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第八話
しおりを挟む「いらっしゃいませ!」
「おや、新しい売り子さんかね?」
「はい!よろしくお願いします!」
あれから、私は宿屋を出てパン屋の二階に移り住んだ。ワンDKの、シャワールームが付いた小さな部屋だ。手狭だけど必要な家具が揃っていて、トランクケースひとつで出て来た私としては大変ありがたかった。
「ライ麦パン一斤ちょうだい」
「はい、銅貨六枚になります!」
ショーケースから商品を取り出して紙袋に入れ、お客様から代金を受け取ると袋の品を渡した。
「ありがとうございました!ぜひまたお越しください!」
パン屋の朝は早い。日の出と共に起床して厨房に行くと、既にトーマさんがいて釜でパンを焼いている。朝起きて私の最初の仕事は、焼きたてのパンをショーケースに並べることだった。
「おはようございます、今日もよろしくお願いします!早速、焼けたパンを並べていきますね」
「ああ。左から順に頼む」
言われた通り、ショーケースの左側から順に商品を並べていく。種類は約十種類。その時期の仕入れによってメニューが変わるらしい。今は冬なので、保存のきくナッツやドライフルーツなどを中心に作られているようだった。
店頭に商品を並び終えると朝食の時間だ。焼きたてのパンに野菜スープやスクランブルエッグなど、シンプルだけど美味しい食事を毎日トーマさんは作ってくれる。二人掛け用の小さなテーブルで一緒に食事をとるのが習慣になりつつあった。
そして、食事が済むといよいよ開店だ。朝食を買いにくるお客さんが次々とやって来て店内はごった返す。顔馴染みのお客さんばかりのようで、誰もが最初レジにいる私を見て『おや?』とした顔をされ、その目線がお腹に行くと驚愕の表情でトーマさんの方を見るのだった。
「トーマ!おまっ……いつの間にっ!!」
「違う!新しく雇った会計係だ」
「え、それじゃあ……」
「後がつかえてるから買うもん買ったらさっさと出て行け」
お客さんに向かってそんな風に言ってしまって大丈夫なんだろうか。心配する私の横で、お客さん達は気分を害した様子もなくパンを買って帰って行く。もしかすると、これが平常通りの日常なのかも知れなかった。
朝から昼にかけては連日忙しかった。ずっと立ちっぱなしで辛そうな私を見て、トーマさんは私のためにハイスツールのような座面の高い椅子を作ってくれた。お陰でレジ打ちの時に座れるようになったので随分と楽になった。
昼の忙しさが落ち着いた頃、売れ残ったパンで遅めの昼食だ。最近は野菜をたっぷり入れたハムサンドウィッチにハマっている。その時間、トーマさんは厨房で午後用のパンを焼いている。お昼ご飯は食べない人のようだった。
ここから数ブロック先にある家から通っている彼は、仕込みの時間を入れると一体何時に寝て、何時に起きているのだろう。かなりの労働時間なのは確かだった。ちゃんと眠れているのか少し心配だ。
そんなことを考えながら、現在私は店番中だ。昼ラッシュの後は、客足が遠のいて手持ち無沙汰になりやすい。そんな時、ぼうっとしていると、どうしてもあの人のことを考えてしまう。
今頃屋敷では何が起きているんだろう。伯爵家の血を引いた子供が消えたのだ、きっとみんな血眼になって私を探しているだろう。ディランシーズ、あなたはこうなって後悔している?それともこれ幸いとアンジェリカと結婚の計画を立てている?今の私には関係のないことだけれど。
「……どうか見つかりませんように」
願うのはただそれだけだった。これから私は子供を生んで育てていかねばならない。過去の蟠りに囚われている暇はなかった。それにお金は必要だ。いくらか持っては来ているけれど、できればこのお金は使いたくなかった。
ここにきて働ける幸せを噛み締める。日本にいた頃、こんなに仕事に喜びを感たことなどなかった気がする。今更ながら、妊娠中に働く女性に尊敬の念を抱いた。
いよいよ来週、私は臨月に入る。トーマさんに休職のお願いをしなければならない。ギリギリまで働きたいけれど、まさか仕事中に産気づくわけにはいかないので仕方がない。
「そうだった、赤ちゃんに必要なものを買い揃えなくちゃ!」
今頃になって何も用意していなかったことに気がつく。生活の基盤を整えるのに精一杯で、大事なことをすっかり忘れてしまっていた。パン屋は明日お休みだ。いろいろ知っていそうなマルサさんに聞いてみよう。
人が行き交う外をぼんやりと眺めながら、私は赤ん坊に必要なものをリストアップしていった。
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