続・公証長サーシャの通過点―巻き戻れなくとも自分に負けずに生きる

蜂須賀漆

文字の大きさ
57 / 82

第18話(1)

しおりを挟む
怒鳴ってしまったのは、はしたなかったという反省はしていた。
貴族の令嬢であることを仮に差し引けたとしても、どんな理不尽にも耐えて穏やかな態度で事に当たるのが、成功を得る近道であり鉄則であった。
十分理解していたつもりでも、実際は我慢が効かず爆発してしまった己の未熟さは、今後補うべきであった。
しかしあの場面は、その鉄則を貫かないのが正解だったはずだ、馬車に揺られながらアレクサンドラは自分に言い聞かせた。
配偶者が既にいる女に、限りなく卑劣なやり方で誘導し、自発的な形で貞操を差し出させるような試みを、鉄則を守るためであっても許してはいけないと強く思った。
アレクサンドラは、馬車の窓上にニコライの顔を思い浮かべる。
彼の顔にあるのは苦悶だった。
何度とない忠告にも折れない強情な妻に対し、何故分からないのかという焦燥と無力さであった。
心苦しさは、そのような表情をさせたその時に既に感じていたが、今は、ニコライがどれほど自分を大切に思ってくれているのか、そのことへの静かな感動が、アレクサンドラには満ちていた。

オルロフ家が公証長の座を守れなくなる、その救世主として、アレクサンドラはニコライを見て来たきらいがあった。
夫婦になり、夫である人への尊敬や敬愛は抱いていたが、それらは恩義を源としていて、父母の間にあるような夫婦愛とは性質が異なると、薄々感じていたところだった。
ただ、それでもしばらく時間が経てば、父母のような関係になっていくのではないかと簡単に考え、他方で、このままで果たして関係は変わっていくものなのかという疑いも抱いていた。

あの方を、ニコライをどう思っているのか。
これまで、夫として慕っているという位置から進展しなかった答えが、今ぐらぐらと動いている。
無条件で手を貸してくれる気遣いがただ嬉しい、偏にアレクサンドラを心配しているがゆえの反対が面映ゆい。
そして、ベルケンドルフ公爵の卑劣を前に、思いが一気に集約し、名前を持って爆発した。

頬の熱さに耐えかねて、アレクサンドラは馬車の中で項垂れる。
世の夫婦は皆、このような居た堪れなさとともに過ごしているのだろうか、誰かに教えて欲しいところだったが、最も近しいところの両親にすら尋ねるのは何となく嫌であるとなれば、誰にも聞けない。
初めての物思いかとも一度は思ったが、あのピョートルに抱いた感情も似たようなものだったのかもしれない。
並列にするのは不敬にも程があると夫に詫びながら、アレクサンドラは巻き戻る前を苦く思い出した。
だから、婚約者がいると知って激昂し、勝手に裏切られたと憎んだのだ。
あの頃は、自分の部下なのにも関わらず職務に専念しないのが許し難かったなどと、今考えると筋の通らない理由付けをしていたが、こういうことだったのかと、アレクサンドラは今になってそれを知る己の鈍さを反省した。
人情の機微に疎いと思ったことはなかったが、そこから思慕については削るべきだと悄然としながら、アレクサンドラは行きの馬車とは様変わりした、やたらと温く感じる心を乗せていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

学生時代、私をいじめていた女と一緒に異世界召喚されたけど、無能扱いされた私が実は本物の聖女で、いじめていた女は災厄を呼ぶ魔女でした。

さら
恋愛
いじめていた女と一緒に異世界召喚された私。 聖女として選ばれたのは彼女で、私は無能扱いされ追放された。 だが、辺境の村で暮らす中で気づく。 私の力は奇跡を起こすものではなく、 壊れた世界を“元に戻す”本物の聖女の力だった。 一方、聖女として祭り上げられた彼女は、 人々の期待に応え続けるうち、 世界を歪め、災厄を呼ぶ魔女へと変わっていく――。

【完結】恋が終わる、その隙に

七瀬菜々
恋愛
 秋。黄褐色に光るススキの花穂が畦道を彩る頃。  伯爵令嬢クロエ・ロレーヌは5年の婚約期間を経て、名門シルヴェスター公爵家に嫁いだ。  愛しい彼の、弟の妻としてーーー。  

村娘あがりの娼婦ですが、身請けされて幸せです

春月もも
恋愛
村を飛び出して王都に来たリリアは、いまは高級娼婦として生きている。 ここは通過点のはずだった。 誰かに選ばれて終わる物語なんて、わたしには関係ないと思っていたのに。 触れない客。 身体ではなく、わたしの話を聞きに来るだけの商人。 「君と話す時間を、金で買うのが嫌になった」 突然の身請け話。 値札のついた自分と向き合う三日間。 選ばれるのではなく選ぶと決めたとき、 通過点は終わりになる。 これは救いではなく対等な恋の話。

ブラック企業で倒れた私を、ネトゲ仲間の社長が強制保護して溺愛しています

紅 与一
恋愛
過労で倒れた私を救ったのは、 ネトゲ仲間――そしてIT企業の若き社長。 「もう君は、僕の管理下だよ」 退院と同時に退職手続きは完了。 住む場所も、生活も、すべて彼に囲われた。 外出制限、健康管理、過保護な独占欲。 甘くて危険な“保護生活”の中で、 私は少しずつ彼に心を奪われていく――。 元社畜OL×執着気味の溺愛社長 囲い込み同棲ラブストーリー。

【魔女と蔑まれた私。実は神託の聖女でした?-命を弄ぶ回復魔法使いと蔑まれた私の物語-】

はくら(仮名)
恋愛
・本作は別名義で『小説家になろう』にも掲載しています。 ・早めに終わります。 【 レアフ伯爵家の令嬢ユキアは回復魔法が得意だったが、義父家族からは命を弄ぶ魔女として蔑まれてしまう。  しかし実はユキアは女神の神託を受けた『運命の聖女』であり、そのことを知った王太子が彼女の元を訪れる――】

君は恋人、でもまだ家族じゃない

山田森湖
恋愛
あらすじ 同棲して3年。 毎朝コーヒーを淹れて、彼の寝ぼけた声に微笑んで、 一緒に暮らす当たり前の幸せを噛みしめる——そのはずだった。 彼女は彼を愛している。 彼も自分を愛してくれていると信じている。 それでも、胸の奥には消えない不安がある。 「私たちは、このまま“恋人”で止まってしまうの?」 結婚の話になると、彼はいつも曖昧に笑ってごまかす。 最初は理由をつけていたのに、今では何も言わなくなった。 周囲の友人は次々と結婚し、家族を持ち始めている。 幸せそうな写真を見るたび、彼女の心には “言えない言葉”だけが増えていく。 愛している。 でも、それだけでは前に進めない。 同棲という甘い日常の裏で、 少しずつ、確かにズレ始めているふたりの未来。 このまま時間に流されるだけの恋なのか、 それとも、家族へと歩き出せる恋なのか——。 彼の寝息を聞きながら、 彼女は初めて「涙が出そうな夜」を迎えていた。

最弱白竜ですが、なぜか学園最強の銀竜に番認定されました

めめめ
恋愛
竜の血を引く者だけが貴族になれるこの世界で、白竜は最も格の低い竜の証。 白竜の男爵令嬢リーゼロッテは、特待生として国内最高峰の王立竜騎学園に入学する。待っていたのは上位貴族からの蔑みと、学園を支配する四人の御曹司「四竜」。 その筆頭、銀竜公爵家の嫡男ルシアンに初日から啖呵を切ったリーゼは、いじめと嫉妬の嵐に巻き込まれていく。 それでも彼女は媚びない、逃げない、折れない。 やがてルシアンはリーゼから目が離せなくなり―― 白竜の少女が、学園と王国の運命を変える。 身分差×竜×学園ラブファンタジー、開幕。

幼馴染の許嫁は、男勝りな彼女にご執心らしい

和泉鷹央
恋愛
 王国でも指折りの名家の跡取り息子にして、高名な剣士がコンスタンスの幼馴染であり許嫁。  そんな彼は数代前に没落した実家にはなかなか戻らず、地元では遊び人として名高くてコンスタンスを困らせていた。 「クレイ様はまたお戻りにならないのですか……」 「ごめんなさいね、コンスタンス。クレイが結婚の時期を遅くさせてしまって」 「いいえおば様。でも、クレイ様……他に好きな方がおられるようですが?」 「えっ……!?」 「どうやら、色町で有名な踊り子と恋をしているようなんです」  しかし、彼はそんな噂はあり得ないと叫び、相手の男勝りな踊り子も否定する。  でも、コンスタンスは見てしまった。  朝方、二人が仲睦まじくホテルから出てくる姿を……  他の投稿サイトにも掲載しています。

処理中です...