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本編

5. 触れた

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 今日は森の山菜を採りに来ている。もう冬の入り口だ。街に行けない冬ごもりに備えて、秋の実りは今のうちにいただいておかなければならない。

 幸い今日は便利な荷物持ちがいる。

「これは?」

「それ、毒キノコ。食べると笑いが止まらなくなってそのうち肺が破れて死ぬ」

「………」

 男はそっと手を引いた。

「覚える気があるなら、教えてあげるけど」

「頼む」


 男は勤勉だった。そして覚えのいい手のかからない生徒だった。

 書き留めるものもないのに元来記憶力が優れているのか、一度教えたものは間違いなくその通りのやり方で採取して毒には触れない。

「どれくらい採ればいい?」

「あんた次第。冬を越すくらいなら保存できるから、献立とか考えなよ」

 初めて黒炭になったパンを差し出されたときには追い出してやろうと思ったが、男の料理の腕は物凄い勢いで伸びたから今では大抵任せている。私はほら、食えればいい主義だから味付けとか適当だし。パン捏ねるとか具沢山のスープかき混ぜるとか、疲れるし。

 その代わりに寝床とまだ治りきっていない傷の治療を提供してやってるんだから、これくらいこき使っても罰は当たらないはずだ。


 ……ん。

「どうした?」

 立ち止まった私に声をかけてくる男に「しっ」と指を立てて、目と耳を凝らす。

 遠くに見える大きくて立派な角を持つ鹿。ちょうどいい。久しぶりに鹿肉も食べたい。

 風下の方から回ってゆっくりゆっくり近づいて、腰袋から取り出した薬玉を投げる。鹿の足元に落ちて破裂した薬玉からは液体が飛び出し、鹿にかかった。

 キャイン! と悲鳴を上げた鹿は跳び上がったが脚をもつれさせて着地に失敗し、じたばたと起き上がれずにもがいている。

「何を投げた?」

「神経毒」

 少量触れただけで麻痺する代物だ。作るのに苦労した。手袋をしっかり嵌めて近づく私に男はドン引いているが知ったことじゃない。

 早く息を止めてやろうと屈んだが、ちょうど暴れた鹿の角が頬を掠めた。

「! おい」

 ぐいっと男に腕を引かれ、直後私がいたところを前脚の強力な蹴りが通った。

「……ありがとう」

「無茶をするな……怪我が」

 具合を確かめようとしているのか、男が頬を両手で挟んで上を向かせてくる。至近距離にあの夜空の青が見えて、私はぱちくりと瞬きをした。

 傷ができているのか男の指が頬をなぞる。好きにさせたまま表情を観察する。

 珍しく焦った顔だ。それがほっとしたように息を吐いた。

「どうしたの?」

「……何でもない。傷薬は持っていないのか」

「あるけど、これくらいに使うなんてもったいないよ」

 角にまでは毒が飛んでいなかったから、ただの擦り傷のはずだ。血もほぼ出ていない。

「本当に大丈夫なのか?」

「しつこいな」

 段々鬱陶しくなって腕を退ける。今のやり取りのうちに鹿は力尽きて弱く震えるだけになっていた。屈んで、薬草や山菜をまとめるために持っていた紐を首に回して絞める。

 よし。

「ねえ、これ担げる?」

 ここで捌くと獣が寄ってくるので持って帰りたい。振り向くと男は暗い表情をしていた。

 きょとんとしていると無言で近づいてきて鹿の前脚を掴み、担いだ。私が眺めているうちにさっさと歩いて行ってしまうので、何かしたかと首を傾げながら追いかけた。

 その日一日男の機嫌は悪かったが、鹿肉のステーキは大層美味だった。
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