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しおりを挟む十年ほど前。末端の伯爵家である私の生家は、困窮していた。
原因は、簡単に言えば時代の波に乗れなかったこと。急速な交通手段の発達により、外国から安い農作物が流入、国内の農業は不況に見舞われた。領主たちは、土地の活用法や収支の見直しを強いられる。だが、これがうまくいかなかったのだ。
当主であった祖父、両親、娘の私も総出で改革に取り組み、数年かけてどうにか立て直すことができた。けれど、気づけば私は二十歳を過ぎ。結婚を望むなら焦るべき年齢になっていた。
私自身は正直、結婚しなくてもいいかな、と思っていた。領地は田舎だけど自然豊かで気に入っていたし、当主の座は弟が継ぐ予定。引き続き経営を手伝って、オールドミスとして置いてもらおう、そんなふうに考えていた。
だから、ある日父が持ち帰ってきた縁談は、寝耳に水とでもいうものだった。
「悪い話でないことは確かだが……」
どうやら相手は訳ありだ。父の口ぶりが釈然としないのは、そのためらしい。
ヴィンフリート・フォン・ハールツァウ、年齢は私より六歳上。伯爵家、と言っても我が家とはまったく格が違う、有力貴族家の次男。王家に重用されている文官だが、語学の才を買われ、近年は主に外交任務に当たっている。
彼の任地である隣国は、独身者より既婚者を信用する文化がある。つまり、職務に「都合の良い」妻を求めていると。
「彼は任地に行ってばかりで、ほとんど家に帰らないそうだ。お前が寂しい思いをするかもしれない。それと縁談は王家の勧めであって、彼自身は乗り気じゃない。そんな結婚でお前が幸せになれるとは……」
「ちょっと待ってお父様、王家の勧めだなんて、断れるわけないじゃない」
「それはそうなんだが……」
父は渋っていたが、縁談の条件は破格だった。結婚適齢期ギリギリの娘を引き受けてくれる、持参金は不要、必要なら王家からの援助もあり。潰れかけていた我が家にとっては救世主だ。
私は彼の写真も見ないまま、承諾するよう父を説き伏せた。
❆
――冬の朝の空気みたいな人だ。それが、彼に初めて会ったとき、私が抱いた印象だった。
落ち着いた色味の金髪は癖がなく、顔の輪郭に沿う長さ。空より淡い、澄んだ青の瞳。形のよい薄い唇は、きりりと結ばれている。
上背があり、身体の芯がすっと通った立ち姿。細身だけど静かな存在感がある。透きとおった冷たさを纏った人、そんなふうに感じた。
「ヴィンフリートだ。よろしく」
低音の弦楽器に似た、深みのある響き。外交任務に就いているわりに、無口で無愛想だなとも思う。
彼が帰国する短い冬季休暇のうちに、ささやかな結婚式を挙げた。結婚後の新居は一応、王都にある彼の屋敷ということになる。「一応」というのは、元々主人がほとんど帰らない家なので、私も実家で過ごすなり好きにしていいとのこと。
少なくとも、最低限の屋敷の管理は私がする、彼が戻る間は生活を共にする、という話をして。挙式後、私たちは王都の家へと帰った。
そんな結婚だったから初夜もないかと思ったけれど、予想は意外にも外れた。彼が望むのなら、私に拒む理由はなかった。
ただ、なんというか……寝室に来た彼を迎えたとき、王宮勤めの役人がやって来たかにも思えたのだ。まどろっこしい会話はなしに、彼は淡々と夫婦の務めをこなした。
彼の所作はどんなときも美しく、丁寧。食卓でのカトラリーの扱いも、契約書にペンを走らせる仕草も。無意識にしていそうだけれど、触れるものを大切に扱う手だなと、そう思う。
だから、かもしれない。愛のない初夜にもかかわらず、不思議と嫌でなかったのは。表情がどれほど堅くぶっきらぼうでも、彼の手は終始私を大切にしてくれた。
彼にとっては単なる義務か、気まぐれだったかもしれないけれど。
その後、彼は王都での仕事を済ませて、結婚式から一週間で任地へと戻って行った。
しばらくして、私は妊娠に気づいた。まさかあの一夜で授かるとは思ってもみなかった。しかし無事に産まれてみれば、これ以上尊い存在はこの世にない、そう心から思った。
ふにゃりと柔らかく、温かい。ちょっとしたことで壊れてしまいそうな儚さなのに、母の指を握るミニチュアの手は、驚くほど力強い。
出産が予定より早まったこともあり、ヴィンフリートとの対面は、産まれて三日後だった。恐る恐る我が子を抱く彼は、めずらしく心許なさそうで。でも、喜んではくれたのだと思う。
「こんな幸福を授けてくれてありがとう」と伝えたら、彼はしばし目を見張ったあと、とても優しく微笑んだ。それから、薄青の瞳を僅かに伏せて――
「あの夜に君を抱いたこと、後悔していた。だが……、よかった」
ふっと気がゆるんだように、彼がこぼした言葉。
天使とも見まごう我が子を授かった私は、この上なく幸せだった。だから、前半は聞かなかったことにした。「よかった」と彼も思ってくれていること、それがすべてだった。
そう。だから、何の問題もなかった。私はこの結婚に満足していた。
息子との穏やかな生活。愛はなくとも理解はある夫。初夜を除き夫婦関係がないことなど、問題とすら思わなかったのに。
「……困ったわ」
きらきらと輝く愛息子の瞳を思い出し、私はひとり途方に暮れた。
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