「今更、あなたの娘のふりなどできません」〜ずっと支えていた手を、そっと引っ込めただけです〜

まさき

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第七話「誰も、気づかなかった」

第七話「誰も、気づかなかった」
 
 
 屋敷を出ると決めてから、一週間が経った。
 
 
 その間、リーナは何も変えなかった。
 朝の掃除をして、カトリナの使い走りをして、ヘルタやグレタの手伝いをして——いつもと同じ一日を、いつもと同じように過ごした。
 
 
 誰にも気づかれないように。
 誰にも悟られないように。
 
 
 それだけを、静かに続けた。
 
 
  ◇
 
 
 出ていく日の朝を、リーナはいつもより一時間早く目が覚めた。
 
 
 起き上がって、まず手のひらを見た。
 温かい。今日も温かい。
 
 
 窓の外はまだ暗かった。夜明け前の、いちばん静かな時間だ。屋敷の中に人の気配はない。使用人たちが動き出すのはもう少し後だ。
 
 
 リーナは静かに布団を畳んだ。
 
 
 きちんと畳んだ。誰かが後で使うかもしれないから。
 枕も整えた。シーツも直した。
 三年間使った部屋を、来たときと同じくらい綺麗にしてから、出ていこうと思った。
 
 
  ◇
 
 
 戸棚から革鞄を取り出した。
 
 
 父の形見のブローチ。着替えが二枚。硬貨が少し。
 一週間前に詰めたままだ。これで全部だ。
 
 
 部屋を見回した。
 狭い。暗い。北側の、日当たりのいちばん悪い場所。
 三年間、ここがリーナの場所だった。
 
 
 怒りは、ない。
 悲しみも、もうほとんどない。
 ただ静かに、そうか、と思うだけだ。
 
 
 最後にもう一度だけ、窓の外を見た。
 庭の端が見える。オットーの花壇が、暗がりの中にある。
 ローズマリーは今夜も、そこにあるだろう。
 
 
 リーナは窓から視線を外して、扉に向かった。
 
 
  ◇
 
 
 廊下に出ると、空気が冷たかった。
 
 
 北側の廊下はいつも冷える。暖炉の調子が悪いから。三年間、誰も直してくれなかった。
 でも今夜は、それでいい。
 
 
 リーナは音を立てないように歩いた。
 革鞄を体に引き寄せて、足音を殺して、息を整えて。
 
 
 ソフィアの寝室の前を通った。
 扉の向こうから、かすかな寝息が聞こえた。
 
 
 リーナは立ち止まらなかった。
 
 
 カトリナの部屋の前を通った。
 真っ暗で、静かだ。
 
 
 立ち止まらなかった。
 
 
 マリアの部屋の前を通った。
 同じく、静かだ。
 
 
 立ち止まらなかった。
 
 
 アルベルトの書斎の前を通った。
 扉の隙間から、かすかに灯りが見えた。今夜も書斎で眠り込んでいるのだろう。
 
 
 リーナはその灯りを一瞬だけ見て、また歩き出した。
 
 
  ◇
 
 
 階段を下りながら、ふとヘルタのことを思った。
 
 
 明日の朝、リーナがいないことに気づくのはヘルタが最初だろう。廊下の掃除がされていない、カーテンが開いていない、そういうことで気づくはずだ。
 
 
 心配させてしまうかもしれない。
 
 
 でも、言葉を残すことはしなかった。
 何か書いて置いていけば、誰かに見つかる。見つかる前に捕まるかもしれない。
 それに——何を書けばいいかも、わからなかった。
 
 
 ありがとう、は伝えたかった。
 でも紙に書いた「ありがとう」が、ヘルタに届くかどうか、わからない。
 
 
 いつか、別の形で。
 
 
 リーナはそう思いながら、階段を下り切った。
 
 
  ◇
 
 
 調理場の前を通ったとき、パンの匂いがした。
 
 
 おかしいな、とリーナは思った。グレタが来るにはまだ早い時間だ。
 
 
 でも確かに、かすかにパンの匂いがする。
 昨日焼いたパンの名残りかもしれない。それとも——
 
 
 リーナは立ち止まって、調理場の扉をそっと見た。
 
 
 灯りはついていない。誰もいない。
 
 
 ただ、空気が柔らかかった。
 いつもの、あの感じだ。
 
 
 リーナは手のひらを見た。
 温かい。
 
 
 この温かさが何なのか、リーナにはまだわからない。でも今夜、この屋敷を出ていくとき、この手は確かに温かかった。
 
 
 それだけは、覚えておこうと思った。
 
 
  ◇
 
 
 玄関の扉を、そっと開けた。
 
 
 夜風が頬に触れた。冷たくて、どこか清々しい風だ。
 外の空気は、屋敷の中とは違う匂いがした。
 
 
 リーナは一歩、外に出た。
 
 
 振り返らなかった。
 
 
 別れの言葉はいらない。恨み言も、いらない。泣くつもりもなかった。怒るつもりもなかった。
 
 
 ただ静かに、扉を閉めた。
 
 
 誰も、気づかなかった。
 
 
  ◇
 
 
 夜明け前の道を、リーナはひとりで歩いた。
 
 
 街の灯りが遠くに見える。まだ眠っている街だ。でも少しずつ、空の端が明るくなり始めていた。
 
 
 リーナは革鞄を肩にかけて、まっすぐ前を向いた。
 
 
 どこへ行くか、まだはっきりとは決まっていない。
 でも、ひとつだけ決めていることがある。
 
 
 次に自分の名前を名乗るとき——
 リーナは、リーナとして名乗る。
 
 
 誰かに間違えられた名前でも、誰かの都合で呼ばれた名前でもなく。
 
 
 自分の、名前で。
 
 
 空がだんだん明るくなっていく。
 リーナの足取りは、ゆっくりだったけれど、迷いがなかった。
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