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第2話(2)
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「これはこれはお久しぶりでございます、殿下」
「もう殿下じゃない。こちらこそ久しくお目にかかっておりませんで、ご無礼を何卒ご容赦下さい」
「お止め下さい気色悪い」
「気色悪いとはご挨拶だな。せっかく両陛下向けの言葉遣いを持ち出したのに」
「貴方に謙(へりくだ)られる日が来るとは思っていませんでしたよ。いやご相談を受けた時点からは思っていたかな」
王族に対するとはとても思われないぞんざいな口を効いたM公爵は、アレクサンドラに対しては打って変わって恭しく、
「ようこそ小宅へお越し下さいました、アレクサンドラ・イワーノヴナ」
とボウ・アンド・スクレープの儀礼を取った。
アレクサンドラが丁寧なカーテシーを返すと、後ろからニコライが割って入った。
「ちょっと待ちたまえ。彼女は私の妻として伴ったのだからそのように呼ぶべきじゃないか」」
M公爵は顎に手を当て悪びれずに応じる。
「まあ確かに公爵夫人と申し上げるべきなのだろうが、ご自身もいずれオルロワ女伯爵になられるし、そうなったらどちらが優先されるものかなと悩んだ結果、当たり障りのない呼称に落ち着いたのさ」
「何だその屁理屈は。だとしても今悩むのはおかしいだろう、ザハーリン公爵夫人と呼べ」
「すまない、君の浮かれ具合が面白くてね」
ニコライが一番と言うのももっともだと思いながら、王子時代にもこれと同じ調子で付き合っていたのなら、公爵家の子息とはいえ遠慮を大胆に踏み越えたものだとアレクサンドラは扇の陰で呆れると同時に、ニコライにこのような知己がいることを喜ばしく思い、そういえば自分にはこのような相手がいるだろうかと思い至って、密かに眉を寄せた。
客間に通されて、歓談する相手はM公爵1人だった。
M公爵はごく若年で爵位を継いだということが大きかったが、適齢期に入った今も、非常に珍しいことにまだ夫人を迎えていなかった。
愛人は複数いると言われていたが、何故独身を貫いているのかについては、皇女に野心を持っているのではというのが専らの噂だった。
皇女とは、要するにニコライの妹ということになるが、すぐ下の妹である第一王女タチアナは、ニコライとは8歳離れている。
その程度の差の夫婦は世にいくらでも例があり、第一王女が社交界デビュー、王女ゆえデビュタントには出席しないが、その年齢に到る約2年後に合わせて降嫁を狙い、ニコライも知らない水面下で運動をしているらしかった。
ニコライはM公爵には何も尋ねなかったし、彼が自ずから打ち明けてくることもなかったが、ニコライ個人としては、家柄は申し分なし、自らの親友として人柄も問題はなく、義弟に迎えることは吝(やぶさ)かではなかったが、タチアナのことを、もっと年の近い他公爵家も狙っていないとは限らないし、両陛下に国政上の特別なご意思があれば茨の道となるだろうという懸念は持っていた。
左手で持ち上げたソーサーにカップを戻しながら、M公爵はにやにやと「で、どうだい。夫婦仲は順調かい」と尋ねた。
同じ公爵位になったことで、本格的に対等な口調で話すことにしたらしい。
ニコライは、その点は構わないがしかし、と抗議した。
「もっと上品な聞き方をしてくれよ。私1人ならともかく、サーシャもいるんだから」
「おっとこれは失敬。で、実際のところどうだ、王家から一段階降りた生活は」
「……まあいいか。作法的なところはもちろん違うが、新しいね。ただ、今は忙しい。挨拶回りは公爵家だけと言っても数があるし、先方の都合があるからね」
「おや、侯爵(そうろうしゃく)以下には行かないのか」
「サーシャは公証長挨拶で回らなければならないが、私は免除された。同行を申し出たんだが、義父上から丁重に断られてしまってね」
「当然だな、元王子が一緒に行ったのでは威圧にしかならないし。あんな事件があった後なのだから、卑下はしないが下手には出る微妙なラインを縫っていかなけりゃならない」
「下手に出る必要があるか?犯人は皆捕まったし、被害者への補償はオルロフで肩代わりした」
「事件の舞台は公証だったんだ、そんなに簡単に色眼鏡は外れないさ。しかも公証は制度の信用性が非常に大切だ、一度付いてしまった傷を埋めるのは容易なことじゃない。嫌味の1つや2つや3つは覚悟しないとならない」
「おい、サーシャを虐めるんじゃない」
「虐めていないさ、夫人は重々承知しているよ。ねえ夫人」
水を向けられたアレクサンドラは、控えめにだが「ええ」と頷いた。
公証長かつ伯爵令嬢、今では公爵夫人の称号も加わり、もし巻き戻る前の高慢さをまだ有していたなら、神妙を強いられるのを屈辱として、格上の家を訪れようとも堂々たる挨拶を述べ、皮肉には皮肉で返し、あるいは仲の良くない家は慣習を破って訪問しないなどを演じていただろう。
アレクサンドラは、そんな現実に至らず良かったと安堵しながらも、もしあの頃のままだったら逆に気楽だったかもしれないと、貴族詣がまだまだ続いていくことを思って溜め息が出た。
彼女の気質としては、巻き戻りの前後で変わらず、必要のない謙(へりくだ)りは決して好まなかったが、公証の信用を取り戻した上で、老夫婦との約束を果たすためには、我を折り、不愉快に耐えるのも已む無しと考えていた。
M公爵が、剽軽(ひょうきん)な表情を貴族的なものに正し、アレクサンドラに対して言葉を続けた。
「公証長のお勤めはいかがですか。元々補佐をされておられましたし、職務自体は慣れていらっしゃると思いますが」
「延長上にはございますが、やはり補佐と長とでは心持ちが変わりました。片づけることもございますし、新しい試みも進めておりますので気ぜわしゅうございます」
M公爵は深く頷いて、
「私が申し上げるまでもないと思いますが、くれぐれも油断なさらぬように。面白く思っていない輩は、何かにつけて挙げ足を取って来ますから」
「ご忠告痛み入ります」
「公証については夫人やある程度制御できましょうが、例えば、非常に下世話ではありますがお子はまだか、というような攻め方をしてくる輩も出て来るでしょうから」
「子?私達は結婚したばかりだぞ」
訝し気な声を上げたニコライに、「今後の話だよ。もし相当の時間が経っても懐妊の気配がないのなら、殿下にお子を生んで差し上げられないなんて、という意地の悪い陰口を叩く奴が出て来るだろうからね。公証は2代続けて、後継ぎ問題で揉めるのかと嘲笑う奴もかな」とM公爵は椅子の背に凭れながら答えた。
ニコライは眉を吊り上げて、「そんな奴は絶対に許しておけない」と息巻いたが、M公爵は「表立っては言わないんだよ、君の耳には入らないように、かつ夫人には届くようなやり方を取るのさ。帝都ではよくあることだ、特に最高の方々の周辺ではね」とそっけなかった。
「……母上のか」
「さあね。君なら心当たりがあるんじゃないのかい」
そのような誹りは頭になかったアレクサンドラは非常に驚いたが、確かにそういう事態もあり得ると思い直した。
子は授かりものだと言われていながら、長く子ができない家は、貴族であっても庶民であっても、当該夫婦はもちろん、先祖からの因果応報だという非知性的な陰口を叩かれるものだった。
アレクサンドラはもしそういう声が聞こえても、当面は気にするつもりはなかったが、父母の例があるため、後継ぎ問題での苦労は避けたいところだったし、そうやって悪い印象を持たれていくことで公証に影響が出て来るのであれば、より本意ではなかった。
ただ、オルロフ家を何としても維持する強い意思はあるものの、公証長としてまだ何の道筋も付けていない状況で、今懐妊したらそれはそれで困ることになるとは、密かに思うところだった。
機敏には動けなくなり、無理が効かなくなるだろう。
一刻も早く公証の課題に着手し、解決を急ぐ必要があると、アレクサンドラが決意を新たにしながらも、子をなすことについて、自らの都合により時期の良し悪しを思うのをはしたなく感じた。
それと同時に、これから自らが子を持ち親になることを不思議なことだと思っていると、ニコライが、
「もしそんな暴言を聞いたらすぐに教えてくれ」
とM公爵に強く言い、次にアレクサンドラに眼差しを巡らせて
「サーシャも。私に決して黙っていてはいけないよ。ね?」
とまるで子供を諭すように言うので、アレクサンドラは微笑みを禁じ得ず、M公爵はシニカルさのない大笑いを始めた。
「もう殿下じゃない。こちらこそ久しくお目にかかっておりませんで、ご無礼を何卒ご容赦下さい」
「お止め下さい気色悪い」
「気色悪いとはご挨拶だな。せっかく両陛下向けの言葉遣いを持ち出したのに」
「貴方に謙(へりくだ)られる日が来るとは思っていませんでしたよ。いやご相談を受けた時点からは思っていたかな」
王族に対するとはとても思われないぞんざいな口を効いたM公爵は、アレクサンドラに対しては打って変わって恭しく、
「ようこそ小宅へお越し下さいました、アレクサンドラ・イワーノヴナ」
とボウ・アンド・スクレープの儀礼を取った。
アレクサンドラが丁寧なカーテシーを返すと、後ろからニコライが割って入った。
「ちょっと待ちたまえ。彼女は私の妻として伴ったのだからそのように呼ぶべきじゃないか」」
M公爵は顎に手を当て悪びれずに応じる。
「まあ確かに公爵夫人と申し上げるべきなのだろうが、ご自身もいずれオルロワ女伯爵になられるし、そうなったらどちらが優先されるものかなと悩んだ結果、当たり障りのない呼称に落ち着いたのさ」
「何だその屁理屈は。だとしても今悩むのはおかしいだろう、ザハーリン公爵夫人と呼べ」
「すまない、君の浮かれ具合が面白くてね」
ニコライが一番と言うのももっともだと思いながら、王子時代にもこれと同じ調子で付き合っていたのなら、公爵家の子息とはいえ遠慮を大胆に踏み越えたものだとアレクサンドラは扇の陰で呆れると同時に、ニコライにこのような知己がいることを喜ばしく思い、そういえば自分にはこのような相手がいるだろうかと思い至って、密かに眉を寄せた。
客間に通されて、歓談する相手はM公爵1人だった。
M公爵はごく若年で爵位を継いだということが大きかったが、適齢期に入った今も、非常に珍しいことにまだ夫人を迎えていなかった。
愛人は複数いると言われていたが、何故独身を貫いているのかについては、皇女に野心を持っているのではというのが専らの噂だった。
皇女とは、要するにニコライの妹ということになるが、すぐ下の妹である第一王女タチアナは、ニコライとは8歳離れている。
その程度の差の夫婦は世にいくらでも例があり、第一王女が社交界デビュー、王女ゆえデビュタントには出席しないが、その年齢に到る約2年後に合わせて降嫁を狙い、ニコライも知らない水面下で運動をしているらしかった。
ニコライはM公爵には何も尋ねなかったし、彼が自ずから打ち明けてくることもなかったが、ニコライ個人としては、家柄は申し分なし、自らの親友として人柄も問題はなく、義弟に迎えることは吝(やぶさ)かではなかったが、タチアナのことを、もっと年の近い他公爵家も狙っていないとは限らないし、両陛下に国政上の特別なご意思があれば茨の道となるだろうという懸念は持っていた。
左手で持ち上げたソーサーにカップを戻しながら、M公爵はにやにやと「で、どうだい。夫婦仲は順調かい」と尋ねた。
同じ公爵位になったことで、本格的に対等な口調で話すことにしたらしい。
ニコライは、その点は構わないがしかし、と抗議した。
「もっと上品な聞き方をしてくれよ。私1人ならともかく、サーシャもいるんだから」
「おっとこれは失敬。で、実際のところどうだ、王家から一段階降りた生活は」
「……まあいいか。作法的なところはもちろん違うが、新しいね。ただ、今は忙しい。挨拶回りは公爵家だけと言っても数があるし、先方の都合があるからね」
「おや、侯爵(そうろうしゃく)以下には行かないのか」
「サーシャは公証長挨拶で回らなければならないが、私は免除された。同行を申し出たんだが、義父上から丁重に断られてしまってね」
「当然だな、元王子が一緒に行ったのでは威圧にしかならないし。あんな事件があった後なのだから、卑下はしないが下手には出る微妙なラインを縫っていかなけりゃならない」
「下手に出る必要があるか?犯人は皆捕まったし、被害者への補償はオルロフで肩代わりした」
「事件の舞台は公証だったんだ、そんなに簡単に色眼鏡は外れないさ。しかも公証は制度の信用性が非常に大切だ、一度付いてしまった傷を埋めるのは容易なことじゃない。嫌味の1つや2つや3つは覚悟しないとならない」
「おい、サーシャを虐めるんじゃない」
「虐めていないさ、夫人は重々承知しているよ。ねえ夫人」
水を向けられたアレクサンドラは、控えめにだが「ええ」と頷いた。
公証長かつ伯爵令嬢、今では公爵夫人の称号も加わり、もし巻き戻る前の高慢さをまだ有していたなら、神妙を強いられるのを屈辱として、格上の家を訪れようとも堂々たる挨拶を述べ、皮肉には皮肉で返し、あるいは仲の良くない家は慣習を破って訪問しないなどを演じていただろう。
アレクサンドラは、そんな現実に至らず良かったと安堵しながらも、もしあの頃のままだったら逆に気楽だったかもしれないと、貴族詣がまだまだ続いていくことを思って溜め息が出た。
彼女の気質としては、巻き戻りの前後で変わらず、必要のない謙(へりくだ)りは決して好まなかったが、公証の信用を取り戻した上で、老夫婦との約束を果たすためには、我を折り、不愉快に耐えるのも已む無しと考えていた。
M公爵が、剽軽(ひょうきん)な表情を貴族的なものに正し、アレクサンドラに対して言葉を続けた。
「公証長のお勤めはいかがですか。元々補佐をされておられましたし、職務自体は慣れていらっしゃると思いますが」
「延長上にはございますが、やはり補佐と長とでは心持ちが変わりました。片づけることもございますし、新しい試みも進めておりますので気ぜわしゅうございます」
M公爵は深く頷いて、
「私が申し上げるまでもないと思いますが、くれぐれも油断なさらぬように。面白く思っていない輩は、何かにつけて挙げ足を取って来ますから」
「ご忠告痛み入ります」
「公証については夫人やある程度制御できましょうが、例えば、非常に下世話ではありますがお子はまだか、というような攻め方をしてくる輩も出て来るでしょうから」
「子?私達は結婚したばかりだぞ」
訝し気な声を上げたニコライに、「今後の話だよ。もし相当の時間が経っても懐妊の気配がないのなら、殿下にお子を生んで差し上げられないなんて、という意地の悪い陰口を叩く奴が出て来るだろうからね。公証は2代続けて、後継ぎ問題で揉めるのかと嘲笑う奴もかな」とM公爵は椅子の背に凭れながら答えた。
ニコライは眉を吊り上げて、「そんな奴は絶対に許しておけない」と息巻いたが、M公爵は「表立っては言わないんだよ、君の耳には入らないように、かつ夫人には届くようなやり方を取るのさ。帝都ではよくあることだ、特に最高の方々の周辺ではね」とそっけなかった。
「……母上のか」
「さあね。君なら心当たりがあるんじゃないのかい」
そのような誹りは頭になかったアレクサンドラは非常に驚いたが、確かにそういう事態もあり得ると思い直した。
子は授かりものだと言われていながら、長く子ができない家は、貴族であっても庶民であっても、当該夫婦はもちろん、先祖からの因果応報だという非知性的な陰口を叩かれるものだった。
アレクサンドラはもしそういう声が聞こえても、当面は気にするつもりはなかったが、父母の例があるため、後継ぎ問題での苦労は避けたいところだったし、そうやって悪い印象を持たれていくことで公証に影響が出て来るのであれば、より本意ではなかった。
ただ、オルロフ家を何としても維持する強い意思はあるものの、公証長としてまだ何の道筋も付けていない状況で、今懐妊したらそれはそれで困ることになるとは、密かに思うところだった。
機敏には動けなくなり、無理が効かなくなるだろう。
一刻も早く公証の課題に着手し、解決を急ぐ必要があると、アレクサンドラが決意を新たにしながらも、子をなすことについて、自らの都合により時期の良し悪しを思うのをはしたなく感じた。
それと同時に、これから自らが子を持ち親になることを不思議なことだと思っていると、ニコライが、
「もしそんな暴言を聞いたらすぐに教えてくれ」
とM公爵に強く言い、次にアレクサンドラに眼差しを巡らせて
「サーシャも。私に決して黙っていてはいけないよ。ね?」
とまるで子供を諭すように言うので、アレクサンドラは微笑みを禁じ得ず、M公爵はシニカルさのない大笑いを始めた。
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