連署状を作成するべく本陣を去り、馬場美濃守と春日弾正もまた各々の持ち場へと戻っていくのであった。
そうして信長と義昭が対面を果たしている頃、武田家からの返書が岡崎城の家康のもとへ届けられたのである。
「殿!武田家からの返書が届きましてございます!」
そう言って岡崎城広間へ駆け込んできたのは吉田城を任されている家老・酒井左衛門尉忠次であった。齢四十二となっても変わらぬ様子で家康へ仕える無二の忠臣から差し出された書状を受け取り、家康は速やかに一読する。
「なるほど、同盟を結ぶにあたっての密約の内容か」
「はっ!殿はお読みになられて、何か申したきことはございますでしょうか?」
先に内容を一読している酒井左衛門尉は家康が激昂したりはせぬかと様子を窺うように、おどおどとした様子でお伺いを立てる。しかし、家康は激昂する風もなく、冷静に書状を読み終え、武田家へ伝えたい旨について考案し始める。
「そうじゃな、一カ条目はその通りであるし、続く二カ条目と三カ条目もそのままでよい。続く四カ条目、人質提出のことじゃが……」
「我らから人質を出すのに、武田からは人質は出さぬと。武田からも人質を出すよう求めまするか」
「やめよ。相手は代々の守護大名家じゃ。わしのような国衆出身の者が人質を求めてよい相手ではない。信玄殿を怒らせるだけじゃ」
「さ、されば、人質はいかにいたしましょう」
「わしと取次役の左衛門尉から一人ずつ出すこととしよう」
「ふ、二人も人質を出すのでございますか!?」
「そうじゃ。このぐらいせねば信玄は我らを味方とは思わぬ。いや、これでも足りぬくらいではなかろうか」
――武田信玄の歓心を買うために、人質を二名提出しても足らない。
そんな家康が吐露した本心を酒井左衛門尉は弱腰だと謗ることなどできなかった。徳川家は三河一国の戦国大名へ飛躍を遂げたとはいえ、相手は甲斐、信濃、西上野の三ヶ国にまたがる所領を有する大大名。格が違うのもあり、下手に出ざるを得ないのである。
「わしには人質に出せる身内が長女の亀姫か、異父弟の源三郎康俊と長福丸くらいであろうか」
「亀姫様も長福丸様もともに齢九ツにござれば、人質にいたすは危ういのでは……」
「ふむ、そうであるな。ともすれば、元服してもおる源三郎か。源三郎ならば齢も十七となっておるし、いざとなれば脱出することも叶おう。左衛門尉は誰を出せそうじゃ」
「某は長女のおふうを出しまする」
「たしか我が叔母を娶る前に生まれた娘であったか」
「はっ、齢は十一になりまする」
女子であるから何かあった時に逃げおおせられるか。その点については不安も残るが、亀姫や長福丸に比べれば二ツも齢は上であるから、まだ生き残る可能性は高い。そう家康も判断した。
「すまぬな、左衛門尉。娘を人質に出させるよう命じておきながら勝手ではあるが」
「いえ、ご案じなさいますな。殿とて数少ない弟君を人質とされるのです。某が人質の供出を渋るわけには参りませぬ。それに、ご当家の所領拡大のまたとない好機、それが叶うのであれば娘の一人、失ったとて惜しくなどありませぬ!はっ、はっ、はっ……!」
敬愛する主君のため、主家の領土拡大のため。そのためには人質を出すことなど厭わない。そう非情に言い切ろうとした酒井左衛門尉であったが、言葉の最後にはぼろぼろと大粒の涙をこぼしながら肩を激しく震わせていた。
「わしは今まで人質として出される側であったが、出す側とはこうまでも辛いものなのだな」
涙をこぼし、謝り続ける酒井左衛門尉の肩を優しく叩きながら、家康は酒井左衛門尉のほかには聞こえない声量で呟く。
「そうじゃ、左衛門尉。四カ条目に補足じゃ」
「何ぞ付け加えるのでございますか?」
「うむ。人質をこちらは出すのじゃ、どうせなら良い条件を引き出しておこうぞ」
「然らば、なんと付け足しましょうか」
「武田軍は駿河に侵攻するとなれば駿府も戦火に包まれよう。おそらくは遠江衆の人質なども駿府に集められておるはずゆえ、我らが経略した地域の遠江衆の人質について、武田方は異議なく引き渡すこと。これぐらいの我意は押し通させてもらおうぞ。それに、五カ条目は川切を目安としてその上での自力次第とあったが、是が非でも大井川まで我らの所領を拡大し、今川にも武田にも目にもの見せてやろうぞ!」
家康は人質を出す酒井左衛門尉のためにも、気丈に振る舞う。そして、武田方を尊重しながらもしっかり要望を通そうとする逞しい主君の姿に、酒井左衛門尉は気を取り直した。
「やってやりましょうぞ!殿!」
「尾張守殿が背後におるのじゃ、我らはただひたすらに東へ突き進むのみじゃ!面倒な今川の同盟相手の北条は我らには目もくれず、武田へ攻めかかろうゆえ、そこが長期戦となる間に一郡でも多く手中に収め、遠江一国を手に入れてくれよう!願わくば、駿河西部へ入ることも叶うよう、全身全霊で挑もうぞ!」
「殿のお気持ち、この左衛門尉、感銘を受けましてございます!然らば、殿が今しがた提示なされた条件を書き加え、武田方へ書状を送りまする!異議なくばそのまま起請文の交換へ移る旨も記しておきまするが、それでよろしゅうございますか!」
「構わぬ!そのように書き送っておいてくれ」
こうして家康は甲斐の武田信玄との今川領経略の密約を交わし、甲三同盟締結へと舵を切ったのである。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
九州三国記
芙伊 顕定
歴史・時代
時は戦国時代。
2026年NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」と同時代を熱く生き抜いた男たちが九州にいた。
薩摩の島津義弘、豊後の戸次鑑連、肥前の鍋島直茂。
彼らの生き様を描いた大河歴史小説です。
是非お読みください!!
【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記
糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。
それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。
かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。
ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。
※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
If太平洋戦争 日本が懸命な判断をしていたら
みにみ
歴史・時代
もし、あの戦争で日本が異なる選択をしていたら?
国力の差を直視し、無謀な拡大を避け、戦略と外交で活路を開く。
真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル…そして終戦工作 分水嶺で下された「if」の決断。
破滅回避し、国家存続をかけたもう一つの終戦
そしてそこから繋がる新たな近代史へ
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる