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化生の群編

悪路王

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 アテナも千夏ちなつも、悪路王あくろおうの名を冠する鬼が口を利いたことで、少なからず驚いていた。朱月成磨あかつきせいまが変貌した鬼は多少は理知的な戦闘を展開していたとはいえ、終始叫び声や咆哮のみで、言葉らしいものはほとんど発しなかったからだ。
 だが、目の前にいる悪路王という鬼は、明確な言葉を口にした。物静かな口調からは、状況への焦りや緊張は感じ取れない。
 圧倒的な膂力と速度、そして知性と冷静さ。アテナと千夏は、いよいよこの悪路王が、紛れもない強敵、鬼神であると認めた。
「『お前』が……現れるまでは? それ……どういうこと、だ!」
 胴体を締め上げる右手に抵抗しながらも、千夏は悪路王の言葉への疑問をぶつけた。
「言ったとおりだ。『悪路王』という鬼はいなかった。俺が最初の『悪路王』になったんだ」
 滔々とうとうと語りながらも、悪路王は千夏を締め上げる力を強めていく。凶悪な握力に襲われ、ついに千夏の肋骨が音を鳴らした。
「ぐっ! それ……で……その『悪路王』様が……今になって……何しようっていうんだよ!」
 悪路王はその問いに対して、倒れている灯恵ともえを一瞥すると答えた。
「朱月灯恵の願いの成就」
「へぇ……そいつは……脳天に槍が刺さってもできるかぁ?」
「!?」
 千夏が言ったことの意味を悪路王は理解できなかったが、理解よりも速く身体が半歩後ろに退がった。
 その行動は悪路王にとって正解だった。でなくば、悪路王の右肩に深々と突き刺さった槍は、確実に頭蓋を貫いて顎にまで達していただろう。
 肋骨と内臓を締め上げられながら、千夏はアテナに目配せをしていた。力の拮抗状態でアテナは動けなかったが、千夏が悪路王に質問をぶつけている間は、悪路王も動きを止めていた。槍を構えていたアテナは、悪路王の注意が千夏に向いているうちに、槍を直情方向に投擲した。地上二百メートルまで届いた槍は、放物線を描きながら、重力による加速を伴って落ちてくる。
 狙うは悪路王の頭頂。たとえ鬼神でも、脳を破壊されては活動を止めるしかない。アテナの身体の一部とも言える槍は、寸分の狂いもなくその一点を貫くはずだった。たった半歩分を避けられたりしなければ。
「……」
 重力加速によって威力を高めた槍は、鋼以上の強固さを持つ悪路王の肉体に傷を穿った。
「おぉらっ!」
 右肩の損傷でわずかに力が緩み、その隙をついて千夏は右手による拘束から逃れた。
「シュッ!」
 そこへ間髪いれず、悪路王の顔面にアテナが渾身の右ストレートを叩き込んだ。
 悪路王の意識が完全に逸れていた隙を狙った一撃であったが、クリーンヒットしたにも関わらず、悪路王は呻き声さえ上げることはない。
 後ずさって間合いを取り、再び神盾を構え直すアテナ。その横には腹部を手で抑えた千夏が戻ってきていた。
「チナツ、無事ですか?」
「そんなわけない……だろ……もうちょっと早く……手を打ってくれよメガミ様」
「それだけ言えるなら無事ですね」
(とはいえ……)
 アテナは悪路王に目を向けた。右肩は槍で貫かれ、顔面には砲弾級の拳がめり込んだはずだが、当の悪路王は何ら意に返した様子がない。肉体的な損傷はあっても、精神的なダメージは皆無に等しい。
(このオニはエンケラドスと比べればずっと弱い。しかし、今の力が落ちた私では、少々厳しい)
 神話の時代から戦い続けてきたアテナから見ても、鬼神・悪路王が持つ実力は強大だった。
 単に倒すだけなら問題ない。七日七晩戦い続けることになっても、最後にはアテナが勝利できる。その確信はある。ただ問題なのは、
「……」
 悪路王への警戒を緩めないようにしながら、アテナは後ろをちらりと窺った。結城ゆうきはまだへたり込んだまま、1cmも動けていない。悪路王から受けた殺意のせいで、まだショック状態が続いていた。
 悪路王は最初に結城の命を奪おうとした。それは実力の低い者から排除しようとしたのではなく、結城が神霊たちを束ねている存在だと見抜いていたからだ。
 確実に葬るつもりだったからこそ、結城に強烈な殺気を浴びせてきた。只人にとっては高出力の電気を体に流されたようなものだったので、結城は一瞬でショック状態に陥ってしまった。
 この場での最善の策は完全に防御に徹しつつ、結城を連れて螺久道村らくどうむらから撤退すること。
 しかし、事ここに及んで悪路王が見逃すとは思えない。隙を見せれば結城だけでなく、手近な者から次々と血祭りに上げようとするだろう。それほどに悪路王の戦闘力と仮借なさは侮れないものがあった。
 ならば、戦って倒すしか道はないが、千夏のフルスイングも、アテナ渾身の右ストレートも効かず、高々度から落とした槍でようやく肉体を貫いたという有様だった。
 その上タフネスも相当に高い。肩を槍が貫いているはずが、悪路王はものともしていない。
「?」
 アテナはそこで疑問が浮かんだ。どれほど屈強な戦士であっても、傷を負えばそれに対する反応がある。たとえ痛みに慣れていたり、強い耐性があったとしても、身体のどこかしらに反射的な変調が現れるはずだった。どれだけ我慢して覆い隠しても、表情や四肢の末端にそれが見受けられることを、アテナは永い戦いの中でよく知っていた。
 だが、悪路王にはそういった反応や変化が微塵もない。
(まさか……)
「あなたは、痛みを感じていないのですか?」
 導き出された答えを確かめるべく、アテナは悪路王に質問をぶつけた。
 悪路王はのっそりとした動きで、盾越しのアテナに目を合わせた。
「『痛み』……か。俺にとって女房と娘を失くした以上に、痛いことなんてもうないんだ」
 悪路王の表情は、やはり苦痛による変化はなく、涼しいままだった。だが、口を開き始めたあたりから、アテナは悪路王の両目に深い苦痛の色が浮かんでいることに気付いた。
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