『愛人を連れて帰ってきた翌朝、名前すら呼ばれなかった私は離縁状を置いて旅に出ます。これからは幸せになります――そう思っていました。』

まさき

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第20話「間に合わない距離」

第20話「間に合わない距離」

 夜が明ける前に、村は見えた。
 遠くに、かすかな灯りがいくつか浮かんでいる。
 それだけで、人がいると分かる。
 それだけで、まだ間に合うかもしれないと、思ってしまう。
 馬を止めることなく、進む。
 道は細く、整備されていない。
 石に躓き、土に足を取られ、何度も体が揺れる。
 それでも、速度は落とさない。
 落とせない。
 時間がない。
 それだけが、すべてだった。
 村の入口に差しかかる。
 見張りの男が、こちらに気づいて声を上げる。
「止まれ!」
 当然の反応。
 見知らぬ男が夜のうちに駆け込んでくるなど、警戒して当然だ。
 それでも、従う余裕はない。
「この村に、倒れていた女が運ばれているはずだ」
 短く言う。
 息が乱れている。
 声が少し掠れているのが分かる。
 それでも構わない。
 必要なのは、言葉の正確さではない。
 情報だ。
 男は一瞬だけ戸惑う。
 そして、何かに気づいたように目を細める。
「……あんた、あの人の――」
「場所は」
 遮る。
 それ以外はいらない。
 男は数秒だけこちらを見つめた。
 試すように。
 確かめるように。
 やがて、小さく息を吐く。
「奥だ。一番端の家」
 それだけ。
 十分だった。
 礼も言わずに、馬を走らせる。
 背後で何か言われた気がしたが、聞き取る余裕はない。
 視線の先。
 村の外れ。
 他の家から少し離れた場所に、小さな家が見える。
 灯りが一つだけ、消えずに残っている。
 そこだ。
 確信に近い感覚があった。
 馬を降りる。
 足が地面に着いた瞬間、わずかに力が抜ける。
 長く走り続けたせいか。
 それとも。
 ここまで来てしまったからか。
 分からない。
 気にしている余裕もない。
 手綱を放り、家へと歩く。
 一歩。
 また一歩。
 近づくほどに、胸の奥が重くなる。
 足取りが、わずかに鈍る。
 ――間に合っているのか。
 その問いが、頭の中で繰り返される。
 答えは、出ない。
 出るはずもない。
 それでも、考えてしまう。
 考えれば、最悪の想像に辿り着く。
 だから、止める。
 思考を切る。
 ただ、進む。
 扉の前に立つ。
 手をかける。
 そこで、初めて止まる。
 ほんの一瞬。
 ほんのわずかな時間。
 それでも、長く感じる。
 ここまで来て。
 扉一枚の向こうに、すべてがある。
 そう思った瞬間。
 足が、動かなくなる。
 怖いのではない。
 恐れているのでもない。
 ただ。
 分かってしまうからだ。
 この扉を開けた瞬間に。
 何もかもが、確定する。
 それでも。
 開けないという選択肢はない。
 手に力を込める。
 扉を押す。
 軋む音が、小さく響く。
 中は、暖かかった。
 外の冷気とは、明らかに違う空気。
 薪の火の匂い。
 薬草の匂い。
 人の生活の匂い。
 それらが混ざり合っている。
 視線が、自然と奥へと引き寄せられる。
 そこに――
 彼女がいた。
 ベッドの上。
 静かに、横たわっている。
 動かない。
 顔色は、白い。
 血の気が引いている。
 呼吸は、浅い。
 胸が、かすかに上下しているだけ。
 それだけで。
 まだ、生きていると分かる。
 その事実に、わずかに息を吐く。
 安堵なのか。
 ただの反応なのか。
 自分でも分からない。
「……来たのですね」
 声がする。
 すぐそばから。
 治療師が立っていた。
 あの女性。
 屋敷に連れてきた。
 唯一、この呪いに対抗できる可能性を持つ人間。
 その表情は、静かだった。
 驚きも、焦りもない。
 ただ、現実を受け入れている顔。
「状態は」
 短く問う。
 それ以外は不要。
「……遅いです」
 即答。
 迷いなく。
 はっきりと。
 現実だけを告げる。
 その一言で、すべてが分かる。
 間に合っていない。
 それでも。
「ですが、まだ意識はかろうじて……」
 続く言葉。
 それだけで十分だった。
 歩く。
 一歩ずつ。
 距離を詰める。
 足音が、やけに大きく響く。
 近づくほどに、はっきりと見える。
 細くなった腕。
 力の抜けた指。
 わずかに開いた唇。
 そのすべてが。
 終わりに近づいていることを示している。
 それでも。
 止まれない。
 ベッドの横に立つ。
 見下ろす。
 そこにいる。
 間違いなく。
 探していた人が。
 こんな形で。
 手を伸ばす。
 触れようとして――止まる。
「……触れない方がいいです」
 治療師の声。
「感情の刺激は、そのまま進行に繋がります」
 分かっている。
 分かっていた。
 ここまで来る間に、何度も考えた。
 触れればどうなるか。
 声をかければどうなるか。
 すべて、理解している。
 だからこそ。
 ここまで、何もしてこなかった。
 それなのに。
 目の前にいる。
 こんな状態で。
 何もせずにいられるほど、冷静ではいられない。
 視線を落とす。
 彼女の顔を見る。
 閉じられたまぶた。
 かすかに震える睫毛。
 呼吸に合わせて動く唇。
 そのすべてが、現実だ。
 逃げ場はない。
「……」
 名前を呼びかける。
 その直前で、止まる。
 喉が動かない。
 声が出ない。
 ここで呼べば。
 それだけで。
 終わるかもしれない。
 それが分かっているから。
 止まる。
 何もできない。
 ただ、見ているだけ。
 それが最善だと、分かっているから。
 それでも。
 それは、あまりにも残酷だった。
「……っ」
 小さな音。
 彼女の唇が、わずかに動く。
 呼吸が乱れる。
 胸が、不規則に上下する。
 ゆっくりと。
 本当にゆっくりと。
 まぶたが開く。
 焦点の合わない視線が、宙をさまよう。
 それが、少しずつ。
 こちらへと向く。
 合う。
 目が。
 かすかに。
 それでも、確かに。
「……あ……」
 声にならない音。
 それでも。
 こちらを見ている。
 認識している。
 その事実が。
 胸の奥を強く締めつける。
 ――やめろ。
 思考が叫ぶ。
 ここで感情を動かせば。
 それだけで。
 終わる。
 分かっている。
 それでも。
 止められない。
 目が離せない。
 彼女がこちらを見ている。
 それだけで。
 すべてが揺らぐ。
「……だ、ん……」
 かすれた声。
 途切れ途切れの音。
 それでも意味は分かる。
 呼ぼうとしている。
 こちらを。
 その呼び方で。
 胸の奥が、大きく揺れる。
 止めろ。
 それ以上は。
 だめだ。
 分かっているのに。
 何もできない。
 ただ、そこに立っている。
 何もできないまま。
 時間だけが過ぎていく。
 彼女の呼吸が、さらに浅くなる。
 一つ一つが、短くなる。
 間隔が、不安定になる。
 そのたびに。
 確実に。
 終わりが近づいているのが分かる。
 止められない。
 もう。
 何も。
「……」
 治療師は何も言わない。
 止めない。
 ただ、見ている。
 それが答えだった。
 ――もう、選ぶしかない。
 何もしないか。
 それとも。
 すべてを受け入れるか。
 結果は、変わらない。
 どちらにしても。
 終わる。
 だったら。
 私はゆっくりと息を吸う。
 震えを抑える。
 視線を、彼女に向ける。
 そして。
 ようやく。
 口を開いた。
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