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第18章 巫山の夢
女子校の噂
しおりを挟むお嬢様を学校に送り出したあと、メイドの恵美は、屋敷の外を掃除していた。
屋敷の門前の常に美しく整えておくのは、使用人たちの仕事だ。そしてそれは、寒い冬の日も変わらず。
(うー、寒い……!)
だが、北風が吹けば、それはメイド服の裾を揺らし、恵美は小さく縮こまる。
毎朝のこととはいえ、この仕事は、冬が一番堪える。だが、その時
「寒い中、大変だねぇ」
不意に、誰かに声をかけられた。
見ればそこには、70代くらいの老人がいて、朝の散歩中なのか、屋敷の周りで掃き掃除をしていた恵美に、おじいさんは、穏やかに声をかけてきた。
「あ、米田のおじいちゃん。おはようございます!」
「おはよう、恵美ちゃん。毎朝、ご苦労さま。恵美ちゃんが、いつも綺麗にしてくれるから、うちも助かってるよ」
「そんな。屋敷の周りを綺麗に保つのは、私たちの仕事ですから」
このおじいさんは、いわゆるご近所さん。
阿須加の屋敷は、とても広大だが、周りに民家が全くないわけではなく、ご近所付き合いも、それなりにあった。
といっても、それは使用人たちに限った話で、お嬢様は、近隣住人の顔すら分かっていないだろうが。
「そういえば、今年の門松は誰が作るんだい? 斎藤くんは、辞めてしまったのだろう?」
「あ……」
すると、世間話でもするように、おじいさんがそう言って、恵美はふと考える。
門松とは、正月に飾るあの門松のこと。そして、昨年までは、それを結月の運転手だった斎藤が作っていた。
屋敷の門の飾る立派な門松は、かなりの出来栄えで、毎年、近所の人々が眺めに来るほどの大作だった。
だが、今年は、わざわざ門松を作る必要はない。なぜなら、この屋敷で、お嬢様が正月を過ごすことはないから。
とはいえ、あくまでも、いつもと変わらない振る舞いをしなくてはならない恵美たちにとって、正月を迎える準備をするのは、ある意味、当然のことでもあった。
「大丈夫ですよ。門松は、執事の五十嵐さんが作ることになってます」
笑って答えれば、その後また、世間話に花が咲きはじめる。
「そうなのかい? さすがだなぁ、五十嵐くんは。本当に、なんでもできるんだねぇ。この前は、うちの家内の自転車を直してくれたみたいでね。やっぱり、阿須加家の使用人たちは、優秀な人が揃ってる」
「あはは、私は優秀じゃないですよ。ドジばっかですし」
「そんなことはないさ。この近辺に、いつも塵一つ落ちてないのは、恵美ちゃんが、丁寧に掃除しとくれてるおかげさね。ありがとうねぇ」
「いいえ、なんだか照れますけど、ありがとうございます。それより、早く帰らないと朝ドラはじまっちゃいますよ」
「あぁ、そうだった! じゃぁ、今年も立派な門松、楽しみにしてるね」
「はい。五十嵐さんに、伝えときます!」
おじいさんが、手を振りさっと行くと、恵美もヒラヒラと手を振りながら、その背を見送った。
うちの執事の凄いところは、お嬢様や使用人にだけでなく、近隣住民にも、優しいところだ。
お嬢様の送り迎えや、別館への呼び出しなど、なにかと車での移動が多い執事。だが、その間、困っている人を見かけると、すぐさま車から降り、颯爽と問題を解決した後、スマートに去って行くらしく、よく恵美が外を掃除していると、執事へのお礼の品を、住民たちが持ってくる。
そんなわけで、うちの品行方正かつ完璧な執事は、近隣住民からの信頼も厚い。
だからこそ、あの執事が、お嬢様との駆け落ちを企んでいるなんて、きっと気付く人は、誰一人としていないだろう。
(お正月かぁ……この屋敷をでたら、もう、あのおじいちゃんたちにも会えなくなるな)
寒空の下、屋敷を見上げながら、恵美は、小さくため息をついた。
直に、この屋敷は、空っぽになる。みんな、自分の夢を叶えるために、屋敷を出ていくから。
「いいなぁ、みんな夢が叶って……」
正直、羨ましいと思った。
夢を叶えられる人たちが……
だけど、自分はどうだろう。一向に叶う兆しのない夢に、恵美は暗然とていた。
「もう……諦めた方がいいのかな……?」
迫り来る期限に、焦りが募る。
実家には帰りたくない。
だけど、事実行くところがない。
ならば、そろそろ潮時なのかもしれない。
夢を叶えられるのは、ごく一部の選ばれた人間だけだ。
そして自分は、その選ばれた人間には、属さないのかもしれない。
なら、叶わない夢を、いつまでも追いかけているよりは、親の言うとおり、無難な人生を生きていくのがいいのかもしれない。
「やっぱり私、才能ないのかな……」
人の夢は──儚い。
それは、いつか散る時がくるから。
才能のない凡人は、どこかで諦めを知る。自分の限界を知り、夢を見ることをやめてしまう。
そして、それは、いつも突然やってくる。
まるで、心が
折れてしまったかのように──…
◇
◇
◇
(今日の恵美さん、元気なかったけど、大丈夫かしら?)
その後、学校についた結月は、執事と別れたあと、いつも通り教室に向かっていた。
執事が回復したのはいいが、その代わりというのはなんだが、恵美の様子が少しおかしかった。
(レオの仕事を、張り切って変わってくれていけど、無理をさせてしまったかしら?)
もし、疲れがでたなら、明日にでも休暇をあげなくては……そんなことを考えながら教室につけば、仲の良いご令嬢たちが、品良く結月に挨拶をしてくれた。
「ごきげんよう、阿須加さん!」
「ごきげんよう。今日は冷えますね」
「本当! こう寒いと、外に出るのも億劫だわ。しかも、今年は、例年より冷えるみたいだし、クリスマス頃には、雪が降るんじゃないかって話しよ」
「そうなんですか?」
「えぇ、でも雪が降って、ホワイトクリスマスになったら、素敵ね!」
すると、女子たちが、コロコロと話を変え、その後は、クリスマスの話で盛り上がりはじめた。
この時期は、なにかとパーティーが多く、どこの家のパーティーに招かれたとか、そこの息子がイケメンだったとか、よくそんな話で盛り上がるのだが……
「阿須加さんは、クリスマスのご予定は?」
不意に、女子の一人に話しかけられて、結月は、特に驚きもせず、平然と答える。
「私は、冬弥さんと、一緒に過ごす予定です」
「まぁ、もしかして、デート!?」
「冬弥さんて、阿須加さんの婚約者でしょ! 今、急成長中の餅津木家の御曹司の!」
「あ、知ってる! 私、前にパーティーで一度みかけたけど、冬弥さん、なかなかハンサムな方だったわ」
「まぁ! そんな素敵な方と結婚できるなんて、羨ましいわ!」
「………」
盛り上がる女子たちの話を、結月は笑みを崩さず聞いていた。
数日前、結月はクラスメイトに婚約者の話をした。正式にお付き合いしていることと、その仲は良好だということを付け加えて。
するとどうだろう。女子校内での噂は瞬く間に広まり、今や阿須加家の娘と餅津木家の息子が婚約した話は、周知の事実だ。
「ねぇ、冬弥さんとは、もう何度かデートをしているの?」
「いいえ。そう何度とは。冬弥さんは、お仕事で忙しい身なので」
「まぁ、でもそんな中、クリスマスに予定を空けておいてくださるなんて、愛されてのね!」
「……そうですね」
「でも、少し勿体ない気がするわ。いくら婚約者が出来たからって、進学まで諦めてしまうなんて! 先生もガッカリしてらしたわよ」
「あら、そうなのですか? でも、自分で決めたことなので。私、大学には行かず、彼を支えたいと思ってるんです」
「まぁ、なんて奥ゆかしい。阿須加さんは、きっと素敵な奥様になれるわね」
「ありがとう。そうなれるように努力します。なにより、冬弥さんは、私には勿体ないくらい素敵な方で。とても優しいし、私のことをなによりも、大切にして下さって……あんなにも素敵な方との縁談をもってきてくれた両親には、感謝しないといけませんね」
口からデマカセばかり発しながら、結月はにこりと笑った。
こんな所を執事に見られたら、またヤキモチを焼かれてしまうかもしれないが、今は、自分がなんの不満もない幸せなお嬢様だということを、みんなに知らしめておく必要があった。
「あ! ねぇ、ここだけの話、もうキスはご経験されたの?」
「へ?」
だが、その後、話は更にセキララなものに変わって、結月は、あからさまに頬を赤らめた。
なんとかポーカーフェイスを崩さずにきたのに、その瞬間、思い出してしまったからだ。
ことある事に執事から与えられた、あの甘く濃厚な口付けのことを……!
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