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第1章 邂逅
第一話 六畳の空白
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第一話
六畳の空白
誰かがいなくなると、部屋が広くなる。
モノは何も変わっていないのに、空気の量が増えたみたいに。
その広さが、毎朝僕を押しつぶした。
六時五十分に目覚ましが鳴る。
止める。
七時に鳴る。また止める。七時半に鳴る。ようやく手を伸ばして、電源ごと落とす。それから天井を見る。見慣れた、染みのある天井。左上の隅に、雨漏りの跡みたいな茶色い染みが一つ。その少し右に、形のよくわからない薄い染みが一つ。毎朝確認する。ちゃんとある。今日も同じ場所にある。
それだけ確認してから、起き上がる。
これが、瀬川蒼、二十二歳の朝だった。
* * *
洗面台で顔を洗う。
水が冷たかった。十一月の朝の水道水は、蛇口を全開にしても温くならない。冷たいまま顔に当てる。少し頭が覚める。タオルで拭きながら、鏡を見る。できるだけ早く目をそらす。目の下のくまと、頬のこけた輪郭と、覇気のない目が、鏡の中にある。それを長く見ていると、気分が沈む。だから見ない。
鏡の横に、澪が置いていったヘアゴムがある。
正確には、置いていったのではなく、忘れていったものだ。大学一年の夏、この部屋に遊びに来たとき、洗面台に忘れていった。くすんだ水色の、何の変哲もないヘアゴムだ。
返すタイミングを失ったまま、二年が過ぎた。
捨てられなかった。捨てたら、ここに来たことの証明が一つ消える気がして。
* * *
インスタントのコーヒーを淹れて、窓際に立った。
マンションの四階から見える景色は、銀杏並木の黄色と、その向こうに広がる住宅街と、もっと遠くに薄く霞んだ山並みだ。今日は風があって、銀杏の葉がひらひらと舞い落ちていた。歩道を歩く人が、葉を踏むたびに足元を見ていた。
悪くない景色だと思う。
でも何も感じなかった。
二年前まで、この景色が好きだった。秋になると銀杏が黄色くなって、晴れた日には山がくっきり見えて、そういうのをぼんやり眺めながらコーヒーを飲む時間が好きだった。澪に話したら「蒼くんって意外と風流だよね」と笑われた。
今は、見ても何も起きない。
きれいだと思う機能が、どこかに行ってしまったみたいに。
* * *
午前中は、何もしなかった。
ソファに座って、スマートフォンを眺めた。特に見たいものがあるわけではなかった。ニュースを流し読みして、知らない人のSNSを眺めて、また閉じる。それを繰り返した。時計を見ると十一時になっていた。二時間、そうしていたことになる。
腹が減ったので、コンビニに行った。
近所のコンビニは、徒歩三分の場所にある。今のバイト先でもある。今日はシフトが入っていない日だったので、客として入った。おにぎりと、インスタントの味噌汁と、あとは特に理由もなくプリンを一つ。レジに並んでいたら、同じシフトの田中がいた。
「あ、瀬川さん。今日休みっすよね」
「そうだな」
「わざわざここで買わなくても」
「他に行くとこないから」
田中は何か言いたそうにしたが、結局「そっすか」とだけ言って、会計を済ませてくれた。
他に行くとこない、は本当のことだ。
大学を卒業して半年が経つ。友人と呼べる人間は何人かいるが、連絡を取るのが億劫で、いつの間にか疎遠になった。就職もしていない。就活の時期、何もかもがどうでもよくて、結局全部うまくいかなかった。今はコンビニで週四日働きながら、残りの日はこうして過ごしている。
情けない話だと、自分でもわかっている。
ただ、どこかに向かう気力が、湧いてこない。
* * *
昼過ぎ、部屋の掃除をした。
特に汚れているわけではなかったが、手を動かしていないと頭の中が静かになりすぎる。静かになると、いろんなことを考えてしまう。だから掃除をした。掃除機をかけて、窓を拭いて、本棚の埃を取った。
本棚を拭いていて、手が止まった。
棚の端に、三冊の文庫本が並んでいた。
澪に借りたままの本だ。「絶対おもしろいから読んで」と渡されて、読み終わったら感想を言い合おうと約束していた。でも返す前に、澪は入院した。退院したら返そうと思っていたら、退院はしなかった。
三冊とも、読んだ。
おもしろかった。澪の言う通りだった。でも感想を言える相手がいないまま、今もここにある。
表紙を指でなぞった。
澪の手が触れていた本だ。栞の代わりに折られたページの跡が残っていて、そこだけ紙がくたびれている。澪が読んでいたとき、ここで一度本を閉じたのだ。どんな顔で読んでいたのだろう。続きが気になって閉じたのか、眠くなって閉じたのか。
もう、聞けない。
掃除を再開した。手を動かし続けた。
考えないようにするために、手を動かし続けた。
* * *
夕方、兄の凪からメッセージが来た。
「今週末、飯でも行くか。近くにうまい定食屋ができた」
既読をつけて、返信はしなかった。凪とはひと月に一度くらい飯を食う。悪い兄ではない。むしろよくできた兄だ。ただ、会うと必ず「最近どうだ」と聞かれる。答えるのが、少し面倒だった。
日が暮れて、バイトの時間になった。
制服に着替えてコンビニに向かった。夜の空気は冷えていた。息が少し白くなった。歩きながら空を見ると、星がいくつか出ていた。澪は星が好きだった。名前を覚えて、僕にも教えてくれたが、ほとんど忘れた。あれがオリオン座、というのだけ、なんとか覚えている。
今夜はオリオン座が出ているかどうか、よくわからなかった。
* * *
バイトは二十三時に終わった。
帰り道、いつもの道を歩いた。コンビニの袋を下げて、街灯の明かりの下を歩く。住宅街はもう静かで、どこかの家の窓に明かりがついていた。
澪の家の前を通った。
わざわざ遠回りしているわけではない。帰り道の途中に、たまたまある。でも毎晩通ることに気づいてから、もしかしたら無意識に選んでいるのかもしれないと思い始めた。
今は澪の両親が住んでいる。表札はそのままだ。桐島、と書いてある。門のそばに、澪が中学のとき植えたという金木犀の木がある。花の季節はとっくに終わっているのに、通るたびに僕は鼻でその匂いを探してしまう。
今夜も、なかった。
当然だ。十一月に金木犀は咲かない。
わかっていても、探してしまう。
* * *
家に帰って、シャワーを浴びた。
ベッドに横になって、スマートフォンで澪との写真を見た。これも毎晩のことだ。最後に撮ったのは、大学一年の夏、二人で行った花火大会のときの写真だ。澪は浴衣を着ていて、手に綿あめを持っていて、まぶしいくらいに笑っていた。
この写真を撮った半年後に、体調が悪化した。
画面を閉じた。
天井を見た。染みを確認した。左上に一つ、右に一つ。ある。今日も同じ場所にある。
目を閉じた。
眠れるかどうかはわからない。
でも目を閉じていれば、いつかは来る。
そして来た時には、また澪の夢を見るかもしれない。
それだけを、少し期待しながら、夜の中に沈んでいった。
その夜の夢は、白い光だった。
いつもとは、少し違う光だった。
でもその違いに気づくのは、もう少し後のことだ。
六畳の空白
誰かがいなくなると、部屋が広くなる。
モノは何も変わっていないのに、空気の量が増えたみたいに。
その広さが、毎朝僕を押しつぶした。
六時五十分に目覚ましが鳴る。
止める。
七時に鳴る。また止める。七時半に鳴る。ようやく手を伸ばして、電源ごと落とす。それから天井を見る。見慣れた、染みのある天井。左上の隅に、雨漏りの跡みたいな茶色い染みが一つ。その少し右に、形のよくわからない薄い染みが一つ。毎朝確認する。ちゃんとある。今日も同じ場所にある。
それだけ確認してから、起き上がる。
これが、瀬川蒼、二十二歳の朝だった。
* * *
洗面台で顔を洗う。
水が冷たかった。十一月の朝の水道水は、蛇口を全開にしても温くならない。冷たいまま顔に当てる。少し頭が覚める。タオルで拭きながら、鏡を見る。できるだけ早く目をそらす。目の下のくまと、頬のこけた輪郭と、覇気のない目が、鏡の中にある。それを長く見ていると、気分が沈む。だから見ない。
鏡の横に、澪が置いていったヘアゴムがある。
正確には、置いていったのではなく、忘れていったものだ。大学一年の夏、この部屋に遊びに来たとき、洗面台に忘れていった。くすんだ水色の、何の変哲もないヘアゴムだ。
返すタイミングを失ったまま、二年が過ぎた。
捨てられなかった。捨てたら、ここに来たことの証明が一つ消える気がして。
* * *
インスタントのコーヒーを淹れて、窓際に立った。
マンションの四階から見える景色は、銀杏並木の黄色と、その向こうに広がる住宅街と、もっと遠くに薄く霞んだ山並みだ。今日は風があって、銀杏の葉がひらひらと舞い落ちていた。歩道を歩く人が、葉を踏むたびに足元を見ていた。
悪くない景色だと思う。
でも何も感じなかった。
二年前まで、この景色が好きだった。秋になると銀杏が黄色くなって、晴れた日には山がくっきり見えて、そういうのをぼんやり眺めながらコーヒーを飲む時間が好きだった。澪に話したら「蒼くんって意外と風流だよね」と笑われた。
今は、見ても何も起きない。
きれいだと思う機能が、どこかに行ってしまったみたいに。
* * *
午前中は、何もしなかった。
ソファに座って、スマートフォンを眺めた。特に見たいものがあるわけではなかった。ニュースを流し読みして、知らない人のSNSを眺めて、また閉じる。それを繰り返した。時計を見ると十一時になっていた。二時間、そうしていたことになる。
腹が減ったので、コンビニに行った。
近所のコンビニは、徒歩三分の場所にある。今のバイト先でもある。今日はシフトが入っていない日だったので、客として入った。おにぎりと、インスタントの味噌汁と、あとは特に理由もなくプリンを一つ。レジに並んでいたら、同じシフトの田中がいた。
「あ、瀬川さん。今日休みっすよね」
「そうだな」
「わざわざここで買わなくても」
「他に行くとこないから」
田中は何か言いたそうにしたが、結局「そっすか」とだけ言って、会計を済ませてくれた。
他に行くとこない、は本当のことだ。
大学を卒業して半年が経つ。友人と呼べる人間は何人かいるが、連絡を取るのが億劫で、いつの間にか疎遠になった。就職もしていない。就活の時期、何もかもがどうでもよくて、結局全部うまくいかなかった。今はコンビニで週四日働きながら、残りの日はこうして過ごしている。
情けない話だと、自分でもわかっている。
ただ、どこかに向かう気力が、湧いてこない。
* * *
昼過ぎ、部屋の掃除をした。
特に汚れているわけではなかったが、手を動かしていないと頭の中が静かになりすぎる。静かになると、いろんなことを考えてしまう。だから掃除をした。掃除機をかけて、窓を拭いて、本棚の埃を取った。
本棚を拭いていて、手が止まった。
棚の端に、三冊の文庫本が並んでいた。
澪に借りたままの本だ。「絶対おもしろいから読んで」と渡されて、読み終わったら感想を言い合おうと約束していた。でも返す前に、澪は入院した。退院したら返そうと思っていたら、退院はしなかった。
三冊とも、読んだ。
おもしろかった。澪の言う通りだった。でも感想を言える相手がいないまま、今もここにある。
表紙を指でなぞった。
澪の手が触れていた本だ。栞の代わりに折られたページの跡が残っていて、そこだけ紙がくたびれている。澪が読んでいたとき、ここで一度本を閉じたのだ。どんな顔で読んでいたのだろう。続きが気になって閉じたのか、眠くなって閉じたのか。
もう、聞けない。
掃除を再開した。手を動かし続けた。
考えないようにするために、手を動かし続けた。
* * *
夕方、兄の凪からメッセージが来た。
「今週末、飯でも行くか。近くにうまい定食屋ができた」
既読をつけて、返信はしなかった。凪とはひと月に一度くらい飯を食う。悪い兄ではない。むしろよくできた兄だ。ただ、会うと必ず「最近どうだ」と聞かれる。答えるのが、少し面倒だった。
日が暮れて、バイトの時間になった。
制服に着替えてコンビニに向かった。夜の空気は冷えていた。息が少し白くなった。歩きながら空を見ると、星がいくつか出ていた。澪は星が好きだった。名前を覚えて、僕にも教えてくれたが、ほとんど忘れた。あれがオリオン座、というのだけ、なんとか覚えている。
今夜はオリオン座が出ているかどうか、よくわからなかった。
* * *
バイトは二十三時に終わった。
帰り道、いつもの道を歩いた。コンビニの袋を下げて、街灯の明かりの下を歩く。住宅街はもう静かで、どこかの家の窓に明かりがついていた。
澪の家の前を通った。
わざわざ遠回りしているわけではない。帰り道の途中に、たまたまある。でも毎晩通ることに気づいてから、もしかしたら無意識に選んでいるのかもしれないと思い始めた。
今は澪の両親が住んでいる。表札はそのままだ。桐島、と書いてある。門のそばに、澪が中学のとき植えたという金木犀の木がある。花の季節はとっくに終わっているのに、通るたびに僕は鼻でその匂いを探してしまう。
今夜も、なかった。
当然だ。十一月に金木犀は咲かない。
わかっていても、探してしまう。
* * *
家に帰って、シャワーを浴びた。
ベッドに横になって、スマートフォンで澪との写真を見た。これも毎晩のことだ。最後に撮ったのは、大学一年の夏、二人で行った花火大会のときの写真だ。澪は浴衣を着ていて、手に綿あめを持っていて、まぶしいくらいに笑っていた。
この写真を撮った半年後に、体調が悪化した。
画面を閉じた。
天井を見た。染みを確認した。左上に一つ、右に一つ。ある。今日も同じ場所にある。
目を閉じた。
眠れるかどうかはわからない。
でも目を閉じていれば、いつかは来る。
そして来た時には、また澪の夢を見るかもしれない。
それだけを、少し期待しながら、夜の中に沈んでいった。
その夜の夢は、白い光だった。
いつもとは、少し違う光だった。
でもその違いに気づくのは、もう少し後のことだ。
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