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しおりを挟む「俺に愛人はいない。なぜ急にそんなことを?」
「……昨日渡した手紙、すごく、嬉しそうだったから」
「手紙? ああ、あれか」
彼は机の抽斗を開けて、桃色の封筒を取り出した。わざわざ中身を出して見せてくれる。
他人の手紙を見るのは気が引けると思いながらも目をやると、色とりどりの鉛筆で描かれた子供らしい絵と、拙くも一生懸命さが伝わる文字が並んでいた。
「向こうで長年世話になっている家の子だ。仕事付き合いでホームパーティーに出たら、懐かれた。宛名は母親が書いたのだろうが、差出人の“マリアンヌ”というのは五歳」
「…………」
頬が熱い。そろりと手紙から顔を上げると、見慣れた薄青色の瞳と目が合った。いや、よく似ているけれど、私が毎日見ているのはこの瞳ではない。
「それよりも、驚いた。いったい何から聞けばいいのか……君が深刻な顔で来るから、離婚でも切り出されるかと思った」
「そんなこと、私は全然……。でも、あなたがそう望むなら、私は引き止められないけど」
「だからどうしてそんなふうに」
「だって、“後悔”しているんでしょう? エーミルが産まれたとき、あなたは私を抱いたことを後悔したって言ったから……」
ぱち、ぱち、と。長い金色の睫毛を連れて、瞬きが二度繰り返された。
それから彼は口を開いて、何も言わずに閉じて。もう一度開かれたときに出た言葉は、「すまない」だった。
「君が思っているような意味じゃない。俺はこの結婚を白い結婚にすべきだったと、後から思った。仕事ばかりの夫に、君が愛想を尽かしたときのために。それで……反省していたんだ」
「……嫌われていると思っていたわ」
「そんなことない。俺のほうこそ」
「いいえ、私は――」
私は……? 所在なく宙に浮かんだ言葉の続きを、ふと探した。
彼に感謝している。彼との結婚は、潰れかけた実家を救うような縁談だった。思いがけず最愛の存在を授かりもした。穏やかな日々の生活があるのも、全部彼のおかげ。
でも、たぶん、そういう実利的なことだけじゃなくて。きっと私は。
「私は……あなたのことが、好きだと思う。あなたとの子供がもうひとり欲しいと思うくらいには」
「……それは、エーミルのためなんだろう?」
「それは、そうなんだけど」
沈黙が落ちた。とっとっ、と、心臓は早鐘を打ったままだけれど、悪くないと思うのはなぜだろう。
「……俺は、君の文字が好きだ」
「え?」
「手紙を送ってくれるだろう。ひとつひとつが正面を向いているような、綺麗で読みやすい字だ」
不在がちの彼に向けて、私は月に一度手紙を送っている。屋敷の管理に関することや、エーミルの成長について。夫への手紙というような色気はなく、定期報告に近いもの。
なのに、その筆跡と、内容も。読み手のことを考えて書かれた丁寧さが好ましいのだと、彼は力説する。部下を褒める上司のようなことを真剣な表情で言うので、笑ってしまった。でも彼らしいとも思う。
そうして他愛ない会話が続いた。座りもせず、お茶を淹れたりもせず、二人して立ったまま。だけどそんなこと、思いつく暇もなかった。なんでもないやり取りが楽しくて、くすぐったくて。
こんな時間を過ごせる相手だったなんて、気がつかなかった。あり得ないことに、当初の目的さえ忘れかけていた気がする。
しばらくして、不意にその流れが途切れたとき。彼がぽつりと呟いた。
「……帰したくないな」
彼はいつもそういう大事な想いを、ぼそっとこぼすように言う。
だけどもう、「聞かなかったこと」にはしない。「満足」という言葉を免罪符に、向き合うことを避けてきたのは私のほうかもしれないと思う。
「帰りたくないわ」
彼は、澄んだ色の瞳を僅かに揺らしてから、そっと頷いた。そして自身の腕を胸の前に上げると、おもむろにシャツのカフスボタンを外す。
すらりと長い五本の指は、爪の先まで綺麗だ。骨ばった硬い質感と包み込むような大きさは、やはり男性らしい。
その仕草に魅入られて、思わず息を呑んだ。急速に、身体が熱を帯びていくのを感じる。
そう、私はこの手の温もりも、不器用な優しさも知っている。
五年分の時間が、ふたりの間に柔らかくほどけて、結び直されていくような夜だった。
初めてではないというのに、なんだかたまらなく恥ずかしかった。
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