満たされぬ願いとエーゲ海の淑女

神月 一乃

文字の大きさ
13 / 20

リチャードの昔話

しおりを挟む

 りのはリチャードから受け取った英吉利行きの旅券を持て余していた。何故、己にこんなものまで寄越すのか。英吉利に行った後、己を売春宿とやらに売るつもりなのか、そんなことすら考えた。
「あれは厄介な男です」
 そう言ってきたのは、日本領事館に武官として詰めている男だった。一人は母親がりのと同郷のよしみで色々と話をするが、この男とはほとんど接点がない。
「厄介、ですか」
「あれは本気ですよ。諦めさせるのなら、半端な言葉はお止めになったほうがいい」
 しかも日本流の断り方ではなく、欧米流にきちんと伝えろと。
「私が一つだけ言えるのは、あなたが嫁いだ先と彼を一緒に考えてはいけない、それだけですよ」
 夫は優しい人ではあった。りのに対してではなく、嫁ぎ先に対してだ。異母弟を可愛がり、異母弟のためにならないことは一切しなかった。たとえ、あちらが毛嫌いしていようとも。
 そう、たとえりのが子供が欲しいと思っていても、一切手を出すことが無いように。


 今でも思い出す。叔父と叔母がまとめた見合い。とんとん話に結婚の話まで出た。会津出身を侮蔑する者もいる。そんなこともなかっため、誰一人気づかなかった。
――先に言っておくよ。私は君に手を出すつもりはない――
 それが祝言をあげた日の夜に言われたことだった。
――旦那様、子供は――
――君との間に子供が出来たら、跡目争いが勃発するじゃないか。そうしたら、烏谷商会は終わりだよ。一応、その旨継母はは異母弟おとうとには伝えておくから、石女呼ばわりはされないんじゃないかな。……あぁ、いくら欲求不満になっても、発散しないようにね。君が身籠ったら私の子供じゃないのは確実なんだからさ――
 屈辱で顔が赤くなるのが分かった。夫はそれだけ言うとあっという間に休んだ。

 声を殺して泣いた。従業員とはうまくやっていけたため、針の筵に座るということはなかった。それだけが救いの三年だった。


 リチャードはそんな夫とは違う。この武官はそう言いたいわけだ。

「……おとう、おかあ。おら、どうすんべ」
 気づいたら、会津訛りで呟いていた。


 帰国間近、りのは雅典あてねを一人で散策していた。
 リチャードと会ってから、一人で散策するということはなくなっていた。
『ミセス・リノ。このようなところで何を?』
 声をかけてきたのはマイルズだ。気づけば裏路地に入っていたようだった。
『散策を。考え事をしながら歩くものではないですね』
 場所が分からなくなっていた。
『おやおや。では俺が行くティーサロンへ行きましょう』
『マイルズ、遅い……リノ!?』
『わたくしが迷っているところを保護していただきましたの』
『ミセス・リノは目立つからね』
 着物姿だ。目立つに決まっている。

「リノ、ニホン、ドンナトコ、デスカ?」
 危うくお茶を吹きだすところだった。
『リチャード様、いつの間に』
『まだ簡単な挨拶だけだよ。リノと日本へ行けるよう頑張ってる』
 間もなく帰国するとは、さすがに言えない。

 何かに気づいたリチャードが、マイルズに耳打ちしてた。
『分かった。今日はお前のおごりだ。俺は領事館へ行く』
『うん。僕はリノを送ってから別荘に戻るから。
 その前に、もう少し僕はリノと話がしたい。リノに僕のことを知って欲しいと思うし、僕もリノのことをもっと知りたい』
『リチャード様……』
『僕はね、イギリスの北の方に領地を持っていた子爵家の長男として生まれた。いたって普通の家族だった。両親ともに僕に見向きもしなかった』
『それが、普通、なのですか?』
『実際育ててくれたのは乳母だからね。乳母の人選間違ったんじゃないかって思う位、嫌なやつだった。寄宿舎に入るようになって初めて自由だと思ったよ。そこでマイルズと会ったんだけどね』
 寄宿舎は殴られないだけ、ましだと思っていたという。そして、寄宿舎に入ってすぐに分かったのは、両親それぞれに「恋人」がいたことだという。
『そりゃ、僕に見向きもしないのも分かると思ったよ。それに、母親の実家が伯爵家だったし、財政も赤字だったってさ。だから仕方なかったというのが父の言い分さ』
 心底父親を毛嫌いしているというのが分かった。
『子供が僕しかいないからという理由で、父が恋人との間に産まれた弟を引き取ったのもこの時だ。母は……今実家にいるよ。屈辱だったらしいね。
 だからね、僕は家に未練も何もない。リノと一緒にいれるんだったら、家は捨てる』
『では、今こうしていらっしゃるのは?』
『貴族としての務めだよ。僕ら貴族は領地にいる者たちによって支えられている。それを守るのが貴族として当然だからね』
『でしたら、リチャード様はその方々のために、お仕事をなさっていらっしゃるのですね』
『……そういう捉え方をされると思っていなかったな。僕にとって義務だからさ。
 でも、僕のことを語ったのはリノのことを知りたかったから。同じように僕にリノのことを教えて欲しいんだ』
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

橘若頭と怖がり姫

真木
恋愛
八歳の希乃は、母を救うために極道・橘家の門を叩き、「大人になったら自分のすべてを差し出す」と約束する。 その言葉を受け取った橘家の若頭・司は、希乃を保護し、慈しみ、外界から遠ざけて育ててきた。 高校生になった希乃は、虚弱体質で寝込んでばかり。思いつめて、今まで養ってもらったお金を返そうと夜の街に向かうが、そこに司が現れて……。

ヤンデレ王子を闇落ちから救ったら愛執まみれの独占欲に囚われました

大江戸ウメコ
恋愛
幼い頃に精霊の祝福である未来視の力が開花し、「夫である第二王子ナハルドに殺される」という己の運命を知った伯爵令嬢ツィーラ。この悲惨な未来を変えるべく、ツィーラは彼を避けようとしたが、ひょんなことから婚約者に選ばれてしまった! ならば、ナハルドが将来闇落ちしないよう、側で彼を支えることを決意する。そんな努力の甲斐あって、ツィーラへの好意を隠さず伝えてくるほど、ナハルドとの関係は良好になった。だけど、彼の並々ならぬ執着心のすべてを、ツィーラはまだ知らなくて――

屋上の合鍵

守 秀斗
恋愛
夫と家庭内離婚状態の進藤理央。二十五才。ある日、満たされない肉体を職場のビルの地下倉庫で慰めていると、それを同僚の鈴木哲也に見られてしまうのだが……。

俺様上司に今宵も激しく求められる。

美凪ましろ
恋愛
 鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。  蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。  ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。 「おまえの顔、えっろい」  神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。  ――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。 **2026.01.02start~2026.01.17end**

処理中です...