繰り返す夜と嘘 〜【実録】既婚の僕と後輩の彼女、あの夜のキスから始まった13年の秘密〜

まさき

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【第0章】越えてしまった夜

0-3 境界線の向こう側

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0-3 境界線の向こう側 

朝、目が覚めたとき、妻はもう隣にいなかった。
 
台所からは、規則正しい音が聞こえてくる。
弁当箱のふたが閉まる乾いた音。
トントンと軽快に響く包丁の音。
 
ほどなくして、湯気の立つ味噌汁の匂いが、
拒絶のしようのない「いつもの朝」を寝室まで連れてくる。
 
僕は布団の中で天井を見つめたまま、
身体を起こすタイミングを失っていた。
 
――どうして彼女は、こんなにも平然と「妻」でいられるのだろう。
 
網膜の裏側には、
昨夜の月光と、彼女の潤んだ瞳がまだ焼き付いている。
 
指先には彼女の頬の熱が、
唇にはあの柔らかな弾力が残っているような気がして、
 
それなのに台所では、
何事もなかったように包丁が動き続けている。
 
あの「うん」は何だったのか。
あの沈黙は、何を意味していたのか。
 
答えを持たない問いが、
まだ覚醒しきらない頭の中をぐるぐると巡り続ける。
 
僕はシーツの下で、
そっと拳を握りしめた。
 
昨夜、家に戻ったあとの記憶は曖昧だ。
 
どんな顔をして「ただいま」と言ったのか。
どんな言い訳をして寝室へ逃げ込んだのか。
 
鏡の中の自分を見るのが怖くて、
昨夜は一度も正視できなかった。
 
後ろめたさ、というものは不思議だ。
 
罪悪感は痛みではなく、
じわじわと体温を奪っていく冷気のように、
 
気づいた頃には全身に染み渡っている。
 
「おはよう」という言葉さえ、
喉の奥に引っかかって上手く出てこない。
 
普段なら何でもない、たった四文字。
 
それが今朝は、
とてつもない重さを持って僕の喉を塞いでいた。
 
身支度を整え、
妻を助手席に乗せて車を出す。
 
いつもの通勤ルート。
 
信号の位置も、
ハンドルを切るタイミングも、
 
すべては習慣の中に組み込まれている。
 
フロントガラス越しに見える街の景色は、
昨日までと何も変わっていない。
 
変わってしまったのは、
僕の方だけだ。
 
それが余計に、苦しかった。
 
世界が昨日と地続きであることが、
まるで自分の罪を嘲笑っているような気がした。
 
「今日、忙しい?」
 
ふいに隣の妻が、
手帳を確認しながら聞いた。
 
「……たぶんね。打ち合わせが重なってる」
 
会話は成立している。
 
声のトーンも、受け答えも、
何一つおかしくはないはずだ。
 
けれど内側では、
まったく別の問いが渦を巻いていた。
 
――彼女は今、何を考えているのだろう。
 
昨夜のことを、
まだ引きずっているのだろうか。
 
それとも、
とうに片付けて前を向いているのだろうか。
 
隣に座っているのに、
妻の心がどこにあるのかまったく分からなかった。
 
昨夜、触れた唇の感触。
 
言葉を飲み込んだ、
あの重苦しい沈黙。
 
「おやすみ」と言って
彼女が去っていった、
 
あの絶望的なまでに曖昧な幕切れ。
 
何かが始まったのか。
 
それとも、
賢明な大人のマナーとして
 
「何も起きなかったこと」にされるのか。
 
どちらであっても、
僕には確かめる術がなかった。
 
妻を職場で降ろし、
一人になった車内で、
 
ようやく思考の濁流が追いついてくる。
 
――あれは、一体何だったんだ。
 
問いは浮かぶのに、
答えはどこにも転がっていない。
 
無人になった助手席が、
自分の犯した罪を無言で責めているような気がして、
 
僕はアクセルを強く踏み込んだ。
 
逃げるように。
 
それとも、
何かに追いつこうとするように。
 
自分でも判断のつかないまま、
車だけが前へと進んだ。
 
職場に着いても、
どうしても気持ちを切り替えることができなかった。
 
PCを立ち上げても、
メールの一行目が頭に入ってこない。
 
無意識に、
視線がオフィスの入り口を探してしまう。
 
彼女の姿を。
 
こんな自分が、
酷く滑稽に思えた。
 
四十を過ぎた男が、
まるで初恋に浮かれる少年のように、
 
オフィスの入り口ばかりを気にしている。
 
分かっている。
 
分かっているのに、
視線は勝手に動いてしまう。
 
午前中の仕事を、
半ば魂が抜けた状態でこなし、
 
静かな廊下で
彼女とすれ違ったとき。
 
僕はたまらず、足を止めた。
 
周囲に人がいないことを確認し、
彼女の名前を呼ぶ。
 
「……昨日のこと、覚えてる?」
 
自分でも驚くほど、
ぶっきらぼうで余裕のない声が出た。
 
もっと他に言い方があったはずなのに、
焦りが言葉を歪ませた。
 
聞きたいことは山ほどあった。
 
あの瞬間、何を考えていたのか。
今、どんな気持ちでいるのか。
僕のことを、どう思っているのか。
 
それなのに口をついて出たのは、
あんな無粋な一言だけだった。
 
彼女は一瞬だけ足を止めた。
 
けれど、
僕と視線を合わせることはなかった。
 
長く伸びた睫毛が、
微かに震える。
 
その小さな震えに、
僕は息が止まりそうになった。
 
彼女は小さく唇を開いた。
 
「うん」
 
それだけ言って、
彼女は再び歩き出した。
 
振り返ることもなく、
ヒールの音を一定のリズムで響かせながら、
 
角の向こうへと消えていく。
 
肯定、なのだろうか。
 
それとも、
「もうその話はしないで」という拒絶の合図なのか。
 
たった一音節が、
これほど多くの意味を孕むことができるのか、と
 
僕はその場に立ち尽くしたまま、
彼女の消えた角をいつまでも見つめていた。
 
彼女の通り過ぎたあとに残った、
微かな柔軟剤の香りが、
 
余計に僕を混乱させた。
 
午後の仕事に戻っても、
頭は空回りし続けた。
 
ディスプレイに並ぶ数字や文字を、
何度も何度も読み返す。
 
意味は分かる。
 
けれど、
内容がまったく脳まで届かない。
 
彼女の、あの「うん」という一言が、
耳の奥で何度も繰り返される。
 
短くて、
これといった感情の乗っていない声。
 
あれは
「記憶にある」という意味だったのか。
 
それとも、
昨夜を無かったことにするための
 
事務的な承諾だったのか。
 
どちらであっても、
どちらでなくても、
 
この胸の奥でくすぶり続けるものは、
簡単には消えてくれそうになかった。
 
書類に目を落とすたび、
昨夜の感触が鮮明に蘇る。
 
触れた瞬間の、爆発するような熱。
 
離れた後の、
逃げ出したくなるような沈黙。
 
周りの同僚たちはいつも通り、
世間話を交えながらデスクに向かっている。
 
世界は昨日と地続きで、
何一つ狂っていない。
 
自分だけが、
この世界の理から
 
数センチだけズレた場所に立っているような、
奇妙な浮遊感があった。
 
このまま、
何事もなかった顔で終わらせていいのか。
 
それとも――。
 
思考がそこまで辿り着くたび、
僕は無理やり視線をディスプレイへ戻した。
 
今はまだ、
答えを出すべき時間じゃない。
 
いや。
 
答えを出すのが怖くて、
逃げているだけなのかもしれない。
 
本当のことを言えば、
 
どちらの答えも、
怖かった。
 
「何もなかった」と結論づけられることも。
 
「何かが始まった」と認めてしまうことも。
 
どちらに転んでも、
今の自分には背負いきれない重さがある。
 
そう自分に言い聞かせながら、
 
僕はただ、
無機質なキーボードの打鍵音を
 
防壁を築くように
響かせ続けた。
 
第4話へ続く
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