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第6章 竜吟虎嘯の章
第233話 室町殿御父
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――六角父子が甲賀へ逃亡。
その知らせは六角軍を一蹴し、落城させたばかりの箕作城へ本陣を移していた織田弾正忠信長のもとへと柴田権六からの早馬が入り、注進された。
「で、あるか。ならば明日十三日にも観音寺城へ入るとしよう。ひとまず、兵らも疲れておるゆえ、ここで休息を取らせたい」
「はっ、その旨、観音寺城の柴田様へ伝えて参りまする!」
使者が足早に退出していくと、信長はじっと南の方角を見据える。するとそこへ、城への夜襲を成功させた木下藤吉郎が誇らしげに参上したのである。
「殿!」
「おう、来たか。城への一番乗り、そして夜襲策は見事であったぞ」
「ははっ!恐悦至極に存じまする!」
「じゃが、本丸への一番乗りとはならなかったと耳にしたが、それは真か」
「はっ、三河衆が本丸への一番乗りとなりまする。そして、隣の間に控えさせてもおりますゆえ、殿からも労いの言葉をかけてはいただけますまいか」
「そうであったか。おれも労おうと思っておったところであった。そなたが行って、これへ連れて参れ」
「ははっ!」
猿のような身軽さで立ち上がると、木下藤吉郎秀吉はせわしなく隣の間に控える徳川直臣・成瀬藤蔵正義、藤井松平家当主・松平勘四郎信一を呼びに走っていった。そうしてすぐにも両名の手をひき、木下藤吉郎は満面の笑みで信長の前へと戻ってきたのである。
「ささっ、ご両人。我が殿がお呼びにござる」
「木下殿、かたじけのうござる」
木下藤吉郎に導かれるまま、信長の面前へとやってきた成瀬藤蔵と松平勘四郎は膝をついて信長の前に首を垂れた。
「両名とも、此度の槍働き実に見事であった」
「ありがとう存じまする」
「さすがは三州殿が見込んで派遣してくださった援軍である。信長、心より御礼申し上げる。三河へ戻られた暁には、三州殿へよろしくお伝えくだされ。此度の援軍の返礼に、今年の冬には支度を整え、遠江まで援軍に向かうと」
「ははっ!そのお言葉を聞けば、我が主三河守もさぞかし喜びましょう。必ずお伝えいたしまする」
成瀬藤蔵の礼儀正しい態度、松平勘四郎の無骨ながらも愛想を尽かせぬ態度を信長はいたく気に入り、両名と戦と関わりないことまで一刻近く話し込んで別れた。
「殿、随分と話し込んでおられましたな」
「うむ、あのような家臣らを持つとはまこと三州は恵まれておる」
そう言い切る信長に木下藤吉郎は嫉妬しながらも、現在の戦況を報告し始める。
「殿、山崎源太左衛門尉賢家殿をはじめとして、多くの六角家臣は恭順し、十八ある観音寺城の支城も一つを除き、投降いたした由」
「で、あるか」
「されど、ここより南東に七里ほど行った地にある日野城に籠もる蒲生左兵衛大夫賢秀は一千の兵とともに籠城し、以前抵抗する構えを見せております」
「うむ、蒲生がことは案ずるに及ばず」
「それは何故に?」
「三七を養子に出した神戸蔵人大夫具盛の妻は蒲生左兵衛大夫の妹にあたる縁から、すでに日野城へ乗り込み、当家へ降るよう説得を促しておる」
「さ、さすがは殿。手を回されるのが、まことに早うございまする……!」
抵抗を見せる日野城に対し、すでに主君が手を打っているのでは、木下藤吉郎から何らかの策を提案する必要はもはやなかった。しかし、今後の南近江領をどのように扱うのか、それについて信長はどうするつもりであるのか、木下藤吉郎は問いかけたくなってしまった。
「殿、攻め取った六角の南近江領にございますが、いかがなされるご所存で?」
「京と本国との連絡に欠かせぬ地であるゆえ、当家の領国に編入するつもりでおる。江南二十四郡を得られるは大きいゆえな」
すでに六角家に従属していた国衆たちは続々と信長へ従属を誓ってきており、実質的に南近江領は織田領国といっても差し支えない状況となっていた。
「加えて、義昭様へ南近江平定を報せる早馬を出したゆえ、義昭様と合流して後、京へ入ることといたす」
そう言い切った信長は兵馬を休ませる傍ら、南近江の支配を進め、足利義昭の到着を待つこととなった。
これまで二度にわたり追討を受けた六角家は観音寺城を放棄して甲賀郡に拠点を移して長期戦に持ち込んで相手方の撤退を待ち、ほとぼりが冷めた頃に本領を奪還する戦略に成功した過去があり、今回の信長の侵攻を足利義昭による三度目の六角征伐と認識していた六角父子は判断を誤ることとなった。
信長が南近江を自領に編入し、統治を開始したということは撤退しないという方針の表れ。そうなっては、ほとぼりが冷めるのを待つなどと悠長なことを言ってもいられなくなる。
本領を失った六角父子は以後、小規模なゲリラ戦を展開するのがやっとな状況になってしまい、戦国大名としての六角氏は没落は決定的なものとなってしまったのであった……
ともあれ、信長から南近江平定の報せを受け取った足利義昭は織田軍に警護されながら美濃を出立し、二十二日にはかつて父・足利義晴が幕府を構えていた桑実寺へ入ったのである。
同日、信長の先陣が勢多を越え、翌二十三日に山科七郷へ着陣した。そして、信長も守山から園城寺極楽院に入り、大津の馬場・松本に着陣。義昭も信長の後を追うように園城寺光浄院へ。
そうして三日後の二十六日には信長が山科郷粟田口や西院の方々を経て東寺に進軍。その後に東福寺に陣を移し、細川与一郎藤孝に御所を守らせた。一方で義昭も東山の清水寺に入り、ついに念願であった上洛を果たしたのである。
「十兵衛、おるか」
「ははっ、これにおりまする」
「予はまことに京におるのだな」
「はい。決して夢などではございませぬ」
義昭は明智十兵衛光秀に語りかけながら、京の空気で肺を満たす。誰に攻め込まれることもなく、京で安全に過ごせている。まるで夢のような心地がする。永禄の変より三年半になろうとしている中、ようやく足利義昭は入洛を果たしたのである。
そんな足利義昭が夢見心地でいるなどとは露知らず、信長は翌二十七日には三好方の五畿内と淡路・阿波・讃岐の軍勢が山崎に布陣して京を窺っているとの風説を耳にし、先陣を派遣。
しかし、すでに軍勢は撤退していたため、信長は河内方面へ矛先を転じ、山崎・天神馬場に着陣していた。信長が畿内平定に勤しむ中、義昭は奉公衆らとともに清水寺から東寺へと移り、西岡日向の寂勝院に移った。
さらに信長は二十八日、三好長逸と細川六郎が籠城するかつての三好長慶の居城であった芥川山城に軍を進め、翌日にはその麓に放火し、河内の各所も放火したのだが、当の三好長逸と細川六郎の両名はすでに二十七日夜に逃亡しており、行方知らず。義昭もまた天神馬場まで進軍している。
そして、三十日には義昭自らが芥川山城に入城して将軍家の旗を掲げ、ここから摂津・大和・河内の敵対勢力への征討が行われた。織田軍は大和郡山の道場と富田寺を制圧したのち、摂津池田城の池田筑後守勝正を攻め、勝正は抵抗しきれず、子息ら五人の人質を出して恭順し、所領を保証された。
さらに同日、病気を患っていた室町幕府十四代将軍・足利義栄が死去し、側近の篠原長房らは阿波に引き返していった。
担ぐ神輿がなくなったことが影響したのか、翌十月二日には三好長逸と池田日向守が降参し、義昭に出仕。河内では三好方の飯盛山城と高屋城が降伏し、摂津でも高槻城や入江城、茨木城が攻略されるなど、摂津と河内の制圧が着々と進められていった。
二日後の四日には松永弾正久秀、三好左京大夫義継、池田筑後守勝正らが芥川山城に御礼のために出仕し、久秀には大和一国の支配が認められた。また、同日に興福寺が義昭に使者を派遣して礼を述べたのをはじめ、武家のみならず、多数の寺社が安堵を求めて芥川山城に集う事態となった。
これにより近江・山城・摂津・河内・和泉の畿内は義昭と信長に制圧され、さらには丹波と播磨の国衆も赴いたことで、五畿内近国も義昭の支配に置かれる領域となったのである。
同月十四日に足利義昭は京へ戻り、四日後には朝廷より征夷大将軍に任じられたのである。そして、二十四日には自筆の感状を細川与一郎と和田伊賀守惟政に託し、信長に与えていた。
宛先には『御父織田弾正忠殿』と記された、義昭の感謝の気持ちがこれでもかというほどに込められた感状を、である。
しかし、そこに記された内容へ芳しい返事がなく、さらには信長から美濃へ帰国するための暇乞いを申し入れたこともあり、義昭は何としても信長を引き留めようと直談判をしていた――
「上様におかれましては征夷大将軍就任、心よりお祝い申し上げます」
「弾正忠殿!まこと、貴公には此度の上洛において世話になった……!武勇天下第一なり、であるぞ」
「はっ、されど某が武勇天下第一などとは過分なる評価にございましょう」
「むっ、弾正忠殿。妙に堅苦しいではないか」
「上様は征夷大将軍となられ、名実ともに武家の頂点に立たれたのですから、かように臣下の礼を執ることは至極当然のことにございます」
上洛に協力すると立政寺で対面した折も畏まっていた信長であったが、足利義昭の征夷大将軍就任に伴い、一層臣下としての礼を取り、距離を置くようになっていた。それが不満なのか、足利義昭は少し不機嫌そうに頬を膨らませる。
だが、義昭の官位は従五位下・左馬頭から従四位下、参議・左近衛中将にも昇叙・任官され、無位無官の信長にとっては雲の上の人物となっていたのであるから、当然の対応とも言えた。
「弾正忠への正式な叙任と当家の家紋である桐紋と二引両の使用を許可すること以外には何も受け取ってくれぬのは何故か」
「副将軍か管領に任命する御話や斯波氏の家督継承とその当主の官位である左兵衛督への任命は先にも書状でお伝えいたしました通り、辞退させていただきます」
「左様か。じゃが、それでは予の気持ちが収まらぬ。どうか、何か所望する物があれば遠慮のう申してくれ」
「……然らば、堺、草津、大津を某の直轄地とすることをお認めください」
「そ、それだけで良いのか?望みとあらば、一ヵ国でも二ヵ国でも加増して遣わすが……」
「すでに六角家が治めておりました南近江を得ておりますれば、知行の加増も結構でございます」
度重なる義昭からの褒賞を信長は辞退し、受け取ったのは弾正忠への正式な叙任、足利家の家紋である桐紋と二引両の使用許可、堺・草津・大津を直轄地とすることの三つのみであった。
そうして十月二十六日。信長は京に一部の重臣とわずかな手勢を残して美濃へと帰還したのである。
信長が無事に上洛を果たし、足利義昭を室町幕府十五代将軍としたうえで美濃へ帰国したことは書状でもって同盟国である家康のもとへも知らされた。
「ほう、弾正忠殿は無事に上洛なされたそうじゃ。当家の援軍も南近江の箕作城攻めにて大いに武功を立てたそうな」
近侍する阿部善九郎正勝、天野三郎兵衛康景、鳥居彦右衛門尉元忠、本多平八郎忠勝、榊原小平太康政といった面々を交え、家康は信長からの書状を読み、喜びの意を示していた。
「それにしても二月とかからず畿内を平定してしまうとは思いませんでしたな」
「まことじゃ。しかも、将軍義昭様から『室町殿御父』の称号を与えられたとのこと。まこと喜ばしき限りじゃ」
「殿!これは我らも負けてはおられませぬぞ!織田家は尾張、美濃、北伊勢、南近江の四ヶ国にまたがる所領を有しておるのです。当家も遠江一国を制さねば対等な同盟とは言えませぬぞ」
齢二十一と若い本多平八郎は織田には負けられぬ、といった様子で語気を強める。それに隣の榊原小平太も同感だとばかりに熱意に溢れる視線を主君へ注いでいく。
「案ずるな。わしもそのつもりじゃ。武田がいつ動くのかは定かでないが、吉田城の左衛門尉には遠江衆の調略を進めるよう命じておる。じきにその成果が岡崎にも届こうものぞ」
――『尾張のうつけ』などと呼ばれていた信長殿も、今では『室町殿御父』か。
熱田で織田家に庇護された六ツの頃から付き合いのある信長が、今では尾張一国だけでなく、美濃や北伊勢、さらには南近江を領有化して四ヶ国に跨る大大名となっている。
――二十一年もの月日が流れるだけで、時代はこうも移り変わっていくものなのか。
心の内でそう思う家康は信長の書状を片手にしみじみする一方で、自分もまた朝廷から三河国主の地位を認められ、従五位下・三河守に任じられて徳川姓も認められていようとは人質時代からは想像もつかないことだと改めてこれまでのことを振り返るのであった――
その知らせは六角軍を一蹴し、落城させたばかりの箕作城へ本陣を移していた織田弾正忠信長のもとへと柴田権六からの早馬が入り、注進された。
「で、あるか。ならば明日十三日にも観音寺城へ入るとしよう。ひとまず、兵らも疲れておるゆえ、ここで休息を取らせたい」
「はっ、その旨、観音寺城の柴田様へ伝えて参りまする!」
使者が足早に退出していくと、信長はじっと南の方角を見据える。するとそこへ、城への夜襲を成功させた木下藤吉郎が誇らしげに参上したのである。
「殿!」
「おう、来たか。城への一番乗り、そして夜襲策は見事であったぞ」
「ははっ!恐悦至極に存じまする!」
「じゃが、本丸への一番乗りとはならなかったと耳にしたが、それは真か」
「はっ、三河衆が本丸への一番乗りとなりまする。そして、隣の間に控えさせてもおりますゆえ、殿からも労いの言葉をかけてはいただけますまいか」
「そうであったか。おれも労おうと思っておったところであった。そなたが行って、これへ連れて参れ」
「ははっ!」
猿のような身軽さで立ち上がると、木下藤吉郎秀吉はせわしなく隣の間に控える徳川直臣・成瀬藤蔵正義、藤井松平家当主・松平勘四郎信一を呼びに走っていった。そうしてすぐにも両名の手をひき、木下藤吉郎は満面の笑みで信長の前へと戻ってきたのである。
「ささっ、ご両人。我が殿がお呼びにござる」
「木下殿、かたじけのうござる」
木下藤吉郎に導かれるまま、信長の面前へとやってきた成瀬藤蔵と松平勘四郎は膝をついて信長の前に首を垂れた。
「両名とも、此度の槍働き実に見事であった」
「ありがとう存じまする」
「さすがは三州殿が見込んで派遣してくださった援軍である。信長、心より御礼申し上げる。三河へ戻られた暁には、三州殿へよろしくお伝えくだされ。此度の援軍の返礼に、今年の冬には支度を整え、遠江まで援軍に向かうと」
「ははっ!そのお言葉を聞けば、我が主三河守もさぞかし喜びましょう。必ずお伝えいたしまする」
成瀬藤蔵の礼儀正しい態度、松平勘四郎の無骨ながらも愛想を尽かせぬ態度を信長はいたく気に入り、両名と戦と関わりないことまで一刻近く話し込んで別れた。
「殿、随分と話し込んでおられましたな」
「うむ、あのような家臣らを持つとはまこと三州は恵まれておる」
そう言い切る信長に木下藤吉郎は嫉妬しながらも、現在の戦況を報告し始める。
「殿、山崎源太左衛門尉賢家殿をはじめとして、多くの六角家臣は恭順し、十八ある観音寺城の支城も一つを除き、投降いたした由」
「で、あるか」
「されど、ここより南東に七里ほど行った地にある日野城に籠もる蒲生左兵衛大夫賢秀は一千の兵とともに籠城し、以前抵抗する構えを見せております」
「うむ、蒲生がことは案ずるに及ばず」
「それは何故に?」
「三七を養子に出した神戸蔵人大夫具盛の妻は蒲生左兵衛大夫の妹にあたる縁から、すでに日野城へ乗り込み、当家へ降るよう説得を促しておる」
「さ、さすがは殿。手を回されるのが、まことに早うございまする……!」
抵抗を見せる日野城に対し、すでに主君が手を打っているのでは、木下藤吉郎から何らかの策を提案する必要はもはやなかった。しかし、今後の南近江領をどのように扱うのか、それについて信長はどうするつもりであるのか、木下藤吉郎は問いかけたくなってしまった。
「殿、攻め取った六角の南近江領にございますが、いかがなされるご所存で?」
「京と本国との連絡に欠かせぬ地であるゆえ、当家の領国に編入するつもりでおる。江南二十四郡を得られるは大きいゆえな」
すでに六角家に従属していた国衆たちは続々と信長へ従属を誓ってきており、実質的に南近江領は織田領国といっても差し支えない状況となっていた。
「加えて、義昭様へ南近江平定を報せる早馬を出したゆえ、義昭様と合流して後、京へ入ることといたす」
そう言い切った信長は兵馬を休ませる傍ら、南近江の支配を進め、足利義昭の到着を待つこととなった。
これまで二度にわたり追討を受けた六角家は観音寺城を放棄して甲賀郡に拠点を移して長期戦に持ち込んで相手方の撤退を待ち、ほとぼりが冷めた頃に本領を奪還する戦略に成功した過去があり、今回の信長の侵攻を足利義昭による三度目の六角征伐と認識していた六角父子は判断を誤ることとなった。
信長が南近江を自領に編入し、統治を開始したということは撤退しないという方針の表れ。そうなっては、ほとぼりが冷めるのを待つなどと悠長なことを言ってもいられなくなる。
本領を失った六角父子は以後、小規模なゲリラ戦を展開するのがやっとな状況になってしまい、戦国大名としての六角氏は没落は決定的なものとなってしまったのであった……
ともあれ、信長から南近江平定の報せを受け取った足利義昭は織田軍に警護されながら美濃を出立し、二十二日にはかつて父・足利義晴が幕府を構えていた桑実寺へ入ったのである。
同日、信長の先陣が勢多を越え、翌二十三日に山科七郷へ着陣した。そして、信長も守山から園城寺極楽院に入り、大津の馬場・松本に着陣。義昭も信長の後を追うように園城寺光浄院へ。
そうして三日後の二十六日には信長が山科郷粟田口や西院の方々を経て東寺に進軍。その後に東福寺に陣を移し、細川与一郎藤孝に御所を守らせた。一方で義昭も東山の清水寺に入り、ついに念願であった上洛を果たしたのである。
「十兵衛、おるか」
「ははっ、これにおりまする」
「予はまことに京におるのだな」
「はい。決して夢などではございませぬ」
義昭は明智十兵衛光秀に語りかけながら、京の空気で肺を満たす。誰に攻め込まれることもなく、京で安全に過ごせている。まるで夢のような心地がする。永禄の変より三年半になろうとしている中、ようやく足利義昭は入洛を果たしたのである。
そんな足利義昭が夢見心地でいるなどとは露知らず、信長は翌二十七日には三好方の五畿内と淡路・阿波・讃岐の軍勢が山崎に布陣して京を窺っているとの風説を耳にし、先陣を派遣。
しかし、すでに軍勢は撤退していたため、信長は河内方面へ矛先を転じ、山崎・天神馬場に着陣していた。信長が畿内平定に勤しむ中、義昭は奉公衆らとともに清水寺から東寺へと移り、西岡日向の寂勝院に移った。
さらに信長は二十八日、三好長逸と細川六郎が籠城するかつての三好長慶の居城であった芥川山城に軍を進め、翌日にはその麓に放火し、河内の各所も放火したのだが、当の三好長逸と細川六郎の両名はすでに二十七日夜に逃亡しており、行方知らず。義昭もまた天神馬場まで進軍している。
そして、三十日には義昭自らが芥川山城に入城して将軍家の旗を掲げ、ここから摂津・大和・河内の敵対勢力への征討が行われた。織田軍は大和郡山の道場と富田寺を制圧したのち、摂津池田城の池田筑後守勝正を攻め、勝正は抵抗しきれず、子息ら五人の人質を出して恭順し、所領を保証された。
さらに同日、病気を患っていた室町幕府十四代将軍・足利義栄が死去し、側近の篠原長房らは阿波に引き返していった。
担ぐ神輿がなくなったことが影響したのか、翌十月二日には三好長逸と池田日向守が降参し、義昭に出仕。河内では三好方の飯盛山城と高屋城が降伏し、摂津でも高槻城や入江城、茨木城が攻略されるなど、摂津と河内の制圧が着々と進められていった。
二日後の四日には松永弾正久秀、三好左京大夫義継、池田筑後守勝正らが芥川山城に御礼のために出仕し、久秀には大和一国の支配が認められた。また、同日に興福寺が義昭に使者を派遣して礼を述べたのをはじめ、武家のみならず、多数の寺社が安堵を求めて芥川山城に集う事態となった。
これにより近江・山城・摂津・河内・和泉の畿内は義昭と信長に制圧され、さらには丹波と播磨の国衆も赴いたことで、五畿内近国も義昭の支配に置かれる領域となったのである。
同月十四日に足利義昭は京へ戻り、四日後には朝廷より征夷大将軍に任じられたのである。そして、二十四日には自筆の感状を細川与一郎と和田伊賀守惟政に託し、信長に与えていた。
宛先には『御父織田弾正忠殿』と記された、義昭の感謝の気持ちがこれでもかというほどに込められた感状を、である。
しかし、そこに記された内容へ芳しい返事がなく、さらには信長から美濃へ帰国するための暇乞いを申し入れたこともあり、義昭は何としても信長を引き留めようと直談判をしていた――
「上様におかれましては征夷大将軍就任、心よりお祝い申し上げます」
「弾正忠殿!まこと、貴公には此度の上洛において世話になった……!武勇天下第一なり、であるぞ」
「はっ、されど某が武勇天下第一などとは過分なる評価にございましょう」
「むっ、弾正忠殿。妙に堅苦しいではないか」
「上様は征夷大将軍となられ、名実ともに武家の頂点に立たれたのですから、かように臣下の礼を執ることは至極当然のことにございます」
上洛に協力すると立政寺で対面した折も畏まっていた信長であったが、足利義昭の征夷大将軍就任に伴い、一層臣下としての礼を取り、距離を置くようになっていた。それが不満なのか、足利義昭は少し不機嫌そうに頬を膨らませる。
だが、義昭の官位は従五位下・左馬頭から従四位下、参議・左近衛中将にも昇叙・任官され、無位無官の信長にとっては雲の上の人物となっていたのであるから、当然の対応とも言えた。
「弾正忠への正式な叙任と当家の家紋である桐紋と二引両の使用を許可すること以外には何も受け取ってくれぬのは何故か」
「副将軍か管領に任命する御話や斯波氏の家督継承とその当主の官位である左兵衛督への任命は先にも書状でお伝えいたしました通り、辞退させていただきます」
「左様か。じゃが、それでは予の気持ちが収まらぬ。どうか、何か所望する物があれば遠慮のう申してくれ」
「……然らば、堺、草津、大津を某の直轄地とすることをお認めください」
「そ、それだけで良いのか?望みとあらば、一ヵ国でも二ヵ国でも加増して遣わすが……」
「すでに六角家が治めておりました南近江を得ておりますれば、知行の加増も結構でございます」
度重なる義昭からの褒賞を信長は辞退し、受け取ったのは弾正忠への正式な叙任、足利家の家紋である桐紋と二引両の使用許可、堺・草津・大津を直轄地とすることの三つのみであった。
そうして十月二十六日。信長は京に一部の重臣とわずかな手勢を残して美濃へと帰還したのである。
信長が無事に上洛を果たし、足利義昭を室町幕府十五代将軍としたうえで美濃へ帰国したことは書状でもって同盟国である家康のもとへも知らされた。
「ほう、弾正忠殿は無事に上洛なされたそうじゃ。当家の援軍も南近江の箕作城攻めにて大いに武功を立てたそうな」
近侍する阿部善九郎正勝、天野三郎兵衛康景、鳥居彦右衛門尉元忠、本多平八郎忠勝、榊原小平太康政といった面々を交え、家康は信長からの書状を読み、喜びの意を示していた。
「それにしても二月とかからず畿内を平定してしまうとは思いませんでしたな」
「まことじゃ。しかも、将軍義昭様から『室町殿御父』の称号を与えられたとのこと。まこと喜ばしき限りじゃ」
「殿!これは我らも負けてはおられませぬぞ!織田家は尾張、美濃、北伊勢、南近江の四ヶ国にまたがる所領を有しておるのです。当家も遠江一国を制さねば対等な同盟とは言えませぬぞ」
齢二十一と若い本多平八郎は織田には負けられぬ、といった様子で語気を強める。それに隣の榊原小平太も同感だとばかりに熱意に溢れる視線を主君へ注いでいく。
「案ずるな。わしもそのつもりじゃ。武田がいつ動くのかは定かでないが、吉田城の左衛門尉には遠江衆の調略を進めるよう命じておる。じきにその成果が岡崎にも届こうものぞ」
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――二十一年もの月日が流れるだけで、時代はこうも移り変わっていくものなのか。
心の内でそう思う家康は信長の書状を片手にしみじみする一方で、自分もまた朝廷から三河国主の地位を認められ、従五位下・三河守に任じられて徳川姓も認められていようとは人質時代からは想像もつかないことだと改めてこれまでのことを振り返るのであった――
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守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
大東亜戦争を有利に
ゆみすけ
歴史・時代
日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
大和型重装甲空母
ypaaaaaaa
歴史・時代
1937年10月にアメリカ海軍は日本海軍が”60000トンを超す巨大戦艦”を”4隻”建造しているという情報を掴んだ。海軍はすぐに対抗策を講じてサウスダコタ級戦艦に続いてアイオワ級戦艦を4隻建造することとした。そして1941年12月。日米は戦端を開いたが戦列に加わっていたのは巨大戦艦ではなく、”巨大空母”であった。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
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