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5 出発
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まずは、蒼助との嫁入りとして段取りし百日間母家に留め置く。百日後、離縁したと周りに伝え離れにて恭亮との祝言を挙げる。
そうしよう。
鳳右衛門、麻記、雪庵、そして要の蒼助と話し、だいたいの流れを確認した。
「蒼助、百日間夫婦として世間様にも示しを合わせ、あかりさんがうちに慣れた頃、事情を話し恭亮と会わせる。蒼助は離婚歴が付く事になるが辛抱してくれ。でだ、蒼助、万が一無いと信じて言うが、惚れてはいけないよ。」
「大丈夫だ、万が一、無い。離婚歴も俺が男色じゃないと世間に云えて好都合だ。」
雪庵に釘を刺されるも、鼻で笑う蒼助に三人は顔を見合わせた。モテるが女と付き合った事はないと聞く。
交際期間を設けずいきなり夫婦になり、変な気を起こすのではないか。
遊郭に行った事実はあるにはあるも、生娘の色気にやられるのではないか。
狐憑きの嫁になる者はお手付きは許されない。寝室は別にしたとしても、蒼助も男。
しかし、あかりに対してあまり好印象に思っているような節はないし、興味もなさそうである。
街でいちばんの美人である、反物問屋の紺屋の娘の縁談さえ断っている。女にそもそも興味がないのではないか、と噂にもなっているが当の本人は否定しているし、噂を気にしている風もない。
色々と心配はあるが、蒼助を信じて計画を実行に移す事にした。
「あかり、ちょっと。」
梅雨も半ば、雨がけっこうな勢いで降る夜に、あかりは雪庵の自室に呼ばれた。
ほぼ正方形の部屋には床から天井まである本棚が一辺の壁に設けてあり、本棚には隙間なく本が並べられている。
畳の上にも本が山になっていて、晴れたら本を虫干ししなくては、と考えていた。
部屋の真ん中に文机を置き、それを挟むような形でふたり向き合って座った。
「あかりも今年十八歳になるし、嫁にいく歳になった。急いで探したわけではないが、あかりに合う嫁ぎ先があってね。どうだい?この先もひとりで、療養所の手伝いの人生は不憫だ。」
「そんな事はございません。療養所のお仕事は好きですし、寂しさはありません。」
「そんな事はない。私達だっていつまでも元気でいるわけではないんだ。あかりをひとりおいて、あっちに逝くわけにはいかないんだよ。結婚して、子供を作って育てるのも女の仕事で幸せだ。大丈夫、女中もいるし、安心して嫁いで欲しい。」
「…用済みという事でしょうか。」
「間違いだ。養子にならなかったから娘ではないが、女中とは思った事はない。娘同然だ。娘の幸せを願う事は変な事か?用済みだからと嫁に出す親はいないだろう。」
貧しい村にはいるんじゃないだろうか、と悪態を突きながら話を聞いた。
「久尾屋という薬種問屋に何回か使いに出ているよな。そこの息子さんだ。」
「久尾屋?息子さんがいらっしゃるのですか?」
若旦那になるような人物が思い当たらない。
頭に浮かぶのは、番台に座った禿頭の爺(じじい)だった。
「けっこうな歳の差でしょうか。」
「いや、あかりとさほど変わらないよ。会った事はないのか。」
「はい。」
「店に出ていると聞いているが、留守だったのかな。まぁ、祝言の前に祭りでも行ってみるといい。来週辺り神宮祭があるだろう。誘うように言っておくから行って来なさい。」
「……はい。」
さらっと言われて、さらっと承諾した形になってしまった。雪庵先生は話が上手い。
我儘や悪態を突く患者を、やんわりやんわり話に乗せて納得させてしまう。怖い男だ。
あぁ、着て行く浴衣がないなぁ。
そんな事を考えながら、あの禿頭は老け顔なだけなのか?と、馬鹿な事を考えていた。
お祭り当日。
花江がいつの間にか、白地に紺の菖蒲の絵が染めてある浴衣を用意してくれていた。帯も緑と白の二色二本線の真新しいものだった。
子供以来に花江に着付けてもらい、花江のビードロの玉が付いた簪を、引く結った髷に挿してもらった。
鏡に写る自分が変に見える。
途端、夫になる人に会う事に緊張し始めた。友達は男の人と会う前、こんな気持ちなのだろうかと確かめたくなったが、もう遅い。
玄関から、
「こんにちは。久尾屋でございます。あかりさまはいらっしゃいますでしょうか。」
と、久尾屋の丁稚の声が聞こえた。後毛を急いで撫で付けて玄関に向かった。
背が一メートルちょっとくらいしかないくりくり頭の丁稚が、所在なさげに立っていた。それを見た花江がお小遣いを渡す。
「あ、ありがとうございます。」
遠慮しつつも顔は喜んでいる。深々とお辞儀をし、貰ったお小遣いを握りしめて外に走って行った。若旦那を送ったら帰って来いと言われているのだろうが、帰らずお祭りに行くのだろう。
子供は可愛い。私にも子供ができるのだろうか。想像がつかない。禿爺の子供か。緊張が消え、途端気が落ち込む。今日は何だか色々変だ。
下駄を履き外に出ると、門の陰に背の高い男性の後ろ姿が見えた。
「え。」
思わず声が出てしまい、手を口に当てた瞬間、蒼助が気付き振り向いた。
渋茶の無地の浴衣に、紺の細い帯を片貝結びで腰で締め、黒い露の扇子を持っている。
笑った口元から白い歯が見える。しかし、目元は笑っているようには見えなかった。
「蒼助さん。こんにちは。」
「素敵な浴衣ですね。よくお似合いです。」
手代じゃなかったのか。なんて失礼な事を言ってしまったのだろう。
心中は顔面蒼白、脂汗なのに、顔は火照って真っ赤になった。
こいつ、やられたかな。
そんな事を思いながらあかりと並んで歩き出す。ちゃんとおしゃれをすれば様になるじゃないか。悪くない。
会話らしい会話にならないまま歩き続け、出店の並ぶ神宮参道に着いた。
すれ違う人、買い食いする人一様に皆振り向き、囁き、笑う人あれば睨む人もいた。
きっと蒼助さんに横恋慕していた人達なのだろう。私ではなく、皆蒼助さんを見ていた。私を見ている人は皆睨む人ばかり。変な緊張感と居心地の悪さが襲ってくる。
頭ひとつ上に蒼助さんの顔がある。どんな表情をしているのかわからない。いや、わかりたくない。きっと同じように嫌な顔をしているんだろう。もっと花があってきれいで可愛くて、火傷の跡なんてない人と並んで歩きたかったはず。自然と俯いてゆき、石畳を見ながら歩いていると、
「あかりさん。」
呼ばれて顔を上げると目の前に端正な顔が間近にあった。男の匂い。
やられた。
「いろんな出店がありますが、どの出店を見ますか?飴細工がありますが、見に行きませんか。」
返事をする前に手を引かれ、飴細工の店前に連れて行かれる。大きい手、細くて長い指。
小さい自分の手はすっぽり手中に入って、無理矢理引き抜こうにも抜けないだろう。
「金魚がありますよ。ほかにも干支とか。あかりさんの干支は何ですか。」
「え。私は寅です。」
「寅ですか、私は丑です。ふたつ買いますか。」
「はい。」
動悸がしてくらくらする。そんなにまだ歩いてないし、暑さにやられた感じでもないのに。返事が素っ気なくなってしまったが、蒼助さんは気にしていない様子で飴を受け取っていた。
渡された飴は寅というより猫に近く、蒼助さんの丑は犬のようだった。
「可愛いですね。食べてしまうのはもったいないかな。」
無邪気に笑う色男に、あかりは完全に落とされてしまった。
それから金魚すくいをやり、一匹も捕れなかったがどうでもよかった。焼き鳥を買って削り氷を買って、石段に並んで座って食べたりした。
真横に座る蒼助さんは皆の注目を浴び、私はますます小さくなった。食欲がなくなり削り氷も溶けてしまった。
あぁこんなんじゃ、結婚して一緒に飯が食べられるだろうか。毎回毎回食欲がなくなって、そのうちげっそり痩せて今より見た目が悪くなったら、きっと離縁だ。いや、もう結婚したいと思っていないかも。
ぐるぐると悪いことばかり考えてしまう。
恋って、気持ち悪くなるものなのか。
緊張してるのかな。食べないし笑わないし、下ばかり見てる。
でも、もうきっと好きにはなってるだろうし問題はないか。ちょろい、ちょろい。女なんて、こんなもんだよな。
羨望の的になって優越感に浸って、私はこんな男と祭りに来られるんだぜって。
ま、俺はほんの一瞬だけだけど、悪いね。
夜も更けて人が帰り始めたのを機に、あかりを家に送るため歩き始めた。
ふたりして飴細工の柄を指で摘んでくるくる回している。結局食べずにお土産に持って帰る事にした。少しでも涼しい方が良いだろうと小川の小径を帰路に選んだ。
神宮はあかりの家から見て、久尾屋と逆の方向に真っ直ぐ行くとある。その道をひとつ外れると、大川と別れて流れる小川があり、小径ができている。
意外と蚊が少なく、人もいない。たまに猫が横切るが浮浪者などはいない。
「疲れてしまいましたか。人が多いと疲れますよね。」
「すみません、せっかく誘っていただいたのに。」
「いえ、ゆっくり歩いて帰りましょう。それで、その、雪庵先生からは私を何と聞いているのですか。」
「え。あ、久尾屋の息子さん…と。」
「そうですか。手代だと思われていたみたいですが、あの場で訂正すれば良かったですね。申し訳ありませんでした。」
「いえ、勘違いしたのは私で。次期ご当主になられるお方を奉公人と間違えるなんて。大変失礼いたしました。」
「謝らないで下さい、気にしておりませんので。で、私は久尾屋の息子とだけしか聞いておりませんか。」
「いえ。結婚相手、とも聞いております。」
「そうですか。」
「あの…私はこんな間違いをするような人間です。久尾屋のような大店の奥方になる器ではありません。どうぞお断りしていただけないでしょうか。」
なに、いきなり。冗談だよな。
「人間、間違いはするものです。それに間違いと言っても私の説明不足もありましたし。」
「どういったご縁でこうなったのかわかりませんが、蒼助さんだって本心はお好きな人と一緒になりたいのではないですか。」
「…あかりさんはどなたか好いた方がおありなのですか。」
「…おりませんが。」
「私の事はお嫌いですか。」
「…まだ、よくわかりません。」
「ですよね、まだ三回しか会っていないのですから。慌てずゆっくり考えていきませんか。」
「はい。」
ゆっくりなんて考えてる時間はないし、無駄なんだよな。
やっぱりめんどくさいな。
「蒼助さん。」
「はい?」
眉間にうっすら皺が寄り、可愛い顔というより、難しい顔で聞いてきたあかりの顔をじっと見る。暗いせいなのか、昼間で見る顔と雰囲気が違って見える。
一重だけど黒目が大きく、鼻は小さく、細い肩に割とある胸元。汗で湿った前髪がつるりとしたおでこに張り付き、妙な色気を感じる。
あれ。
「蒼助さんは、私が好きですか。」
… え。
極限まで屈み、あかりの両頬を両手で包む。
その拍子に飴細工が草むらに落ちた。
落ちた飴細工を探そうと、目線が外れたあかりの視線を戻すように顔を正面に向ける。
俺の手が大きいのか、あかりの顔が小さいのか。両親指で両耳の穴を軽く塞ぎ、残りの指であかりの両耳を包み込む。きっと今、何も聞こえていないだろう。視線が合ってるのか合っていないのか。大きな黒目に俺の顔が映っている。
「好きです。」
嘘で言ったつもりなのに、出た言葉は本気に聞こえた。いや、これが嘘なのか。
「え?」
あかりの眉間に皺が寄る。手から飴細工が落ちる。
喜ぶところだろうが。そう思いながら唇を重ねてしまった。
そうしよう。
鳳右衛門、麻記、雪庵、そして要の蒼助と話し、だいたいの流れを確認した。
「蒼助、百日間夫婦として世間様にも示しを合わせ、あかりさんがうちに慣れた頃、事情を話し恭亮と会わせる。蒼助は離婚歴が付く事になるが辛抱してくれ。でだ、蒼助、万が一無いと信じて言うが、惚れてはいけないよ。」
「大丈夫だ、万が一、無い。離婚歴も俺が男色じゃないと世間に云えて好都合だ。」
雪庵に釘を刺されるも、鼻で笑う蒼助に三人は顔を見合わせた。モテるが女と付き合った事はないと聞く。
交際期間を設けずいきなり夫婦になり、変な気を起こすのではないか。
遊郭に行った事実はあるにはあるも、生娘の色気にやられるのではないか。
狐憑きの嫁になる者はお手付きは許されない。寝室は別にしたとしても、蒼助も男。
しかし、あかりに対してあまり好印象に思っているような節はないし、興味もなさそうである。
街でいちばんの美人である、反物問屋の紺屋の娘の縁談さえ断っている。女にそもそも興味がないのではないか、と噂にもなっているが当の本人は否定しているし、噂を気にしている風もない。
色々と心配はあるが、蒼助を信じて計画を実行に移す事にした。
「あかり、ちょっと。」
梅雨も半ば、雨がけっこうな勢いで降る夜に、あかりは雪庵の自室に呼ばれた。
ほぼ正方形の部屋には床から天井まである本棚が一辺の壁に設けてあり、本棚には隙間なく本が並べられている。
畳の上にも本が山になっていて、晴れたら本を虫干ししなくては、と考えていた。
部屋の真ん中に文机を置き、それを挟むような形でふたり向き合って座った。
「あかりも今年十八歳になるし、嫁にいく歳になった。急いで探したわけではないが、あかりに合う嫁ぎ先があってね。どうだい?この先もひとりで、療養所の手伝いの人生は不憫だ。」
「そんな事はございません。療養所のお仕事は好きですし、寂しさはありません。」
「そんな事はない。私達だっていつまでも元気でいるわけではないんだ。あかりをひとりおいて、あっちに逝くわけにはいかないんだよ。結婚して、子供を作って育てるのも女の仕事で幸せだ。大丈夫、女中もいるし、安心して嫁いで欲しい。」
「…用済みという事でしょうか。」
「間違いだ。養子にならなかったから娘ではないが、女中とは思った事はない。娘同然だ。娘の幸せを願う事は変な事か?用済みだからと嫁に出す親はいないだろう。」
貧しい村にはいるんじゃないだろうか、と悪態を突きながら話を聞いた。
「久尾屋という薬種問屋に何回か使いに出ているよな。そこの息子さんだ。」
「久尾屋?息子さんがいらっしゃるのですか?」
若旦那になるような人物が思い当たらない。
頭に浮かぶのは、番台に座った禿頭の爺(じじい)だった。
「けっこうな歳の差でしょうか。」
「いや、あかりとさほど変わらないよ。会った事はないのか。」
「はい。」
「店に出ていると聞いているが、留守だったのかな。まぁ、祝言の前に祭りでも行ってみるといい。来週辺り神宮祭があるだろう。誘うように言っておくから行って来なさい。」
「……はい。」
さらっと言われて、さらっと承諾した形になってしまった。雪庵先生は話が上手い。
我儘や悪態を突く患者を、やんわりやんわり話に乗せて納得させてしまう。怖い男だ。
あぁ、着て行く浴衣がないなぁ。
そんな事を考えながら、あの禿頭は老け顔なだけなのか?と、馬鹿な事を考えていた。
お祭り当日。
花江がいつの間にか、白地に紺の菖蒲の絵が染めてある浴衣を用意してくれていた。帯も緑と白の二色二本線の真新しいものだった。
子供以来に花江に着付けてもらい、花江のビードロの玉が付いた簪を、引く結った髷に挿してもらった。
鏡に写る自分が変に見える。
途端、夫になる人に会う事に緊張し始めた。友達は男の人と会う前、こんな気持ちなのだろうかと確かめたくなったが、もう遅い。
玄関から、
「こんにちは。久尾屋でございます。あかりさまはいらっしゃいますでしょうか。」
と、久尾屋の丁稚の声が聞こえた。後毛を急いで撫で付けて玄関に向かった。
背が一メートルちょっとくらいしかないくりくり頭の丁稚が、所在なさげに立っていた。それを見た花江がお小遣いを渡す。
「あ、ありがとうございます。」
遠慮しつつも顔は喜んでいる。深々とお辞儀をし、貰ったお小遣いを握りしめて外に走って行った。若旦那を送ったら帰って来いと言われているのだろうが、帰らずお祭りに行くのだろう。
子供は可愛い。私にも子供ができるのだろうか。想像がつかない。禿爺の子供か。緊張が消え、途端気が落ち込む。今日は何だか色々変だ。
下駄を履き外に出ると、門の陰に背の高い男性の後ろ姿が見えた。
「え。」
思わず声が出てしまい、手を口に当てた瞬間、蒼助が気付き振り向いた。
渋茶の無地の浴衣に、紺の細い帯を片貝結びで腰で締め、黒い露の扇子を持っている。
笑った口元から白い歯が見える。しかし、目元は笑っているようには見えなかった。
「蒼助さん。こんにちは。」
「素敵な浴衣ですね。よくお似合いです。」
手代じゃなかったのか。なんて失礼な事を言ってしまったのだろう。
心中は顔面蒼白、脂汗なのに、顔は火照って真っ赤になった。
こいつ、やられたかな。
そんな事を思いながらあかりと並んで歩き出す。ちゃんとおしゃれをすれば様になるじゃないか。悪くない。
会話らしい会話にならないまま歩き続け、出店の並ぶ神宮参道に着いた。
すれ違う人、買い食いする人一様に皆振り向き、囁き、笑う人あれば睨む人もいた。
きっと蒼助さんに横恋慕していた人達なのだろう。私ではなく、皆蒼助さんを見ていた。私を見ている人は皆睨む人ばかり。変な緊張感と居心地の悪さが襲ってくる。
頭ひとつ上に蒼助さんの顔がある。どんな表情をしているのかわからない。いや、わかりたくない。きっと同じように嫌な顔をしているんだろう。もっと花があってきれいで可愛くて、火傷の跡なんてない人と並んで歩きたかったはず。自然と俯いてゆき、石畳を見ながら歩いていると、
「あかりさん。」
呼ばれて顔を上げると目の前に端正な顔が間近にあった。男の匂い。
やられた。
「いろんな出店がありますが、どの出店を見ますか?飴細工がありますが、見に行きませんか。」
返事をする前に手を引かれ、飴細工の店前に連れて行かれる。大きい手、細くて長い指。
小さい自分の手はすっぽり手中に入って、無理矢理引き抜こうにも抜けないだろう。
「金魚がありますよ。ほかにも干支とか。あかりさんの干支は何ですか。」
「え。私は寅です。」
「寅ですか、私は丑です。ふたつ買いますか。」
「はい。」
動悸がしてくらくらする。そんなにまだ歩いてないし、暑さにやられた感じでもないのに。返事が素っ気なくなってしまったが、蒼助さんは気にしていない様子で飴を受け取っていた。
渡された飴は寅というより猫に近く、蒼助さんの丑は犬のようだった。
「可愛いですね。食べてしまうのはもったいないかな。」
無邪気に笑う色男に、あかりは完全に落とされてしまった。
それから金魚すくいをやり、一匹も捕れなかったがどうでもよかった。焼き鳥を買って削り氷を買って、石段に並んで座って食べたりした。
真横に座る蒼助さんは皆の注目を浴び、私はますます小さくなった。食欲がなくなり削り氷も溶けてしまった。
あぁこんなんじゃ、結婚して一緒に飯が食べられるだろうか。毎回毎回食欲がなくなって、そのうちげっそり痩せて今より見た目が悪くなったら、きっと離縁だ。いや、もう結婚したいと思っていないかも。
ぐるぐると悪いことばかり考えてしまう。
恋って、気持ち悪くなるものなのか。
緊張してるのかな。食べないし笑わないし、下ばかり見てる。
でも、もうきっと好きにはなってるだろうし問題はないか。ちょろい、ちょろい。女なんて、こんなもんだよな。
羨望の的になって優越感に浸って、私はこんな男と祭りに来られるんだぜって。
ま、俺はほんの一瞬だけだけど、悪いね。
夜も更けて人が帰り始めたのを機に、あかりを家に送るため歩き始めた。
ふたりして飴細工の柄を指で摘んでくるくる回している。結局食べずにお土産に持って帰る事にした。少しでも涼しい方が良いだろうと小川の小径を帰路に選んだ。
神宮はあかりの家から見て、久尾屋と逆の方向に真っ直ぐ行くとある。その道をひとつ外れると、大川と別れて流れる小川があり、小径ができている。
意外と蚊が少なく、人もいない。たまに猫が横切るが浮浪者などはいない。
「疲れてしまいましたか。人が多いと疲れますよね。」
「すみません、せっかく誘っていただいたのに。」
「いえ、ゆっくり歩いて帰りましょう。それで、その、雪庵先生からは私を何と聞いているのですか。」
「え。あ、久尾屋の息子さん…と。」
「そうですか。手代だと思われていたみたいですが、あの場で訂正すれば良かったですね。申し訳ありませんでした。」
「いえ、勘違いしたのは私で。次期ご当主になられるお方を奉公人と間違えるなんて。大変失礼いたしました。」
「謝らないで下さい、気にしておりませんので。で、私は久尾屋の息子とだけしか聞いておりませんか。」
「いえ。結婚相手、とも聞いております。」
「そうですか。」
「あの…私はこんな間違いをするような人間です。久尾屋のような大店の奥方になる器ではありません。どうぞお断りしていただけないでしょうか。」
なに、いきなり。冗談だよな。
「人間、間違いはするものです。それに間違いと言っても私の説明不足もありましたし。」
「どういったご縁でこうなったのかわかりませんが、蒼助さんだって本心はお好きな人と一緒になりたいのではないですか。」
「…あかりさんはどなたか好いた方がおありなのですか。」
「…おりませんが。」
「私の事はお嫌いですか。」
「…まだ、よくわかりません。」
「ですよね、まだ三回しか会っていないのですから。慌てずゆっくり考えていきませんか。」
「はい。」
ゆっくりなんて考えてる時間はないし、無駄なんだよな。
やっぱりめんどくさいな。
「蒼助さん。」
「はい?」
眉間にうっすら皺が寄り、可愛い顔というより、難しい顔で聞いてきたあかりの顔をじっと見る。暗いせいなのか、昼間で見る顔と雰囲気が違って見える。
一重だけど黒目が大きく、鼻は小さく、細い肩に割とある胸元。汗で湿った前髪がつるりとしたおでこに張り付き、妙な色気を感じる。
あれ。
「蒼助さんは、私が好きですか。」
… え。
極限まで屈み、あかりの両頬を両手で包む。
その拍子に飴細工が草むらに落ちた。
落ちた飴細工を探そうと、目線が外れたあかりの視線を戻すように顔を正面に向ける。
俺の手が大きいのか、あかりの顔が小さいのか。両親指で両耳の穴を軽く塞ぎ、残りの指であかりの両耳を包み込む。きっと今、何も聞こえていないだろう。視線が合ってるのか合っていないのか。大きな黒目に俺の顔が映っている。
「好きです。」
嘘で言ったつもりなのに、出た言葉は本気に聞こえた。いや、これが嘘なのか。
「え?」
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