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第2話(1)
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公証からの帰途の馬車は、帝都のザハーリン公爵の邸宅前で滑らかに止まった。
第一王子ニコライとの結婚と同時に、ニコライとアレクサンドラが住み、オルロフ伯爵夫妻が別宅へと移る予定だったのだが、公証が未だ渦中にあり負担が大きかろうと、アレクサンドラへの爵位継承は先送りになった。
通常であれば、婿殿がオルロフ家で同居する形を取るのだが、相手が陛下のお子で、上位の爵位者ではそういうわけには行かない。
それならば、とニコライが陛下から下賜された邸宅に、居を構えるということになった。
住み慣れた家とも、両親とも離れて暮らすことにはまだ慣れていないが、公証について相談し助言を受けるために、父伯爵とは日頃顔を合わせているし、母夫人は新米夫婦の様子をしばしば見に来てくれていた。
アレクサンドラが馬車から軽やかに降り、大理石の階段を上がって、召使が押し開けた扉から邸内に入ると、ホールの階段からニコライが「お帰りなさい」と降りて来た。
「只今戻りました。私がお部屋に参らねばならないところ、出迎えてくださるとは恐縮でございます」
アレクサンドラが略礼を取ると、ニコライはその手を取りつつ、苦笑いには至らないものの、「固い固い」と眉を下げて微笑んだ。
「私達はもう夫婦なのですから、もっと打ち解けて下さらないと。それではまるで宮中でお会いした時のような挨拶ですよ」
「申し訳ありません、つい」
「私が王子であることは忘れて、貴方の家族に加えて下さい。義父上と義母上にされるのと同じように話して下さると嬉しいです」
同じように、と求められてアレクサンドラが考えていると、ニコライが「ああ、でも貴方はご両親とも非常に丁寧にお話しになるのでしたね」と妻の戸惑いに気がついた。
アレクサンドラには兄弟姉妹がなく、従兄弟はあのウリヤノフ侯爵心得の子であるから交流があったかどうか疑わしいゆえ、同年代の親族と子供らしく触れ合う経験がなかったのではとニコライは推察した。
もしかすると、友人に対しても慇懃(いんぎん)さを崩すことはなかったのではないかと勝手に推察し、完璧な妻の不器用さを愛しく思うとともに、それならば自分がその第一人者になろうと、ニコライは俄然意欲を高めた。
「そうですね、ではもっと砕けた調子で話して下さい。召使やメイドに対する……のはさすがに言い過ぎですが、その辺りを目指しましょう。貴方の場合、そのくらい極端でないと緩んで下さらない気がしますから」
「まあ……ですが」
「義父上と義母上は2人で話される場合、私の前でもごく打ち解けておられます。恐れ多くも両陛下も同じです。私達も早く皆様のようにならなければなりません、夫婦なのですから」
「はい」
理解はできてもすぐに切り換えるのはなかなか、というところなのだろう、頷き切れない妻にニコライが「練習ですよ、サーシャ」ともう一押しすると、妻は承知しました、と笑みを含みつつ小首を傾けてみせた。
その美しさに、ニコライは改めて、アレクサンドラをこの上もない存在だと思うのだった。
夕食の席で、ニコライがそういえば、と口を開いた。
「明日はM公爵を訪問しますが、予定は大丈夫ですね?」
「ええ」
アレクサンドラは頷いた。
前から伝えられていた事項であったため、公証の予定はあらかじめ入れていない。
一代限りとはいえ新公爵の誕生とその結婚について、公爵家を正式に訪問し挨拶をすることが必要だった。
その折に、アレクサンドラの公証長就任も併せて紹介すれば一度で済むとのニコライの提案を、アレクサンドラはありがたく受けた。
足元がぐらついている今は信頼回復が急務で、一連の訪問もその一助になりうるが、訪問理由が公証長の件のみとなると悪目立ちする。
公証を立て直していくので引き続きのご理解とご支援を、と挨拶を述べるにも、欲得ずくの訪問だと思われそうだと困っていたところだった。
先日訪問したJ公爵はオルロフ家と親族関係にあり、以前から交流がある家であったためアレクサンドラも非常に心安かったが、元々オルロフは伯爵位であり家柄が劣る。
公爵家の全てがオルロフに好意的というわけではない中、さらに先般の詐欺事件や皇太子問題があった後で、各公爵家を粛々と周り就任の挨拶を述べることは、儀礼とはいえ負担がかかることであった。
けれどもニコライの用件に添える形にしてもらえるなら角が立ち辛く、相手方も迎え入れやすいだろうとアレクサンドラは夫に感謝した。
もっとも、公証が陛下から授けられた権能である以上、同列の伯爵家は顔を合わせたついでで構わないだろうが、各侯爵家には、ウリヤノフは除外するとしても、就任挨拶のみの用件で足を運んでおいた方が良いだろうというのが、父伯爵の見立てであった。
その際は、前公証長たる父伯爵が同行するし、他に対面できる機会があれば訪問は割愛できるということだったが、侯爵家を遍くとなると、公証での執務時間が削がれてしまう。
やらねばならぬことを、いつまでも検討段階で捏ねておいては時機を逃す。
いずれ、アレクサンドラ1人が考えた内容をそのまま実務を降ろしてもうまく行かないことは、痛みを伴った体験を通過して理解しているゆえ、職員達を交えて進めなければと、明後日、あるいはM公爵訪問後にスケジュールを立てようと目論んでいると、反応が鈍くなった妻を何と思ったかニコライから
「大丈夫ですよ、M公爵は私の一番の友人ですから、心安くいて下さい」
と声がかけられた。
第一王子ニコライとの結婚と同時に、ニコライとアレクサンドラが住み、オルロフ伯爵夫妻が別宅へと移る予定だったのだが、公証が未だ渦中にあり負担が大きかろうと、アレクサンドラへの爵位継承は先送りになった。
通常であれば、婿殿がオルロフ家で同居する形を取るのだが、相手が陛下のお子で、上位の爵位者ではそういうわけには行かない。
それならば、とニコライが陛下から下賜された邸宅に、居を構えるということになった。
住み慣れた家とも、両親とも離れて暮らすことにはまだ慣れていないが、公証について相談し助言を受けるために、父伯爵とは日頃顔を合わせているし、母夫人は新米夫婦の様子をしばしば見に来てくれていた。
アレクサンドラが馬車から軽やかに降り、大理石の階段を上がって、召使が押し開けた扉から邸内に入ると、ホールの階段からニコライが「お帰りなさい」と降りて来た。
「只今戻りました。私がお部屋に参らねばならないところ、出迎えてくださるとは恐縮でございます」
アレクサンドラが略礼を取ると、ニコライはその手を取りつつ、苦笑いには至らないものの、「固い固い」と眉を下げて微笑んだ。
「私達はもう夫婦なのですから、もっと打ち解けて下さらないと。それではまるで宮中でお会いした時のような挨拶ですよ」
「申し訳ありません、つい」
「私が王子であることは忘れて、貴方の家族に加えて下さい。義父上と義母上にされるのと同じように話して下さると嬉しいです」
同じように、と求められてアレクサンドラが考えていると、ニコライが「ああ、でも貴方はご両親とも非常に丁寧にお話しになるのでしたね」と妻の戸惑いに気がついた。
アレクサンドラには兄弟姉妹がなく、従兄弟はあのウリヤノフ侯爵心得の子であるから交流があったかどうか疑わしいゆえ、同年代の親族と子供らしく触れ合う経験がなかったのではとニコライは推察した。
もしかすると、友人に対しても慇懃(いんぎん)さを崩すことはなかったのではないかと勝手に推察し、完璧な妻の不器用さを愛しく思うとともに、それならば自分がその第一人者になろうと、ニコライは俄然意欲を高めた。
「そうですね、ではもっと砕けた調子で話して下さい。召使やメイドに対する……のはさすがに言い過ぎですが、その辺りを目指しましょう。貴方の場合、そのくらい極端でないと緩んで下さらない気がしますから」
「まあ……ですが」
「義父上と義母上は2人で話される場合、私の前でもごく打ち解けておられます。恐れ多くも両陛下も同じです。私達も早く皆様のようにならなければなりません、夫婦なのですから」
「はい」
理解はできてもすぐに切り換えるのはなかなか、というところなのだろう、頷き切れない妻にニコライが「練習ですよ、サーシャ」ともう一押しすると、妻は承知しました、と笑みを含みつつ小首を傾けてみせた。
その美しさに、ニコライは改めて、アレクサンドラをこの上もない存在だと思うのだった。
夕食の席で、ニコライがそういえば、と口を開いた。
「明日はM公爵を訪問しますが、予定は大丈夫ですね?」
「ええ」
アレクサンドラは頷いた。
前から伝えられていた事項であったため、公証の予定はあらかじめ入れていない。
一代限りとはいえ新公爵の誕生とその結婚について、公爵家を正式に訪問し挨拶をすることが必要だった。
その折に、アレクサンドラの公証長就任も併せて紹介すれば一度で済むとのニコライの提案を、アレクサンドラはありがたく受けた。
足元がぐらついている今は信頼回復が急務で、一連の訪問もその一助になりうるが、訪問理由が公証長の件のみとなると悪目立ちする。
公証を立て直していくので引き続きのご理解とご支援を、と挨拶を述べるにも、欲得ずくの訪問だと思われそうだと困っていたところだった。
先日訪問したJ公爵はオルロフ家と親族関係にあり、以前から交流がある家であったためアレクサンドラも非常に心安かったが、元々オルロフは伯爵位であり家柄が劣る。
公爵家の全てがオルロフに好意的というわけではない中、さらに先般の詐欺事件や皇太子問題があった後で、各公爵家を粛々と周り就任の挨拶を述べることは、儀礼とはいえ負担がかかることであった。
けれどもニコライの用件に添える形にしてもらえるなら角が立ち辛く、相手方も迎え入れやすいだろうとアレクサンドラは夫に感謝した。
もっとも、公証が陛下から授けられた権能である以上、同列の伯爵家は顔を合わせたついでで構わないだろうが、各侯爵家には、ウリヤノフは除外するとしても、就任挨拶のみの用件で足を運んでおいた方が良いだろうというのが、父伯爵の見立てであった。
その際は、前公証長たる父伯爵が同行するし、他に対面できる機会があれば訪問は割愛できるということだったが、侯爵家を遍くとなると、公証での執務時間が削がれてしまう。
やらねばならぬことを、いつまでも検討段階で捏ねておいては時機を逃す。
いずれ、アレクサンドラ1人が考えた内容をそのまま実務を降ろしてもうまく行かないことは、痛みを伴った体験を通過して理解しているゆえ、職員達を交えて進めなければと、明後日、あるいはM公爵訪問後にスケジュールを立てようと目論んでいると、反応が鈍くなった妻を何と思ったかニコライから
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