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第三章 完璧な妻の仮面
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第三章 完璧な妻の仮面
完璧な妻でいることは、思ったより簡単だった。
朝は誠より早く起きて、朝食を用意する。夜は残業で遅くなると連絡が来たら、温め直せる料理を作って待つ。休日は誠の好きなペースに合わせて、行きたい場所に付き合う。不満は飲み込んで、笑顔を絶やさない。
それだけでよかった。少なくとも、麗奈と出会う前までは。
あの飲み会から三ヶ月が経っていた。
誠の帰りが遅くなり始めたのは、ちょうどその頃からだ。最初は月に一度、二度。それが週に一度になり、気づけば帰らない夜もちらほら出てきた。理由はいつも同じだった。
「プロジェクトが忙しくて」
「チームで飲みがあって」
「終電なくした」
私は毎回、「わかった」と答えた。責めなかった。詮索もしなかった。ただ翌朝、誠の分のコーヒーを淹れて、温かい朝食を用意して、何事もなかったように笑った。
職場の同僚、田中さんに言われたことがある。
「橘さんって、いつも穏やかですよね。旦那さんのこと、愚痴ったりしないし」
「仲がいいんですよ」と私は笑って答えた。
嘘じゃなかった。たぶん。
ただ、仲がいいのと、すれ違っていないのは、別の話だと最近思い始めていた。
転機になったのは、ある土曜日のことだ。
誠と二人で近所のスーパーへ買い物に行った帰り、誠のスマートフォンが鳴った。誠は袋を私に預けて、少し離れたところで電話に出た。背中しか見えなかったけれど、肩の力が抜けて、声のトーンが上がるのがわかった。
通話は五分ほどで終わった。
「誰から?」
聞くつもりはなかった。でも口から出ていた。
「麗奈。仕事の確認」
誠はさらりと答えて、袋を受け取った。それだけだった。それだけのことだった。
でも私の胸の中で、何かが静かに軋んだ。
土曜日の昼間に、仕事の確認。
おかしいとは言えない。でも自然とも言えない。私はその違和感を、いつものように飲み込んだ。笑顔を作って、夕飯の献立を考えながら、誠の隣を歩いた。
家に帰って、料理をしながら、ふと鏡に映る自分の顔を見た。
笑っていた。
誰に見せるわけでもないのに、笑っていた。いつの間にか、笑顔が素顔になっていた。感情を表に出さないことが、呼吸と同じくらい自然になっていた。
これが完璧な妻というものなら、私はずいぶんうまくなったものだと思った。
誠が「うまい」と言いながら夕食を食べた。私は「ありがとう」と返した。
窓の外では、春の夕暮れがゆっくりと沈んでいた。
その色が、どうしてかひどく寂しく見えた。
完璧な妻でいることは、思ったより簡単だった。
朝は誠より早く起きて、朝食を用意する。夜は残業で遅くなると連絡が来たら、温め直せる料理を作って待つ。休日は誠の好きなペースに合わせて、行きたい場所に付き合う。不満は飲み込んで、笑顔を絶やさない。
それだけでよかった。少なくとも、麗奈と出会う前までは。
あの飲み会から三ヶ月が経っていた。
誠の帰りが遅くなり始めたのは、ちょうどその頃からだ。最初は月に一度、二度。それが週に一度になり、気づけば帰らない夜もちらほら出てきた。理由はいつも同じだった。
「プロジェクトが忙しくて」
「チームで飲みがあって」
「終電なくした」
私は毎回、「わかった」と答えた。責めなかった。詮索もしなかった。ただ翌朝、誠の分のコーヒーを淹れて、温かい朝食を用意して、何事もなかったように笑った。
職場の同僚、田中さんに言われたことがある。
「橘さんって、いつも穏やかですよね。旦那さんのこと、愚痴ったりしないし」
「仲がいいんですよ」と私は笑って答えた。
嘘じゃなかった。たぶん。
ただ、仲がいいのと、すれ違っていないのは、別の話だと最近思い始めていた。
転機になったのは、ある土曜日のことだ。
誠と二人で近所のスーパーへ買い物に行った帰り、誠のスマートフォンが鳴った。誠は袋を私に預けて、少し離れたところで電話に出た。背中しか見えなかったけれど、肩の力が抜けて、声のトーンが上がるのがわかった。
通話は五分ほどで終わった。
「誰から?」
聞くつもりはなかった。でも口から出ていた。
「麗奈。仕事の確認」
誠はさらりと答えて、袋を受け取った。それだけだった。それだけのことだった。
でも私の胸の中で、何かが静かに軋んだ。
土曜日の昼間に、仕事の確認。
おかしいとは言えない。でも自然とも言えない。私はその違和感を、いつものように飲み込んだ。笑顔を作って、夕飯の献立を考えながら、誠の隣を歩いた。
家に帰って、料理をしながら、ふと鏡に映る自分の顔を見た。
笑っていた。
誰に見せるわけでもないのに、笑っていた。いつの間にか、笑顔が素顔になっていた。感情を表に出さないことが、呼吸と同じくらい自然になっていた。
これが完璧な妻というものなら、私はずいぶんうまくなったものだと思った。
誠が「うまい」と言いながら夕食を食べた。私は「ありがとう」と返した。
窓の外では、春の夕暮れがゆっくりと沈んでいた。
その色が、どうしてかひどく寂しく見えた。
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