侍女を抱いていたのは私の夫でした。さようなら、どうか探さないでください。

エトカ

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第十六話



 「光~ご飯できたから手を洗っておいで」
 「あ~い!」

 月日が経つのは早いもので、先日、光は三歳の誕生日を迎えた。ふっくらしたバラ色の頬、ぷっくりチェリーのような唇に、黒目がちな瞳。春の木漏れ日を集めたような黄金色の髪を持つ息子は、親バカな自覚はあるけれど、それを差し引いてもこの世のものとは思えない可愛さだった。

 「ただいま」
 「とーまかえってきた!とーま!」
 「ヒカル、ちゃんと良い子にしてたか?」
 「うん!」
 「お帰りなさい、トーマさん」

 走って玄関先まで迎えに行った息子を追うようにして、帰宅したトーマさんを出迎える。春とはいえ今夜は肌寒く、トーマさんからジャケットを受け取ると、それをハンガーにかけた。

 今夜はシチューだ。一緒に食べるパンはもちろん彼が焼いたもの。私たちは三人で食卓を囲むと、いただきますをして食べ始めた。

 「あ、光ったらまた人参だけけて。ちゃんと食べなさい」
 「やぁよ~、にんじんきらい」
 「ヒカル、そうやって好き嫌いしてると大きくなれないぞ?」
 「え~?じゃあたべる」

 最近、光は私の言うことを聞かない。反抗期だろうか、全てが『いや!』になる。けれどトーマさんの言うことは聞いてくれるので、手に負えない時は彼に光をお願いしていた。

 和やかな食事を終え、トーマさんはパン屋の二階へと帰っていく。
 家族のように過ごしている私たちだけれど、私とトーマさんは恋人同士ではない。なぜなら、ディランシーズとの離婚が未だ成立していないからだ。

 出産後、すぐに離婚の旨を手紙にしたためて同意書と一緒に彼宛に送った。けれど調べたところ、離婚は不成立となっていたのである。

 ……なぜ?私と別れてアンジェリカと結婚するのではなかったの?

 わからない。問いただしたい気持ちもある。けれどそれで何もかもが元通りになるわけではない。彼の側はそうだとしても、私の彼への想いは消えて無くなってしまったのだから。

 「……いつまで続くんだろ、こんな生活」

 私はトーマさんを愛している。妊娠している時からずっと支えてくれて、プロポーズまでしてくれた。それなのに彼の気持ちに応えて結婚できないのが歯痒い。

 どうしてディランシーズは別れてくれないんだろう。もう私の事なんてどうでもいいだろうに。
 そんなことを考えながら、トーマさんに光をお風呂に入れてもらい寝かしつけた。



 「眠ったか?」
 「うん、ぐっすり」
 「そうか。じゃあ俺は帰る。ちゃんと戸締まりして……」
 「待って。トーマさん……私、あの……」

 彼に触れたいし……触れられたい。いっぱいキスをして抱き合いたい。でもそれを私から言うことは出来なかった。彼は離婚が成立するまで待つと言ってくれている。けれど、それがいつになるのか不明瞭な未来に時々不安が押し寄せる。

 「サチコ。焦る必要はない」

 私の思っていることが彼にはお見通しのようだった。

 「俺は今すごく幸せだ。サチコがいてヒカルがいて……、十分満たされている。そりゃ欲を言えばサチコを抱きたい。だがきっとサチコは後悔する」

 彼の言う通りだった。浮気が原因でディランシーズの元を去ったのに、私が今トーマさんと寝てしまったら同罪になってしまう。唇を噛んで下を向く私を、トーマさんはそっと抱き寄せた。

 「トーマさん、愛してる」
 「ああ、知ってる」

 彼らしい応えだなと思った。決して“俺も愛してるよ”とは言ってくれない。けれど私は知っている、彼が私を愛していることを。



 そんなある日、ディランシーズの屋敷で働く執事が私たちの前に現れた。

 カランカラン

 「いらっしゃいま……、!!」

 いつもの様にパン屋で働いている時だった。見知った顔の男性は、店に入ると私に向かって深々と頭を下げた。

 「奥様、お久しぶりで御座います」

 ついに見つかってしまった。そう思った。でもなぜ彼一人なのか、私と息子を捉えたいのなら、護衛なりディランシーズ本人が来ているはずだ。

 私は、随分と老け込んでしまった彼を見て、屋敷で何かあったのだと感じとった。

 「突然に申し訳ございません。少しお話をしたいのですが、お時間を頂けないでしょうか」

 私は厨房から出てきたトーマさんを見た。彼は燕尾服を着た男性を見るとピクリと反応し、そして私を見て頷いた。幸い光は二階でお昼寝中だ。何かあればトーマさんが守ってくれるだろう。

 「わかりました」

 私が彼を連れて店を出ると、店の前には一台の立派な馬車が停まっていた。見慣れた家紋が目に入る。それに乗って街を進む。久しぶりに乗った貴族の馬車は、やはりというか全てが違った。懐かしく思う反面、自分がいかに平民の暮らしに慣れてしまったのかを思い知る。

 「どうぞ」

 馬車を降り、私と光が住むトーマさんの家に上がってもらった。ダイニングテーブルの椅子に座ってもらい、お茶を出す。町で買った茶葉なので味も風味も落ちるだろうに、彼は何も言わずそれを口にした。

 「まず、こちらをお返し致します」

 そう言って出されたのは、以前私がしたためた離婚に同意する手紙だった。これをなぜ彼が?私は差し出された手紙を受け取らず、じっと彼を見つめた。

 「私はあなたの居場所を随分前から知っておりました。ですが旦那様には知らせておりません。理由がどうあれ、奥様が妊娠中に不貞を働くなど愚夫の極み。貴方には幸せになる権利が有ります」

 とても驚いた。まさかディランシーズの執事が私の側に付いてくれるとは思わなかった。離婚の手紙はタイミングを見てディランシーズに見せる予定だったらしい。けれど状況が変わった。

 「現在、旦那様は病に伏せっておられます」

 病状は悪化の一途を辿っており、回復の見込みはないとのこと。余命一年、もって一年半と宣告されたという残酷なものだった。


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