牛と呼ばれた娘   苦しみながら痩せる本

Hiroko

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 そうね、まずは歩きなさい。

 山崎美香から帰ってきたメールには、まず初めにそう書かれていた。
 歩く? そんなんでいいの? そう思いながら私は続きを読んだ。

 学校からの帰りでいいわ。どこの駅で降りるのか知らないけれど、一つか二つ手前の駅で降りて、家に着くまでの三十分間を歩くの。それを二日に一度、私が帰るまでの一か月間続けて。
 いい? 三十分間よ。そして二日に一度。歩くスピードは普通でいい。早く歩いたり走っちゃだめよ? 毎日やっちゃだめ。三日に一度でもだめ。休憩を入れてもだめ。わかった?
 私は五月の終わりに帰ってくる。そしたらまた会いましょう。

 ウォーキングかあ。前に試して、でもあんまり効果が無くてやめちゃったんだよな。
 最初はどんな過酷なことをやらされるのかと思っていたので、少し気抜けした。毎日ランニング10㎞! とか、毎日朝晩、スクワット百回! とか、食事は一日におにぎり一個! とか言われるものだと思っていた。
 それが、ウォーキングかあ。いいけど、あまりに普通過ぎない?
 けど前にやった時は時間とか気にしてなかったな。それに張り切って、毎日学校の行きも帰りも歩いてた。それで脚が痛くなるばかりでほとんど効果なくてやめちゃったのに、本当にこんなんで痩せるのかなあ。美香さん、本当に私を痩せさせる気あるのかなあ。
 それに、五月の終わりに帰ってくるって、それまでどこかに行っているのだろうか。
 ぜんぜんわからない人だ。適当に言われてる気もするし、それならなんで最初からからんできたのだろうとも思うし。
 そんな取り留めもないことを考えながら、私は気が付くと布団をかぶって眠っていた。

 次の日、学校の帰り、とりあえず地下鉄を一駅手前で降りて、歩いて帰ることにした。地上に出ると、スマホのタイマーを三十分にセットして歩き出した。授業は昼過ぎで終わったのだけど、そのあと図書室でだらだら本を読んでいたので、帰るころには暗くなっていた。
 美香さんは、歩くスピードは普通でいいと言っていたので、のんびり歩くことにした。駅の周りはいくつか飲食店やコンビニがあって賑やかだったが、離れるにつれ人の気配もなくなり、街灯がいとうの数も減り、最後は暗い公園沿いの道を歩いた。スマホを見ると、あと十分も残っている。公園を過ぎるといつも降りる駅に着き、そこから家はすぐだったので、三十分間も歩くことができない。そう思い、明後日は二つ前の駅で降りようなんて考えながら、公園の周りを時間が来るまで歩くことにした。
 夜の公園は不気味だなあ、なんて考えながら、そこから出てきたランニング姿の中年のおじさんに驚き、澄んだ夜の空気に肌寒さを覚えながら公園を二周ほどしたところでタイマーが鳴った。
 たった三十分歩いただけなのに、太ももの筋肉が少し痛む。
 こんなんでいいのかなあなんて思いながら、私は誰もいないバス停のベンチに腰掛けた。
 バス停のあかりにともされ、スカートの下に覗く白くて太い脚を見る。
 自分の体なんて、普段はほとんど見ない。見ないようにしている。スカートはどんなに暑い日でもロングだ。でもこれからは、現実を見るようにしなきゃいけない。現実を、自分の目に突きつけるんだ。そう思い、私は誰もいないのを確認し、スカートを膝のあたりまで引き上げた。
 なんて醜いんだろう……。
 まるで白い丸太だ。
 白い丸太の先に、こないだ買ったばかりの花飾りのついたベージュのパンプスがくっついている。せっかく可愛いと思って買ったパンプスが、私に履かれるとなんて哀れなことか。
 私は大きくため息をついてスカートを戻した。
 これが私の体だなんて。
 いつしか恥ずかしいとも思わないようになっていた。
 こんなんで、いいわけないよね……。
 
 私は中学二年の時にお父さんをなくした。
 思えば、太りだしたのもその頃からだ。
 お母さんの話だと、幼い頃の私はお父さん子だったらしい。
 怒られたり転んだりして泣いてしまうと、すぐにお父さんのところに行って抱っこをしてもらっていたそうだ。そしてお父さんの胸に顔をうずめてしばらく泣くと、五分もしないうちに笑顔になって、また遊びだしていたそうだ。その頃のことは覚えていないけど、小学生、中学生になっても、お父さんが近くにいるとなんだか安心して嬉しい気分になっていたのは覚えている。
 そのお父さんが、中二の夏に癌で死んだ。半年前に宣告を受けて、それからあっという間だったらしい。お母さんはお父さんが亡くなるまで、そんな深刻な状況だと話してくれなかったので、私にとっては何一つ心の準備のできていない死だった。いや、お母さんにしても、けっきょく最後までお父さんが死ぬだなんてこと、受け入れることができなかったのかもしれない。だから口に出すのが怖かったのだ。お父さんの死の原因が癌だったことも、知らされたのは高校生になってからだった。
 お父さんの死後、お母さんはシングルマザーとして仕事に明け暮れた。それが私のためだったのか、お父さんを失ったことを忘れるためだったのかわからない。きっと両方だろう。それまでいつも学校から帰ると「おかえりなさい!」と言って出迎えてくれたお母さんの声が家からなくなった。家に帰り、玄関を開けると、暗く静かな廊下に向けて私は独りごとのように「ただいま」とつぶやいた。
 温かい食事は冷凍に変わり、「足りなかったらこれで買ってね」と封筒に入れられたお金がテーブルの上に置かれるようになった。
 私はいつもそのお金でお菓子とジュースを買い込み、自分の部屋でテレビを観ながら食事もとらずそれを食べるようになった。なんだかいろんなことを忘れたくて、考えたくなくて、家に帰ってから寝るまでずっと何かを食べ続けた。
 リビングやキッチンにはできるだけ行かないようにした。誰もいないその場所に行くと、お母さんのいない寂しさと、お父さんの面影で泣き崩れてしまうからだ。
 お母さんもきっと、辛かったんだろうな……。
 私は自分の悲しみと、想像するお母さんの悲しみの両方を胸に抱え、テレビでお笑いを観て大爆笑しながら、なぜか止まらない涙を抱えた枕に押し付けていた。
 お父さんはどうして、背の高さばかりを私に遺伝させて、あの前向きな明るさや強さや優しさをのこしてくれなかったのだろう。

 気が付くと、目の前にバスが止まっていて、私を待つように扉を開けていた。
 私の他には誰もいない。
 きっと私がベンチに座っていたからお客だと思って運転手が止めたのだろう。
 私はあわてて立ち上がり、バスのサイドミラーにむかって頭を下げるとその場を立ち去った。
 お父さんのことを思い出していたせいで、目に涙があふれていた。
 だめだ。
 自分を変えると決めたのに、また泣いてる。
 何もかも情けない。
 泣き顔も、太った体も、こんな性格も、なにもかもなにもかもなにもかも……。
 誰にも見られたくない。
 知らない人にも、友達にもお母さんにも天国のお父さんにも、誰にもだれにも見られたくない。
 そう思えば思うほど、目から涙があふれだし、嗚咽を漏らすまでになった。
 誰にも……。またそう思った瞬間、なぜか山崎美香の顔が心に浮かんだ。
 どうして、どうしてこんな時に美香さんの顔を思い出すのだろう。
 なぜだか、彼女になら泣き顔を見られてもいいような気がした。
 そう思うと、ふっと涙が止まった。
 なぜだか、体から力が抜けるように、気持ちが落ち着いた。
 なんでこんなふうになるんだろう。
 私は食堂で美香さんに見つめられた時の真剣な眼を思い出した。
 なんだかこの感覚、知っているような気がした。
 あ、そうか。と、私はそれを思い出して立ち止まった。
 きっとこれ、お父さんに抱きしめられた時の感覚なんだ。


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