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第一話:深夜のリビング(お悩み相談から)【前編】
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第一話:深夜のリビング(お悩み相談から)【前編】
「これは恋じゃない。ただの、共同作業だと思ってた。」
午前一時のリビングは、まるで深海に沈んだかのように静まり返っていた。
天井のメイン照明は落とし、部屋の隅にあるフロアスタンドのオレンジ色の光だけが、ローテーブルの上を心許なく照らしている。その狭い円卓の上には、無機質な明朝体で刷られた『PTA広報誌・秋号構成案』の束と、すっかり表面に膜が張った、冷めきった二つのコーヒーカップ。
俺のすぐ隣――あと数センチ動けば肩が触れ合う距離には、彼女が座っている。
同じ小学校に子供を通わせるママ友。
丸顔で、実年齢よりもずっと幼く見える彼女は、学校の正門前で会う時はいつも、隙のない「良き母親」の仮面を被っていた。だが、深夜の密室で向き合う彼女は、いつもきっちりまとめている髪を解き、少しだけボタンを外したブラウスの襟元から、熱を持った肌の匂いを漂わせている。
「……すみません。こんな夜遅くまで、付き合わせちゃって」
彼女が伏せ目がちに、消え入りそうな声で呟いた。
俺の妻は、実家の法事で子供を連れて数日前から帰省している。彼女の夫は外資系勤務で、月の半分は家を空けるという。「家の方が作業に集中できるから」という、誰に対しても、そして自分自身に対しても言い訳の立つ『ロジック』を用意して、俺たちはこの部屋に二人きりになることを選んだのだ。
「いいんですよ。一人でやるより、ずっと効率がいいですから。これも……子供たちのための、大事な共同作業、でしょう?」
俺の声は、自分でも驚くほど乾いた響きを立てた。
資料の誤字を指差すたびに、彼女の指先が、俺の手に触れそうになる。
彼女の指は細く、白く、それでいて家事の苦労を感じさせないほど柔らかそうだった。その指が、資料の端を掴んだまま微かに震えていることに気づいた時、俺の心臓は、重い鉛を飲み込んだような鈍い音を立てた。
「……共同作業。そう、ですよね。私たち、役割を果たしてるだけ」
彼女は自嘲気味に微笑んだ。その微笑みが、心なしか泣いているように見えて、俺は資料をめくる手を止めた。
「どうしたんですか、そんな顔して」
「……私、自分が誰なのか、時々わからなくなるんです。学校へ行けば『〇〇君のお母さん』と呼ばれ、家に帰れば『ママ』と呼ばれる。夫からは、名前すら呼ばれることはありません。私は、この家庭というシステムを円滑に回すための、代わりのきくパーツなんじゃないかって。誰でもいいんじゃないかって……」
彼女の丸い瞳に、じわりと涙が溜まる。
童顔な彼女が浮かべたその表情は、守ってあげたいという男の本能を、容赦なく抉り取った。
俺だってそうだ。会社では代わりのきく歯車、家では家族というプロジェクトを維持するためのATM。一人の男として、誰かに名前を呼ばれ、強く求められたいという飢えは、もう何年も前から、この胸の奥に澱のように溜まっていた。
「……わかりますよ。僕だって、このリビングに一人で座っている時、自分が消えてしまいそうな感覚に陥ることがある。誰かに、ただの『自分』として触れてほしいと願ってしまう」
俺は、気づけば彼女の手に触れていた。
資料の上に置かれた、頼りなげな指先。
彼女はびくりと肩を揺らしたが、手を引きはしなかった。それどころか、すがるように俺の手を握り返してきた。
「寂しかったんです。ずっと、誰かに見つけてほしかった。母親でも、奥さんでもない、ただの私を。……今日、ここに来る時から、私、本当はわかってたのかもしれません」
彼女の潤んだ瞳が、俺の視線を絡めとる。
その瞳の奥には、長年押し殺してきた孤独と、それと同じくらい激しい、破壊的な衝動が燃えていた。
至近距離で重なる、二人の熱い呼吸。
空気中に漂う、冷めたコーヒーの苦い香りと、彼女の首筋から立ち昇る甘い石鹸の匂いが混じり合い、俺の理性を麻痺させていく。
俺たちは、PTAの資料という『日常』を盾にして、その裏側にある『非日常』へと足を踏み出そうとしていた。
「これは、お悩み相談ですよ。ママ友同士の、よくある交流の延長だ。誰も責めやしない」
俺は、自分たちの退路を確保するように囁いた。
彼女は、縋り付くような力で俺の腕を掴むと、その幼い唇を震わせながら応えた。
「ええ。私たちはただ、お互いを助け合っているだけ。……そう、ですよね?」
その瞬間、俺は彼女の細い腰を引き寄せた。
ブラウス越しに伝わる、驚くほど柔らかい熱。
リビングの壁に掛かった家族写真が、暗がりの中で俺たちを責めるように見守っている。だが、今の俺にとって、それは別世界の出来事でしかなかった。
日常のロジックが、音を立てて崩壊し始める。
俺は、彼女の丸い頬にそっと手を添え、その唇へとゆっくり顔を近づけた。
彼女は目を閉じ、受け入れるように顎を上げた。
「これは恋じゃない。ただの、共同作業だと思ってた。」
午前一時のリビングは、まるで深海に沈んだかのように静まり返っていた。
天井のメイン照明は落とし、部屋の隅にあるフロアスタンドのオレンジ色の光だけが、ローテーブルの上を心許なく照らしている。その狭い円卓の上には、無機質な明朝体で刷られた『PTA広報誌・秋号構成案』の束と、すっかり表面に膜が張った、冷めきった二つのコーヒーカップ。
俺のすぐ隣――あと数センチ動けば肩が触れ合う距離には、彼女が座っている。
同じ小学校に子供を通わせるママ友。
丸顔で、実年齢よりもずっと幼く見える彼女は、学校の正門前で会う時はいつも、隙のない「良き母親」の仮面を被っていた。だが、深夜の密室で向き合う彼女は、いつもきっちりまとめている髪を解き、少しだけボタンを外したブラウスの襟元から、熱を持った肌の匂いを漂わせている。
「……すみません。こんな夜遅くまで、付き合わせちゃって」
彼女が伏せ目がちに、消え入りそうな声で呟いた。
俺の妻は、実家の法事で子供を連れて数日前から帰省している。彼女の夫は外資系勤務で、月の半分は家を空けるという。「家の方が作業に集中できるから」という、誰に対しても、そして自分自身に対しても言い訳の立つ『ロジック』を用意して、俺たちはこの部屋に二人きりになることを選んだのだ。
「いいんですよ。一人でやるより、ずっと効率がいいですから。これも……子供たちのための、大事な共同作業、でしょう?」
俺の声は、自分でも驚くほど乾いた響きを立てた。
資料の誤字を指差すたびに、彼女の指先が、俺の手に触れそうになる。
彼女の指は細く、白く、それでいて家事の苦労を感じさせないほど柔らかそうだった。その指が、資料の端を掴んだまま微かに震えていることに気づいた時、俺の心臓は、重い鉛を飲み込んだような鈍い音を立てた。
「……共同作業。そう、ですよね。私たち、役割を果たしてるだけ」
彼女は自嘲気味に微笑んだ。その微笑みが、心なしか泣いているように見えて、俺は資料をめくる手を止めた。
「どうしたんですか、そんな顔して」
「……私、自分が誰なのか、時々わからなくなるんです。学校へ行けば『〇〇君のお母さん』と呼ばれ、家に帰れば『ママ』と呼ばれる。夫からは、名前すら呼ばれることはありません。私は、この家庭というシステムを円滑に回すための、代わりのきくパーツなんじゃないかって。誰でもいいんじゃないかって……」
彼女の丸い瞳に、じわりと涙が溜まる。
童顔な彼女が浮かべたその表情は、守ってあげたいという男の本能を、容赦なく抉り取った。
俺だってそうだ。会社では代わりのきく歯車、家では家族というプロジェクトを維持するためのATM。一人の男として、誰かに名前を呼ばれ、強く求められたいという飢えは、もう何年も前から、この胸の奥に澱のように溜まっていた。
「……わかりますよ。僕だって、このリビングに一人で座っている時、自分が消えてしまいそうな感覚に陥ることがある。誰かに、ただの『自分』として触れてほしいと願ってしまう」
俺は、気づけば彼女の手に触れていた。
資料の上に置かれた、頼りなげな指先。
彼女はびくりと肩を揺らしたが、手を引きはしなかった。それどころか、すがるように俺の手を握り返してきた。
「寂しかったんです。ずっと、誰かに見つけてほしかった。母親でも、奥さんでもない、ただの私を。……今日、ここに来る時から、私、本当はわかってたのかもしれません」
彼女の潤んだ瞳が、俺の視線を絡めとる。
その瞳の奥には、長年押し殺してきた孤独と、それと同じくらい激しい、破壊的な衝動が燃えていた。
至近距離で重なる、二人の熱い呼吸。
空気中に漂う、冷めたコーヒーの苦い香りと、彼女の首筋から立ち昇る甘い石鹸の匂いが混じり合い、俺の理性を麻痺させていく。
俺たちは、PTAの資料という『日常』を盾にして、その裏側にある『非日常』へと足を踏み出そうとしていた。
「これは、お悩み相談ですよ。ママ友同士の、よくある交流の延長だ。誰も責めやしない」
俺は、自分たちの退路を確保するように囁いた。
彼女は、縋り付くような力で俺の腕を掴むと、その幼い唇を震わせながら応えた。
「ええ。私たちはただ、お互いを助け合っているだけ。……そう、ですよね?」
その瞬間、俺は彼女の細い腰を引き寄せた。
ブラウス越しに伝わる、驚くほど柔らかい熱。
リビングの壁に掛かった家族写真が、暗がりの中で俺たちを責めるように見守っている。だが、今の俺にとって、それは別世界の出来事でしかなかった。
日常のロジックが、音を立てて崩壊し始める。
俺は、彼女の丸い頬にそっと手を添え、その唇へとゆっくり顔を近づけた。
彼女は目を閉じ、受け入れるように顎を上げた。
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