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多目的トイレ(初回)
第1話:窓口のノイズと、彼女の瞳
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第1話:窓口のノイズと、彼女の瞳
役所の窓口という場所は、市民にとっては「願いを叶える場所」だが、そこで働く人間にとっては、絶え間なく押し寄せる要求の波に耐える防波堤のようなものだ。
その日、僕のすぐ後ろの席で、新人の彼女がまた困り果てていた。建築職として配属されたばかりの彼女は、市民から矢継ぎ早に投げかけられる専門用語と、役所特有の複雑な手続きの渦に飲まれ、まるで迷子の子供のように目を泳がせていた。
「ええと……それは、こちらの図面では確認できなくて……少々お待ちください……」
震える声、指先で必死にマニュアルを繰る音。彼女の小さな背中が、不安と焦燥で縮こまっている。相手の市民は苛立ちを隠さず、カウンターを指先で叩き始めた。その音が、執務室の中に不穏なノイズとして響く。
僕は見かねて立ち上がり、彼女の横にすっと立った。
「そこは道路管理課の範疇ですね。あちらの窓口までご案内しましょうか。図面はこちらで預かって、後で共有しておきますから」
僕が澱みなく対応を代わり、柔らかな物腰で先導すると、荒立っていた市民の表情も次第に和らぎ、納得して去っていった。嵐が過ぎ去った後の静寂の中で、彼女は椅子から立ち上がり、心底安心したように何度も頭を下げた。
「先輩……本当に、本当にありがとうございました。私、頭が真っ白になっちゃって……」
「いいよ。建築基準法も条例も、一気に覚えるのは無理だから。一個ずつ、現場を見ながら覚えていけばいいんだ」
僕は努めて穏やかに、非の打ち所がない「頼れる先輩」の顔でそう言った。彼女の潤んだ瞳には、僕への純粋な、あまりに無防備な信頼だけが宿っていた。その真っ直ぐな視線が、僕の胸の奥に潜む暗い何かを、微かに疼かせた。
その日の夕方、定時を過ぎた頃だった。季節外れの風邪のせいか、それとも重なった残業の疲れか、急な眩暈が僕を襲った。視界がぐにゃりと歪み、冷や汗が背中を伝う。僕はデスクを片付け、ふらつく足取りでエレベーターホールへと歩き出した。
「先輩? 大丈夫ですか?」
後ろからパタパタと小走りの音が近づいてきた。振り返ると、そこにはまだ作業着姿の彼女が、顔を真っ赤にして息を切らせていた。
「顔色がすごく悪いです……。下まで、肩を貸しましょうか?」
一度は大丈夫だと断った。だが、彼女は「昨日助けていただいたお礼ですから」と引き下がらなかった。
「ほら、捕まってください。恥ずかしがることなんてないですよ」
彼女は僕の右腕を取り、強引に自分の肩に回した。その瞬間、僕の中で決定的な変質が起きた。
作業着の硬い生地越しに伝わってくる、若く、弾力のある女性の肉体の質感。僕の体重を支えようと踏ん張る彼女の体温が、ダイレクトに僕の肌に染み込んでくる。
密着した体から漂うのは、石鹸のような、微かな柔軟剤の香り。それが朦朧とした僕の意識を、日常の光から切り離し、深く、暗い欲望の底へと引き摺り込んでいく。
「……すみません、少し休みましょうか。あそこ、多目的トイレがありますから」
彼女は僕を気遣い、誰もいない廊下の奥にある個室へと誘導した。
僕はそこで彼女の肩から手を離し、壁に背を預けた。
「……ありがとな。ここでいい。君は、もう帰っていいよ」
だが、彼女の「真面目さ」が、僕の最後の一線を踏み越えさせた。
彼女は個室の入り口で立ち止まり、上目遣いに僕の顔を覗き込んできたのだ。その瞳には、相変わらず僕を疑うことのない、透明な善意だけが満ちていた。
「えっ、でも……本当に大丈夫ですか? お水とか、買ってきましょうか? 何か私に……手伝えること、ありませんか……?」
上目遣いで僕を気遣う、その無防備すぎる一言。
その瞬間、僕の中に辛うじて残っていた理性の糸が、不快なほど鮮明な音を立てて千切れた。
手伝いたい? ああ、そうか。それなら、望み通りにさせてやろう。
「……じゃあ、手伝って」
僕は彼女の細い手首を掴んだ。彼女が驚いて声を上げる間もなく、その体を多目的トイレの暗がりの中へと強引に引きずり込んだ。
扉が閉まり、ロックされる「カチリ」という無機質な音。
それが、僕の日常が最後に聞いた音だった。
第2話:沈黙の境界線へ続く
役所の窓口という場所は、市民にとっては「願いを叶える場所」だが、そこで働く人間にとっては、絶え間なく押し寄せる要求の波に耐える防波堤のようなものだ。
その日、僕のすぐ後ろの席で、新人の彼女がまた困り果てていた。建築職として配属されたばかりの彼女は、市民から矢継ぎ早に投げかけられる専門用語と、役所特有の複雑な手続きの渦に飲まれ、まるで迷子の子供のように目を泳がせていた。
「ええと……それは、こちらの図面では確認できなくて……少々お待ちください……」
震える声、指先で必死にマニュアルを繰る音。彼女の小さな背中が、不安と焦燥で縮こまっている。相手の市民は苛立ちを隠さず、カウンターを指先で叩き始めた。その音が、執務室の中に不穏なノイズとして響く。
僕は見かねて立ち上がり、彼女の横にすっと立った。
「そこは道路管理課の範疇ですね。あちらの窓口までご案内しましょうか。図面はこちらで預かって、後で共有しておきますから」
僕が澱みなく対応を代わり、柔らかな物腰で先導すると、荒立っていた市民の表情も次第に和らぎ、納得して去っていった。嵐が過ぎ去った後の静寂の中で、彼女は椅子から立ち上がり、心底安心したように何度も頭を下げた。
「先輩……本当に、本当にありがとうございました。私、頭が真っ白になっちゃって……」
「いいよ。建築基準法も条例も、一気に覚えるのは無理だから。一個ずつ、現場を見ながら覚えていけばいいんだ」
僕は努めて穏やかに、非の打ち所がない「頼れる先輩」の顔でそう言った。彼女の潤んだ瞳には、僕への純粋な、あまりに無防備な信頼だけが宿っていた。その真っ直ぐな視線が、僕の胸の奥に潜む暗い何かを、微かに疼かせた。
その日の夕方、定時を過ぎた頃だった。季節外れの風邪のせいか、それとも重なった残業の疲れか、急な眩暈が僕を襲った。視界がぐにゃりと歪み、冷や汗が背中を伝う。僕はデスクを片付け、ふらつく足取りでエレベーターホールへと歩き出した。
「先輩? 大丈夫ですか?」
後ろからパタパタと小走りの音が近づいてきた。振り返ると、そこにはまだ作業着姿の彼女が、顔を真っ赤にして息を切らせていた。
「顔色がすごく悪いです……。下まで、肩を貸しましょうか?」
一度は大丈夫だと断った。だが、彼女は「昨日助けていただいたお礼ですから」と引き下がらなかった。
「ほら、捕まってください。恥ずかしがることなんてないですよ」
彼女は僕の右腕を取り、強引に自分の肩に回した。その瞬間、僕の中で決定的な変質が起きた。
作業着の硬い生地越しに伝わってくる、若く、弾力のある女性の肉体の質感。僕の体重を支えようと踏ん張る彼女の体温が、ダイレクトに僕の肌に染み込んでくる。
密着した体から漂うのは、石鹸のような、微かな柔軟剤の香り。それが朦朧とした僕の意識を、日常の光から切り離し、深く、暗い欲望の底へと引き摺り込んでいく。
「……すみません、少し休みましょうか。あそこ、多目的トイレがありますから」
彼女は僕を気遣い、誰もいない廊下の奥にある個室へと誘導した。
僕はそこで彼女の肩から手を離し、壁に背を預けた。
「……ありがとな。ここでいい。君は、もう帰っていいよ」
だが、彼女の「真面目さ」が、僕の最後の一線を踏み越えさせた。
彼女は個室の入り口で立ち止まり、上目遣いに僕の顔を覗き込んできたのだ。その瞳には、相変わらず僕を疑うことのない、透明な善意だけが満ちていた。
「えっ、でも……本当に大丈夫ですか? お水とか、買ってきましょうか? 何か私に……手伝えること、ありませんか……?」
上目遣いで僕を気遣う、その無防備すぎる一言。
その瞬間、僕の中に辛うじて残っていた理性の糸が、不快なほど鮮明な音を立てて千切れた。
手伝いたい? ああ、そうか。それなら、望み通りにさせてやろう。
「……じゃあ、手伝って」
僕は彼女の細い手首を掴んだ。彼女が驚いて声を上げる間もなく、その体を多目的トイレの暗がりの中へと強引に引きずり込んだ。
扉が閉まり、ロックされる「カチリ」という無機質な音。
それが、僕の日常が最後に聞いた音だった。
第2話:沈黙の境界線へ続く
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