「無能」と捨てられた少女は、神の愛し子だった――。 凍てつく北の地で始まる、聖獣たちと冷徹公爵による「世界一過保護な」逆転生活。

秦江湖

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聖女の再来と、泥を啜る者

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 「氷晶花」がもたらした奇跡は、吹雪の夜を越える希望としてノースガル公国中に広まっていた。


 アデリーンが精霊と共に育て上げたその花から抽出された薬液は、これまで冬の間に多くの子供たちの命を奪ってきた「氷肺病(ひょうはいびょう)」を、わずか一晩で劇的に和らげる力を持っていたのだ。

「……アデリーン様、本当に、本当にありがとうございました。この子がまた笑えるようになるなんて、夢のようですわ」

 公爵城の医務室で、一人の母親がアデリーンの手を握りしめ、涙を流して感謝を告げていた。
 アデリーンは少し困ったように、けれど優しく微笑み返した。

「いいえ、お母様。私はただ、精霊たちが運んできてくれた種に、少しだけ声をかけただけです。この子の生命力が、お花を呼んだのですよ」

 彼女の謙虚な言葉は、かえって周囲で見守る医魔導師や騎士たちの心を打った。
 黄金の国ルミナリスでは「欠陥品」と蔑まれたその手が、今はノースガルの未来を繋いでいる。その事実に、アデリーン自身も、心の奥底にある凍てついた塊が少しずつ溶けていくのを感じていた。

 そんな奇跡の噂を嗅ぎつけ、東方の商業大国カスティアから「公式の通商使使節団」が到着したのは、その日の午後のことだった。

「ノースガル公爵閣下、そして麗しき公爵夫人候補、アデリーン様。この度は謁見の機会をいただき、光栄の至りに存じます」

 城の謁見の間。
 豪奢な毛皮を纏ったカスティアの豪商、ボルマンが深く頭を下げた。彼の目的は明白だ。アデリーンが生み出す「最高純度魔石」と、新たに発見された「氷晶花」の独占取引権である。
 ゼノスは玉座に深く腰掛け、冷徹なアイスブルーの瞳でボルマンを見下ろしていた。その隣には、ノースガルの至宝としてアデリーンが静かに座っている。

「……取引の話は、我が国の官吏と進めるがいい。ただし、アデリーンの安全と権利を脅かすような条項は、一文字たりとも認めん。……理解しているな?」

「もちろんでございます、閣下! 我が商会は常に、価値あるお方への敬意を忘れません」

 ボルマンが卑屈な笑みを浮かべ、後ろに控えていた数人の従者たちに合図を送った。
 贈り物として用意された東方の珍しい絹や香料が運び込まれる中、アデリーンは、荷物を運ぶ従者の中にいた「一人の女性」に目を留めた。

 ボロボロになった旅装、泥で汚れた靴。かつての輝きを失い、疲れ切った顔で俯いているその女性は、アデリーンにとって見覚えのある顔だった。

「……マリエッタ……様?」

 アデリーンの呟きに、その女性――マリエッタはびくりと肩を震わせ、顔を上げた。
 彼女はかつてルミナリス王国で、アデリーンと同じ夜会に出席していた伯爵令嬢だった。エリオット王子の取り巻きの一人ではあったが、決してアデリーンを直接貶めるようなことはせず、ただ遠くから困惑したように彼女を見守っていた、大人しい少女だったはずだ。

「あ……。ア、アデリーン……様……」

 マリエッタは、目の前の高貴で美しいアデリーンの姿に、羞恥と悲しみが混ざり合った表情を浮かべ、その場に崩れ落ちた。

「申し訳ありません……。こんな、こんな姿で……お目にかかるなんて……」

 聞けば、ルミナリス王国の急速な没落により、マリエッタの実家である伯爵家は、王子への過度な献上金が仇となって破産。マリエッタは生き残るために家を飛び出し、カスティアの商隊に「記録係兼雑用係」として雇われ、過酷な北方の旅に同行していたのだという。

 ボルマンが不機嫌そうに舌打ちをした。
「おい、無礼だぞ。公爵夫人の前で何を……」

「待ってください、ボルマン様」

 アデリーンは玉座から立ち上がり、マリエッタの元へ歩み寄った。
 ゼノスが鋭い視線を送るが、アデリーンはそれを手で制した。彼女は跪き、泥に汚れたマリエッタの手を、自らの温かな手で包み込んだ。

「マリエッタ様。……いいえ、マリエッタ。そんなに震えないで。あなたは、私を蔑んだことなど一度もなかった。……ルミナリスで、私が一人でいた時、あなたがそっとお菓子を分けてくれたこと、私は今でも覚えていますわ」

「……っ、そんな……。あんな小さなこと……」

 マリエッタの目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
 かつて自分が少しの情けをかけた少女が、今や一国の英雄となり、落ちぶれた自分に同じように手を差し伸べてくれている。

「ゼノス様。……彼女を、私の侍女候補として預かってもよろしいでしょうか? 彼女はルミナリスの教養もあり、何より、私の大切な友人なのです」

 アデリーンの提案に、謁見の間が静まり返った。
 ゼノスはしばらく黙ってアデリーンを見つめていたが、やがてふっと口元を緩めた。

「……お前がそこまで言うのなら、拒む理由はない。ボルマン、この女の身請け権は私が買い取る。異論はないな?」

「は、はい! もちろん、閣下のお心のままに!」

 マリエッタは呆然としながらも、アデリーンの胸の中に顔を埋めて泣き続けた。
 アデリーンは、かつての敵や味方という枠を超え、ただ「同じ故郷を失った者」として、彼女を優しく抱きしめた。

 その日の夜。
 清潔な服に着替え、食事を終えたマリエッタは、アデリーンの寝室で彼女と向き合っていた。

「……アデリーン様。本当に、ありがとうございます。……あんな国、もう戻りたくなんてありませんでした。でも、行く当てもなくて……」

「いいのよ、マリエッタ。ここで一緒に、新しい生活を始めましょう。ノースガルは寒いけれど、人はみんな温かいわ」

 マリエッタは深く頷くと、決意を秘めた表情でアデリーンを見つめた。

「アデリーン様……一つ、お伝えしなければならないことがあります。カスティアの商人がここへ来たのは、単なる取引のためだけではありません。彼らは、ルミナリスの兄上様たちの動きを非常に警戒しています」

「お兄様たちの……?」

「はい。マクシミリアン様たちは、すでに王都を完全に制圧しました。……そして、この公国に向けて、かつてない規模の『贈り物』を運んでいるという噂です。……それは、あなたを連れ戻すための軍勢ではなく、あなたを『女王』として戴くための、王国の全財産だとか……」

 アデリーンは息を呑んだ。
 兄たちの愛が、いよいよ国際問題を引き起こすほどの規模に膨れ上がっている。

 窓の外、雪原の向こう側には、遠くルミナリスから進軍してくる兄たちの「重すぎる愛」の影が、確実に近づいていた。
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