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第三話 「綺麗だ」
しおりを挟む「お前、夜ノ森冬花さんて覚えてるか?」
大学構内のとあるベンチに腰掛け、昼食を頬張りながら夏川幸太は僕に尋ねた。
「夜ノ森冬花って…あの?」
「お、他人に興味がないお前が覚えてるなんて珍しいな」
「一言多いんだよ」
夜ノ森冬花と言えば、音楽界隈では世界的といっても良いほどの有名人だった。彼女の奏でる音色は全てを包み込むほどの強さと冷徹さがあり、今も容易く脳裏によみがえる。忘れもしない。
「世界的なピアニストだったもんな。特にお前は覚えてて当然だよなあ」
「何でいきなり夜ノ森さんの話するんだよ?」
「いや、ここらしいんだよ」
「ここ?」
「夜ノ森さん。ここの大学らしいぜ」
「………は?」
信じられない、あの夜ノ森冬花が?確かにピアニストとしての活動を休止してから彼女に関して一切の音沙汰はなかった。けれどなぜこの大学に?
「何かの間違いじゃないのか?」
「音楽好きの知り合いから聞いた話だけど、間違いなく夜ノ森さんだったらしいぞ。第一あの容姿で見間違える人いないだろ」
「彼女がここに…」
「お前も音楽やってたからな、一応耳に入れとこうと思って。年齢からして学年は一個上だろうな」
僕はヴァイオリンを習っていた。今と違って前向きに。親の影響を受け色んな習い事をやらされたが、音楽だけは自分自信を認めてくれるものだと感じていた。大会で賞を取ったこともあった。
ある時一人の天才ピアニストのCDを聞いた。同じ年代であるにも関わらず、明確な意思をもったその強い音に僕は包み込まれ魅了された。それと同時にプレッシャーとなった。僕が弾くヴァイオリンから奏でられる音は不快なものに聞こえるようになった。もうやりたくない、と言葉を発するように。あのピアノの音色のようには演奏できない。何をやっても上手くいかない。目標なんて、いらない。そこからだ、僕がこんな感じになったのは。
大きな憧れとして、そしてトラウマとして彼女の音楽は僕の脳裏に焼き付いている。
「そういやお前、夜ノ森さんのピアノ聞いてたんだっけ、会いに行かないのか?」
「会いに行って…どうするんだよ」
「なんかあるだろ、めっちゃ好きです☆的な」
「おまえはちょっと黙ってろ」
「おいおい、冗談さ。………でも、憧れだったんだろ?」
「まぁね、トラウマでもあるけど」
「行けよ、会いに。話してみるもんだぞ、少なくともお前をこんなんにしちまった原因なんだから。いっそ謝ってもらったらどうだ?責任とってくださいっ!って。」
「お前なあ…、流石に迷惑すぎるだろ」
「まあ、俺はただ報告しただけ。そこからどうするかはお前に任せるよ。…あっ、もう次の講義始まるじゃないか!」
残った昼食を急いで食べ、僕たちは講義に向かった。もちろん、講義の内容など一切何も入ってこなかった。
その夜、僕は一枚のCDを棚から取り出した。
「持ってきてたんだな…」
一人暮らしをする際に実家に置いてきていたと思っていた。もう何年も聞いていない。プレーヤーのボタンを震えた手で丁寧に押して再生する。
薄暗い部屋のなかでその音は響く。ああ、この音色だ。しなやかで、冷徹で圧倒的。この感情は何なのだろう。絶対的な自信?それとも悲しみ?何を思って彼女は鍵盤に手をのせていたのだろうか。でも、僕にはただ一つの事実があるだけで十分だった。
「………綺麗だ」
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