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第十話

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 彼の家は、パン屋から歩いて約十分ほどのところにある、赤い三角屋根が目印の可愛らしい住居だった。まさかこの家も彼が建てたんじゃ……と思ったけれど、聞いてみると流石にそれはなかった。

 玄関から中に入ってすぐのところに階段があり、左側にリビング、その奥がキッチンになっているようだった。彼は荷物を置くと、二階へと続く階段を上がって行く。私もそれに続いて二階に上がると、彼は二つあるドアのうちの一つを開けた。

 部屋に入ると、そこは真っ白な壁に動物の絵がペイントされた素敵な部屋だった。窓にはレースのカーテンが取り付けられていてとても可愛らしい。そして中央にはベビーベッドとゆり椅子が置かれている。これはどう見ても赤ちゃん部屋だった。

 「あの……ここは……?」
 「気に入らないか?」
 「いえ、そういう訳じゃなくて、この部屋は誰の部屋なのかなぁと」

 だって、ここまでしてもらう理由がない。彼は雇い主で私は彼の職場で働いている、つまり雇用関係でしかない。それなのにどうしてこんな親切にしてくれるんだろう……。私は何と言ったらいいのか分からず黙り込んでしまった。

 「俺は妻に子供を抱かせてやることが出来なかった」
 「え?」
 「結婚して十年、妻が妊娠することはなかった。そんなある日、彼女の妊娠が分かった。俺の子ではなく別の男との間にできた子供だった」
 「…………」

 奥さんは泣いて謝ったらしい。どうしても子供が欲しかったのだと。だからと言って不貞行為を働いても良いわけにはならない。話し合った結果、トーマさんは奥さんと離婚した。

 「俺は種無しだ」
 「そ、そんなの分からないじゃないですか!」
 「いや、俺の方に問題があった」

 なぜなら、離婚後元妻は三人の子供を産んだからだ。十年できずにいたのに、最初の子を産むと、元妻は立て続けに二人の子を産んだのだった。今は隣の町で幸せに暮らしているという。

 「でも、それが私を助ける理由にはならないと思うんですけど」
 「……俺はずっと家族が欲しかった。妻と別れて、ここまで一人で生きてきた。だがサチコと出会って、サチコとお腹の子を守りたいと思った。……愛してる。俺と結婚してくれないか」

 突然のプロポーズだった。私は何と応えたら良いのか分からず黙り込んでしまった。レースのカーテンが、ひらひらと微風そよかぜに揺れている。

 「……結婚は、出来ません。トーマさんには心から感謝しています。でも今は出産のことで頭がいっぱいで、愛とか結婚とかそういうことを考える余裕がなくて」

 それに私はまだディランシーズと結婚したままだ。貴族が離婚する場合、夫婦両者の署名が必要だ。落ち着いたら、こちらから離婚に同意する手紙を書こうと思っていたところだった。

 「ごめんなさい」
 「……いや、俺の方こそすまなかった。ただ俺の気持ちを知っておいて欲しかっただけで、サチコを困らせたいわけじゃないんだ」

 このまま彼に甘えれたらどんなに楽だろう。けれど、今は人生の正念場だと思っている。ここで逃げたら、一生逃げ続けることになりそうな気がした。

 「トーマさん、こんな素敵なお部屋をありがとうございます。本当に使わせて頂いて良いんですか?」
 「ああ、問題ない。子供が生まれたら、サチコはこの家に住むといい。俺はパン屋の二階で寝泊まりするから大丈夫だ」
 「えぇ!?トーマさんを向こうに追いやって、私がこの家に住むだなんてそんなこと出来ません!」

 どんどん話がおかしな方向へ向かって行っている気がする。これじゃあまるで私がトーマさんを家から追い出すようではないか。
 けれど私がいくら言っても彼は引いてくれず、結局トーマさんがパン屋の二階を使うのは寝る時だけで、それ以外の生活の拠点は自宅という形で決着がついた。

 ほとんど同居しているのと変わらないと思わなくもないが、やはり恋人でもない大人の男女が一つ屋根の下で寝るというのは不謹慎に思うので、これが今の私たちにはベストな形なんだろう。ましてや私はまだ結婚している身、ディランシーズとアンジェリカみたいに常識から逸脱したことをする人間にはなりたくなかった。



 「よっこいしょ」

 最近私がよく口にする言葉だ。まるでスイカが入っているような大きなお腹を抱えていると、動くたびに掛け声をかけないと勢いがつかないのだ。

 「ごちそうさまでした」

 夕食を頂いた後、勢いをつけて立ち上がると、使った食器をキッチンに持って行く。ただこれだけの動作にふぅふぅ息を荒げているのだから困ったものだ。それをトーマさんが心配そうな目で見ている。

 「おい、大丈夫か!?」
 「はい、何も問題ありませんよ」

 こんなやりとりが最近の私たちのデフォルトになりつつあった。彼は残りの食器を持って来てシンクに入れる。

 「あとは俺がやっておくからサチコは休んでいろ」
 「大丈夫ですって。私が洗いますから、トーマさんは拭いていってください」

 スポンジに洗剤をつけて洗っていく。その時だった。

 「あっ」

 ゴムが弾けるような音が聞こえた気がした。生暖かい水がチョロチョロと足を伝って床に水溜まりを作っていく。

 「お、おいっ!」
 「トーマさん、落ち着いて聞いてください。今、破水しました。えぇとつまり、赤ちゃんが産まれそうです」

 すると顔を真っ青にしたトーマさんが私を横抱きにして、靴も履かずに家を飛び出した。


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