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竜の恩讐編
幕間 温泉の中の神々 その2
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「っ……っ……ふぅ」
「ほぉ、良い呑みっぷりだ。アテナ殿は葡萄酒をよく嗜んでいたが、日本酒もいける口であるな」
アテナの喉の通りが良いことを、建御雷神は素直に感激してした。
「ニホンシュが苦手なわけではありません。ただワインの方が飲み慣れているだけです。ニホンシュは果実の香りを発するものが特に美味です」
「おぉ、吟醸香についても知っているとは。日の本の神として我も嬉しいかぎり――――――っと」
アテナのお猪口に再び徳利を傾けようとしたところ、眼前に飛んできた二本の指を、建御雷神はさっと受け止めた。
「これはこれは。少々油断しただけでも我の両目は抉られるな」
「私の肌を見たのです。隙あらば目潰しが見舞われると心得て下さい」
一度目と二度目は受け止められても、アテナはまだ建御雷神の両目を諦てはいなかった。
「恐や恐や。これほど油断も隙も許されん湯浴みもあったものではないな」
建御雷神は言葉ではそうのたまいながら、口調や表情は実に愉快そうな雰囲気を出していた。
「本当に読めない神ですね。あなたは自身を危険に晒し、それを楽しんでいるように思える。オリュンポスの男神たちですら、まともな状態で私にこのような接触を図るものはいなかったというのに」
「『まともな状態では』、か。それはもしやヘファイストスという鍛冶神との一件についてであろうか?」
お猪口の酒を飲もうとしたアテナの動きが止まった。
「……誰も彼もがその一件を突いてくるのですね」
「失敬。悪気があってのことではない。ただ天照の狙いはそこなのでは、と我が思慮したに過ぎんのだ」
「思慮?」
話を続ける前に、建御雷神は自分のお猪口に一杯注ぎ、それを一口に呷った。
「天照との約定で、其方を打ち負かせた神と婚姻を結ぶことになっておるようだが、我の見立てでは其方を打ち負かせる神はごく一部を除いてそうはおるまい」
「……」
建御雷神の話を訝しく思いながらも、アテナはひとまず黙って聞くことにした。
「日の本の神は八百万あれど、存外、武神軍神と呼ばれる者でもその役柄は広い。戦のみに傾倒して入る者は稀。故に其方を打ち負かす戦力を持つ者も限られる。たとえ其方の力が全盛の頃より落ちているとしても」
建御雷神はちらりとアテナに目を向ける。しかし、アテナも今は聞く姿勢でいるため、神速の目潰しは飛んでこなかった。
「なれば、其方に勝てる者を見繕うより、其方から偶々神が生まれてしまったという、一種の『事故』が起こる方が易かろう。例えば――――――」
核心を突く前に、建御雷神はアテナのお猪口に酒を注いだ。
「其方の脚にいずれかの神の子胤がかかってしまう、という『事故』でもあれば」
「それをアマテラス様は望んでいると?」
お猪口に注がれ揺れる酒を見つめながら、アテナは声を低くして言った。
「この日の本の国も、現在は一つの岐路に立たされておる。これまでは守れたとしても、ここから再び守れるかは神でも知れぬ。天照もそれを見越し、一柱でも優秀な神を揃えておきたいのだろう」
「そのためにあの試合を茶番とし、私にヘファイストスとの間に起こった『事故』を再来させようと?」
「邪推するならば。だがあながち的外れでもなかろう。天照も漫然と最高神に就いているわけではない。この国と民を守るためならば、清濁含めたあらゆる手段を尽くすだろう。ただ……」
建御雷神は持っていたお猪口を盆に置くと、
「もしこの邪推が的を射ているなら……」
お猪口で埋まっているアテナの右手の手首を取り、
「他の神に越される前に我の子胤を、と思うてな」
少し強引に正対させた。
「如何かな? 戦いの女神アテナ」
アテナの目を真っ直ぐに見つめる建御雷神だが、アテナは何も答えることはなく、冷めた目で建御雷神を見つめ返していた。その目には殺気どころか怒気も込もっていない。
「……流石は女神アテナよ。我がこれ以上寄ろうものなら、か」
建御雷神は湯船に目線を落とし、アテナの左手の手刀が自身の腹部に向けられていることを確認した。
「あなたの方こそ、如何しますか?」
やはり冷めた目で見つめてくるアテナからは、一切の躊躇もなく身を貫くという冷気に似た気迫が発せられていた。
「ふっ、戯言だ」
それまでの真剣味が嘘のように、建御雷神は顔を綻ばせてアテナの手首を離した。
「いま述べ立てたことも、半ば我の当てずっぽうだ。気にすることもない」
「あなたの推論と、アマテラス様の思惑は異なると?」
「さて。まあ、そうであっても不可思議なこともない、といったところだ」
軽い口調で答えてはいても、天照の老獪な部分も知っている建御雷神としては、『あるいは本気であるかもしれない』という考えが留まっていた。
「真偽が知れないのはあなたも同じですね。先程の件、本気と捉えるところでした」
「候補として名乗りを上げるというなら、本気であるが?」
建御雷神のシリアスな物言いに、アテナは一瞬動きを止めたが、
「戯言が過ぎますね」
「ははは。なに、今はそれで良い」
すぐに微笑を浮かべてやり過ごし、建御雷神も上機嫌で大笑した。
「此度の其方はどうにも浮かない様子であるからな。こういう戯言でもって少しは気が紛れれば、と思うてのこと」
「その気遣いには感謝します。一応は」
「して、其方の懸念は未だ晴れず、か?」
「……ええ」
アテナは漠然とした不安を飲み干すように、お猪口の中身を空にした。
(父神ゼウスの全能の力と、母神メティスの知恵の力が告げています。何か良くないことが起こると……)
吟醸酒で喉は潤せても、胸の奥に蟠る不安までは洗い流すことは適わず、アテナは湯船に目を伏せた。
「ん?」
そこでそれまでは気付かなかった、温泉に茶柱のように浮かぶ筒があることに気付いた。そしてその筒は空気を吸っては吐いていた。
アテナはすかさず筒の下に手を突き入れ、温泉に潜伏していた者を引き出した。
「いや~、バレてもうたバレてもうた」
シュノーケルマスクを着けて温泉に潜っていたのは、いつものサングラスに麦わら帽子、アロハシャツ等を身に付けていないが、その声と訛りで明らかだった。
「恵比須兄者、いつからそこに?」
「いやな、アテナちゃんが温泉に入った後、建御雷神も入ってくトコ見たもんでやな。こりゃオモロイことになりそうやと」
「では全て見ていたのですね?」
「アテナちゃんにはええモン見せてもろたでぇ。眼福眼福――――――ぶわっちゃあああ!」
シュノーケルマスクのレンズを突き破り、アテナの神速の目潰しが炸裂すると、露天風呂に恵比須の叫び声がこだました。
「んぐ……んぐ……ぷっは~! スッキリ~!」
部屋の窓を開けて夜風に当たりつつ、須佐之男は瓶のリンゴジュースを飲み干した。
「は……はひっ……須佐之男さまスゴかった~」
「ちょ……ちょっと今回はハッスルし過ぎ……」
部屋の中央に敷かれた布団では、奇稲田と神大市が荒い呼吸を繰り返しながら横たわっていた。
「あ~、ごめん。なんかイイ解決策が思い浮かんだら調子よくなって」
「ぐぅ……もう……本会議の時間までってことだったのに……結局そのままこんな……」
「どうせ天照の言うことなんて変わんないって。それより二人とも、温泉行って汗流そう」
「か、神大市さま~……わたくし腰が抜けちゃって~」
「そのまま寝ておきなさい、奇稲田……私も起き上がれない……」
「ん~、それじゃあ―――」
布団から一歩も動くことができずにいた二人を、須佐之男はそれぞれ左右に抱え上げた。
「オレが二人とも連れてっちゃうぜ!」
「あっ! 待って、須佐之男! このままだと恥ずかしい!」
「ちょっ! せめて浴衣だけでも羽織らせなさい! ていうかあなたも何か羽織りなさい!」
「いいっていいって。オレたちのことなんてみんな神話レベルで知ってることだし」
「わたくしが恥ずかしいんです!」「私が恥ずかしいの!」
奇稲田と神大市の同時の訴えをよそに、須佐之男は愉快そうに廊下を歩いていく。
途中、
『ぶわっちゃあああ!』
「? 何だ? いまの声」
謎の叫び声が聞こえたが、それも特に気にせず露天風呂まで歩いていった。
「ほぉ、良い呑みっぷりだ。アテナ殿は葡萄酒をよく嗜んでいたが、日本酒もいける口であるな」
アテナの喉の通りが良いことを、建御雷神は素直に感激してした。
「ニホンシュが苦手なわけではありません。ただワインの方が飲み慣れているだけです。ニホンシュは果実の香りを発するものが特に美味です」
「おぉ、吟醸香についても知っているとは。日の本の神として我も嬉しいかぎり――――――っと」
アテナのお猪口に再び徳利を傾けようとしたところ、眼前に飛んできた二本の指を、建御雷神はさっと受け止めた。
「これはこれは。少々油断しただけでも我の両目は抉られるな」
「私の肌を見たのです。隙あらば目潰しが見舞われると心得て下さい」
一度目と二度目は受け止められても、アテナはまだ建御雷神の両目を諦てはいなかった。
「恐や恐や。これほど油断も隙も許されん湯浴みもあったものではないな」
建御雷神は言葉ではそうのたまいながら、口調や表情は実に愉快そうな雰囲気を出していた。
「本当に読めない神ですね。あなたは自身を危険に晒し、それを楽しんでいるように思える。オリュンポスの男神たちですら、まともな状態で私にこのような接触を図るものはいなかったというのに」
「『まともな状態では』、か。それはもしやヘファイストスという鍛冶神との一件についてであろうか?」
お猪口の酒を飲もうとしたアテナの動きが止まった。
「……誰も彼もがその一件を突いてくるのですね」
「失敬。悪気があってのことではない。ただ天照の狙いはそこなのでは、と我が思慮したに過ぎんのだ」
「思慮?」
話を続ける前に、建御雷神は自分のお猪口に一杯注ぎ、それを一口に呷った。
「天照との約定で、其方を打ち負かせた神と婚姻を結ぶことになっておるようだが、我の見立てでは其方を打ち負かせる神はごく一部を除いてそうはおるまい」
「……」
建御雷神の話を訝しく思いながらも、アテナはひとまず黙って聞くことにした。
「日の本の神は八百万あれど、存外、武神軍神と呼ばれる者でもその役柄は広い。戦のみに傾倒して入る者は稀。故に其方を打ち負かす戦力を持つ者も限られる。たとえ其方の力が全盛の頃より落ちているとしても」
建御雷神はちらりとアテナに目を向ける。しかし、アテナも今は聞く姿勢でいるため、神速の目潰しは飛んでこなかった。
「なれば、其方に勝てる者を見繕うより、其方から偶々神が生まれてしまったという、一種の『事故』が起こる方が易かろう。例えば――――――」
核心を突く前に、建御雷神はアテナのお猪口に酒を注いだ。
「其方の脚にいずれかの神の子胤がかかってしまう、という『事故』でもあれば」
「それをアマテラス様は望んでいると?」
お猪口に注がれ揺れる酒を見つめながら、アテナは声を低くして言った。
「この日の本の国も、現在は一つの岐路に立たされておる。これまでは守れたとしても、ここから再び守れるかは神でも知れぬ。天照もそれを見越し、一柱でも優秀な神を揃えておきたいのだろう」
「そのためにあの試合を茶番とし、私にヘファイストスとの間に起こった『事故』を再来させようと?」
「邪推するならば。だがあながち的外れでもなかろう。天照も漫然と最高神に就いているわけではない。この国と民を守るためならば、清濁含めたあらゆる手段を尽くすだろう。ただ……」
建御雷神は持っていたお猪口を盆に置くと、
「もしこの邪推が的を射ているなら……」
お猪口で埋まっているアテナの右手の手首を取り、
「他の神に越される前に我の子胤を、と思うてな」
少し強引に正対させた。
「如何かな? 戦いの女神アテナ」
アテナの目を真っ直ぐに見つめる建御雷神だが、アテナは何も答えることはなく、冷めた目で建御雷神を見つめ返していた。その目には殺気どころか怒気も込もっていない。
「……流石は女神アテナよ。我がこれ以上寄ろうものなら、か」
建御雷神は湯船に目線を落とし、アテナの左手の手刀が自身の腹部に向けられていることを確認した。
「あなたの方こそ、如何しますか?」
やはり冷めた目で見つめてくるアテナからは、一切の躊躇もなく身を貫くという冷気に似た気迫が発せられていた。
「ふっ、戯言だ」
それまでの真剣味が嘘のように、建御雷神は顔を綻ばせてアテナの手首を離した。
「いま述べ立てたことも、半ば我の当てずっぽうだ。気にすることもない」
「あなたの推論と、アマテラス様の思惑は異なると?」
「さて。まあ、そうであっても不可思議なこともない、といったところだ」
軽い口調で答えてはいても、天照の老獪な部分も知っている建御雷神としては、『あるいは本気であるかもしれない』という考えが留まっていた。
「真偽が知れないのはあなたも同じですね。先程の件、本気と捉えるところでした」
「候補として名乗りを上げるというなら、本気であるが?」
建御雷神のシリアスな物言いに、アテナは一瞬動きを止めたが、
「戯言が過ぎますね」
「ははは。なに、今はそれで良い」
すぐに微笑を浮かべてやり過ごし、建御雷神も上機嫌で大笑した。
「此度の其方はどうにも浮かない様子であるからな。こういう戯言でもって少しは気が紛れれば、と思うてのこと」
「その気遣いには感謝します。一応は」
「して、其方の懸念は未だ晴れず、か?」
「……ええ」
アテナは漠然とした不安を飲み干すように、お猪口の中身を空にした。
(父神ゼウスの全能の力と、母神メティスの知恵の力が告げています。何か良くないことが起こると……)
吟醸酒で喉は潤せても、胸の奥に蟠る不安までは洗い流すことは適わず、アテナは湯船に目を伏せた。
「ん?」
そこでそれまでは気付かなかった、温泉に茶柱のように浮かぶ筒があることに気付いた。そしてその筒は空気を吸っては吐いていた。
アテナはすかさず筒の下に手を突き入れ、温泉に潜伏していた者を引き出した。
「いや~、バレてもうたバレてもうた」
シュノーケルマスクを着けて温泉に潜っていたのは、いつものサングラスに麦わら帽子、アロハシャツ等を身に付けていないが、その声と訛りで明らかだった。
「恵比須兄者、いつからそこに?」
「いやな、アテナちゃんが温泉に入った後、建御雷神も入ってくトコ見たもんでやな。こりゃオモロイことになりそうやと」
「では全て見ていたのですね?」
「アテナちゃんにはええモン見せてもろたでぇ。眼福眼福――――――ぶわっちゃあああ!」
シュノーケルマスクのレンズを突き破り、アテナの神速の目潰しが炸裂すると、露天風呂に恵比須の叫び声がこだました。
「んぐ……んぐ……ぷっは~! スッキリ~!」
部屋の窓を開けて夜風に当たりつつ、須佐之男は瓶のリンゴジュースを飲み干した。
「は……はひっ……須佐之男さまスゴかった~」
「ちょ……ちょっと今回はハッスルし過ぎ……」
部屋の中央に敷かれた布団では、奇稲田と神大市が荒い呼吸を繰り返しながら横たわっていた。
「あ~、ごめん。なんかイイ解決策が思い浮かんだら調子よくなって」
「ぐぅ……もう……本会議の時間までってことだったのに……結局そのままこんな……」
「どうせ天照の言うことなんて変わんないって。それより二人とも、温泉行って汗流そう」
「か、神大市さま~……わたくし腰が抜けちゃって~」
「そのまま寝ておきなさい、奇稲田……私も起き上がれない……」
「ん~、それじゃあ―――」
布団から一歩も動くことができずにいた二人を、須佐之男はそれぞれ左右に抱え上げた。
「オレが二人とも連れてっちゃうぜ!」
「あっ! 待って、須佐之男! このままだと恥ずかしい!」
「ちょっ! せめて浴衣だけでも羽織らせなさい! ていうかあなたも何か羽織りなさい!」
「いいっていいって。オレたちのことなんてみんな神話レベルで知ってることだし」
「わたくしが恥ずかしいんです!」「私が恥ずかしいの!」
奇稲田と神大市の同時の訴えをよそに、須佐之男は愉快そうに廊下を歩いていく。
途中、
『ぶわっちゃあああ!』
「? 何だ? いまの声」
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