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第1章 邂逅
第二話「十一月の記憶」
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第二話「十一月の記憶」
澪のことを考えない日は、二年間で一度もなかった。
毎日考えた。毎日思い出した。
それが苦しいのか、それとも救いなのか、今もわからない。
目が覚めると、雨だった。
窓の外で、細かい雨が降り続いていた。空は低く曇っていて、銀杏並木の黄色が、いつもより鈍く見えた。こういう日は特に、布団から出る理由が見当たらない。目覚ましを止めて、そのまま天井を見た。染みを確認した。ある。今日もある。
結局、起き上がったのは昼前だった。
* * *
今日はバイトが休みで、予定も何もなかった。
コーヒーを淹れて、窓の外の雨を眺めた。雨粒が窓ガラスを伝って落ちていく。一粒が別の一粒と合流して、少し太くなって、また落ちていく。それをぼんやり眺めていたら、三十分が過ぎていた。
スマートフォンを開いた。
凪からの返信催促が来ていた。「飯の話、どうした」と一言だけ。既読をつけて、また閉じた。今日は誰とも話したくない気分だった。雨の日はそういう気分になる。音が籠もって、世界が少し狭くなる感じがして、その狭さの中に一人でいたくなる。
澪はそれを「蒼くんの雨モード」と呼んでいた。
「雨の日だけ連絡が途絶えるんだもん。最初びっくりしたよ」と、笑いながら言っていた。「でも今はわかった。雨の日の蒼くんはそっとしておくのが正解」
正解、と言ってくれた人がいた。
今は誰も、正解と言ってくれない。
* * *
昼過ぎ、アルバムを引っ張り出した。
スマートフォンの中の写真ではなく、印刷してアルバムに貼った写真だ。澪が「データだけじゃ寂しい」と言って、二人で撮った写真を現像してくれていた。A5サイズの薄いアルバムが、本棚の奥に一冊ある。
ページをめくった。
小学生の頃の写真がある。二人で河原に行ったときのものだ。僕は半袖で、澪は麦わら帽子をかぶっていた。どちらも日焼けして、川に入って、泥だらけになっていた。撮ったのは澪の母親だ。「はい笑って」と言われて、二人でカメラを向いた。澪は笑っていて、僕は少しだけ照れくさそうな顔をしている。
中学のときの写真もある。
文化祭で、クラスでお化け屋敷をやったときのものだ。澪はお化け役で、白塗りの顔に血糊をつけていた。それでも笑っているから、全くお化けに見えない。横で僕は引きつった顔をしている。澪に「怖かった?」と聞かれて「怖くない」と言ったが、本当は少し怖かった。
高校のときの写真。
二人で自転車に乗って、遠くの神社まで行ったときのものだ。片道一時間以上かかって、澪は途中で「もう無理」と言いながら坂道を押して歩いた。でも神社についたら「来てよかった」とけろっとして言った。帰りは下り坂が多くて、澪が前を走りながら「蒼くん速い速い」と叫んでいた。あの日の空が、やけに青かったことを覚えている。
最後のページに、花火大会の写真があった。
浴衣姿の澪が、綿あめを持って笑っている。これが最後に一緒に撮った写真だ。この日から半年もしないうちに、澪は入院した。
アルバムを閉じた。
膝の上に置いたまま、しばらく動けなかった。
雨の音だけが続いた。
* * *
澪が入院したのは、大学一年の冬だった。
最初は「少し検査が必要で」という話だった。たいしたことないと思っていた。澪も「すぐ帰ってくるから」と軽い調子で言っていた。でも検査が長引いて、入院が長引いて、春になっても退院しなかった。
病名を聞いたのは、桜が散った頃だった。
澪の母親から電話があって、「正直に話しておきたい」と言われた。電話を切った後、しばらく公園のベンチに座っていた。何も考えられなかった。ただ、目の前の地面をじっと見ていた。
病院には週に一度は行った。
澪はいつも笑っていた。「大げさだよ」とか「蒼くんのほうが顔色悪い」とか言いながら、笑っていた。その笑顔が、ありがたくて、同時に苦しかった。僕のために笑っているのかもしれないと思うと、何を言えばいいかわからなくなった。
好きだと、言えなかった。
病院の廊下で、帰り道の電車の中で、夜眠れない時間に何度も言おうとした。でも言えなかった。もし言ったら、澪に余計な心配をかけるかもしれないと思った。もし言ったら、何かが変わってしまう気がして怖かった。
結局、伝えたのは、最後の三日前だった。
夕焼けの病室で、窓の外が橙色に染まっていた。酸素チューブをつけながら、澪はベッドの上で僕を見て言った。「蒼って、わたしのこと好きでしょ」と。
僕はうなずいた。
澪は少し目を細めて、笑った。「知ってた。ずっと知ってたよ」と言って、それから「もっと早く言えばよかったのにね」と言った。責めているわけではない声だった。でも、その言葉は今も胸に刺さったままだ。
もっと早く言えばよかった。
何度思っても、もう遅かった。
* * *
雨がやんだのは、夕方だった。
雲の隙間から西日が差し込んで、濡れた道路が光っていた。窓を少し開けると、冷たい空気と一緒に、土と草の匂いが入ってきた。雨上がりの匂いだ。
澪はこの匂いが好きだった。
「なんか落ち着く」と言っていた。「雨が全部洗い流してくれた感じがして」
洗い流してくれたらよかった。
二年間の空白も、言えなかった言葉も、全部。
でも雨はそういうものを洗い流してくれない。土の匂いがするだけで、何も変わらない。明日もまた同じ朝が来て、同じ天井を見て、同じように過ごす。
わかっていた。
それでも、窓を開けたまま、しばらくその匂いを吸い込んでいた。
澪が好きだったものを、少しでも共有したくて。
* * *
夜、眠りに落ちる前に、ふと思った。
どこかに、澪が生きている世界があったらどうだろう。
馬鹿げた考えだと思った。そんなものがあるはずがない。死んだ人は死んでいて、いなくなった人はいなくなっている。それが現実だ。
でも、目を閉じると、また思った。
どこかに、あったらどうだろう。
その問いを持ったまま、眠りに落ちた。
その夜の夢は、いつもと同じ白い光だった。
雨は全部を洗い流してはくれなかった。
でもその夜、眠りながら僕はどこかを探していた。
まだ名前も知らない、その場所を。
澪のことを考えない日は、二年間で一度もなかった。
毎日考えた。毎日思い出した。
それが苦しいのか、それとも救いなのか、今もわからない。
目が覚めると、雨だった。
窓の外で、細かい雨が降り続いていた。空は低く曇っていて、銀杏並木の黄色が、いつもより鈍く見えた。こういう日は特に、布団から出る理由が見当たらない。目覚ましを止めて、そのまま天井を見た。染みを確認した。ある。今日もある。
結局、起き上がったのは昼前だった。
* * *
今日はバイトが休みで、予定も何もなかった。
コーヒーを淹れて、窓の外の雨を眺めた。雨粒が窓ガラスを伝って落ちていく。一粒が別の一粒と合流して、少し太くなって、また落ちていく。それをぼんやり眺めていたら、三十分が過ぎていた。
スマートフォンを開いた。
凪からの返信催促が来ていた。「飯の話、どうした」と一言だけ。既読をつけて、また閉じた。今日は誰とも話したくない気分だった。雨の日はそういう気分になる。音が籠もって、世界が少し狭くなる感じがして、その狭さの中に一人でいたくなる。
澪はそれを「蒼くんの雨モード」と呼んでいた。
「雨の日だけ連絡が途絶えるんだもん。最初びっくりしたよ」と、笑いながら言っていた。「でも今はわかった。雨の日の蒼くんはそっとしておくのが正解」
正解、と言ってくれた人がいた。
今は誰も、正解と言ってくれない。
* * *
昼過ぎ、アルバムを引っ張り出した。
スマートフォンの中の写真ではなく、印刷してアルバムに貼った写真だ。澪が「データだけじゃ寂しい」と言って、二人で撮った写真を現像してくれていた。A5サイズの薄いアルバムが、本棚の奥に一冊ある。
ページをめくった。
小学生の頃の写真がある。二人で河原に行ったときのものだ。僕は半袖で、澪は麦わら帽子をかぶっていた。どちらも日焼けして、川に入って、泥だらけになっていた。撮ったのは澪の母親だ。「はい笑って」と言われて、二人でカメラを向いた。澪は笑っていて、僕は少しだけ照れくさそうな顔をしている。
中学のときの写真もある。
文化祭で、クラスでお化け屋敷をやったときのものだ。澪はお化け役で、白塗りの顔に血糊をつけていた。それでも笑っているから、全くお化けに見えない。横で僕は引きつった顔をしている。澪に「怖かった?」と聞かれて「怖くない」と言ったが、本当は少し怖かった。
高校のときの写真。
二人で自転車に乗って、遠くの神社まで行ったときのものだ。片道一時間以上かかって、澪は途中で「もう無理」と言いながら坂道を押して歩いた。でも神社についたら「来てよかった」とけろっとして言った。帰りは下り坂が多くて、澪が前を走りながら「蒼くん速い速い」と叫んでいた。あの日の空が、やけに青かったことを覚えている。
最後のページに、花火大会の写真があった。
浴衣姿の澪が、綿あめを持って笑っている。これが最後に一緒に撮った写真だ。この日から半年もしないうちに、澪は入院した。
アルバムを閉じた。
膝の上に置いたまま、しばらく動けなかった。
雨の音だけが続いた。
* * *
澪が入院したのは、大学一年の冬だった。
最初は「少し検査が必要で」という話だった。たいしたことないと思っていた。澪も「すぐ帰ってくるから」と軽い調子で言っていた。でも検査が長引いて、入院が長引いて、春になっても退院しなかった。
病名を聞いたのは、桜が散った頃だった。
澪の母親から電話があって、「正直に話しておきたい」と言われた。電話を切った後、しばらく公園のベンチに座っていた。何も考えられなかった。ただ、目の前の地面をじっと見ていた。
病院には週に一度は行った。
澪はいつも笑っていた。「大げさだよ」とか「蒼くんのほうが顔色悪い」とか言いながら、笑っていた。その笑顔が、ありがたくて、同時に苦しかった。僕のために笑っているのかもしれないと思うと、何を言えばいいかわからなくなった。
好きだと、言えなかった。
病院の廊下で、帰り道の電車の中で、夜眠れない時間に何度も言おうとした。でも言えなかった。もし言ったら、澪に余計な心配をかけるかもしれないと思った。もし言ったら、何かが変わってしまう気がして怖かった。
結局、伝えたのは、最後の三日前だった。
夕焼けの病室で、窓の外が橙色に染まっていた。酸素チューブをつけながら、澪はベッドの上で僕を見て言った。「蒼って、わたしのこと好きでしょ」と。
僕はうなずいた。
澪は少し目を細めて、笑った。「知ってた。ずっと知ってたよ」と言って、それから「もっと早く言えばよかったのにね」と言った。責めているわけではない声だった。でも、その言葉は今も胸に刺さったままだ。
もっと早く言えばよかった。
何度思っても、もう遅かった。
* * *
雨がやんだのは、夕方だった。
雲の隙間から西日が差し込んで、濡れた道路が光っていた。窓を少し開けると、冷たい空気と一緒に、土と草の匂いが入ってきた。雨上がりの匂いだ。
澪はこの匂いが好きだった。
「なんか落ち着く」と言っていた。「雨が全部洗い流してくれた感じがして」
洗い流してくれたらよかった。
二年間の空白も、言えなかった言葉も、全部。
でも雨はそういうものを洗い流してくれない。土の匂いがするだけで、何も変わらない。明日もまた同じ朝が来て、同じ天井を見て、同じように過ごす。
わかっていた。
それでも、窓を開けたまま、しばらくその匂いを吸い込んでいた。
澪が好きだったものを、少しでも共有したくて。
* * *
夜、眠りに落ちる前に、ふと思った。
どこかに、澪が生きている世界があったらどうだろう。
馬鹿げた考えだと思った。そんなものがあるはずがない。死んだ人は死んでいて、いなくなった人はいなくなっている。それが現実だ。
でも、目を閉じると、また思った。
どこかに、あったらどうだろう。
その問いを持ったまま、眠りに落ちた。
その夜の夢は、いつもと同じ白い光だった。
雨は全部を洗い流してはくれなかった。
でもその夜、眠りながら僕はどこかを探していた。
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