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第2部 第1章
第2話 戦
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「ありました。空穂とかいう矢筒も一抱え。あれは誰のかと思いましたが」
「いや。我が嫁も持ってきたぞ。皆の家もだとはおもわなんだが」
「旧くから幸田の女は弓をよくします。というより、弓を射ることができなくてはならないのです。男は槍と剣術が出来なくてはなりません」
「そういえば、親父殿に挨拶したとき、奥に具足と槍、刀がありましたぞ」
「若い衆がホウと驚き、所帯持ちがそうだと頷く。
「幸田の村が他所と違うのは、どの領主にも従わず、どの藩にも{与《くみ》しないことです。そのために領主が変わった五度のうち三度、戦をしてきましたが、一度も負けたことはありません。この村が維持できているのは戦に勝ってなお、領主に年貢を納め、武家の面目を立てているからなのです」
統領家に伝わる書、引き継がれる書には歴代の戦の攻防の模様が詳細に綴られた、『戦記詳報』が三冊ある。
小夜は最新の記録、つまり、祖父が、現在の城主の父親が城主のときに戦をした記録について、山の衆に語った。
何れの書にも、戦の始まりは挨拶から始まると書かれ、出だしは穏やかだ。
新しい領主が城に入ると七人の村長が庄屋として挨拶に登城する。
そこで年貢米の石高をこちらから提示するのだ。棚田は訳があって穫れだかに計上しない。
領主が検地をした後、年貢の増加を要求すると、村では秘かに戦支度が始まる。
「棚田を隠したるは不届きである」という領主の呼び出しに、初めて統領が表にでて書簡で答えるが、それはすでに戦を仕掛ける文面になっている。
すなわち、
『この田畑は祖先が血と汗で切り開いた伝来の地であり、今なお日々汗を流して収穫の労を重ねている。
それを後から来て何の働きもせぬ者が、あれをよこせこれをよこせと穀象虫にも似て、石を潰そうとするは可笑しくてならぬ。
斯くなる上は一戦を交えて穀象虫を潰し、田畑を守り祖霊に面目を施さん』
この文面で殆どの領主は激怒する。
「おのれ。百姓めが」と烈火の如く怒った領主は百姓の底力を思い知ることになる。
この時代、戦の勝敗を決めるのは特殊な武器、卓越した人材が無い限り兵数の多寡によるのが普通だ。
幸田の村人すべてが敵になれば、城には領主に付き従う子飼いの侍の他に、兵力となる足軽は一握りしかいない。
それでも権威があると高を括った領主の命で、統領を捕縛に向かった侍たちは、土足で上がった座敷で領主の書状を広げると同時に、上から落ちてきた吊り天井で一斉に押さえ込まれ、刀を拭く間もなく、具足で身を固めた百姓の槍に囲まれる。
その後は刀を取り上げられて、蔵に閉じ込められるか、逃げ帰るかは武士に選択させるが、人望の無い領主は、家臣達から見放されることになる。
次いで、村から一切の人影が食物と供に消え去る。
武士は攻める対象も無くなり、日が過ぎて、城の台所からも食い物が無くなると、下男下女達が作物を求めて村に出る。
しかし一人として城に帰る者はいないのだ。
同じように食物を得ようと、今度は武士の集団が荷車を擁して城から出てくると、武士達が森に入ったところで車の車輪が、仕掛けられた窪みに落ちて動けなくなる。
車輪を出そうと車にとりついた途端、四方から矢が飛来して顔と言わず手足といわずに当たるが、この時には身体に突き立つ矢は無い。
矢は鏃が外されて、代わりに鉄の重りがついているだけなのだ。
「勝負は付いている。我等は命を取るのが本旨では無い。潔く帰られよ。それでもと言うなら次は容赦せぬ」
ブオンッと音を立てて飛んできた槍が、どしんッと木に突き刺さった。
槍には音が出る細工がしてあり、武士達を恐怖に陥れる。武士には槍を投げるという発想がないのだ。
姿も見えず、数も分からぬ相手に逆らえず、這々の体で皆が逃げ帰る中、一人の武士が刀を抜き放って立ち止まった。
「武士の面目。主への恩。この上は反逆者の一人でも道連れにして武士道を貫かん」
途端に森が笑い出す。「面目だと」「どんな恩だ」「そもそも侍達は、我等と我等の作る米を取り合いして勝手に戦をしておるが、それと野盗と何処が違う」
「百姓から米を盗るだけの武士が、我等を反逆者だと。片腹痛いわ」
特に女性の声が含まれていることに武士は戸惑い、苛立ちを増す。
「酒が無いので自分の言葉に酔っておいでか」「いったい何の働きがあって武士とは存在するのでしょうね。いっそ消えてしまえば世に戦が無くなるのに」
「やっ、やかましい。我等がお前達を、他藩の侵略から守っているのだ。我等が居るから他藩が攻めてこないのだ。恩知らずめ」
「何処の誰が城に入っても同じ事」
「そうじゃ。現に今その刀で斬ろうとしている相手は我々であろうが」
「武士より鰹節のほうが余程役にたちまするぞ」
「おのれ」と刀を振り上げた腕に、トンと矢が当たった。
今度の矢には鏃が付いていて、鎖帷子の編み目を押し広げた矢が右腕に刺さっていた。
怒りにまかせて振り下ろした刀の刃筋が乱れ、木の枝に当たって食い込んだ。
左手だけでは抜き取れないまま、「次の矢、行くよー」という声に慌てて脇差しを抜き幹を背にして構えたが、次の矢は来ず、先程の男の声が言った。
「そろそろ我等の統領様からご領主に和睦の書簡が届く頃である。恩があると言うならそれを受け入れるように帰って進言なされよ」
声の主が姿を現した。
森の草木に紛れる萌黄縅の甲冑に大太刀を佩いたその姿は、元は相当の身分の侍であろうと見て取れる。
「勝負はついておらぬ」
「最初からついておるわ。おぬしらに米はつくれまい。それに、このまま長引けばどこぞの藩が騒動に気付いて、好機とばかり攻めてくるぞ。でなければ、ご領主様は、藩主様から改易を言い渡されるかもしれんなあ」
「おっおのれ」
「そう怒るな。降伏せよとは言わぬ。和睦じゃ。それ故にな、今のところ死人は出しておらん」
「ならば我等の下僕共を如何した」
「おう。飯をたらふく食って我等を手伝っておる」
「なんということだ」
「我等には食も地の利も戦の利もあるゆえ、先ずそなた等は勝てぬ。勝てはせぬが、もし和睦に応じなくば、面倒故さっさとご領主のお命を頂戴する」
「さっさと命を取るとは何と言う言い草か。そんなことが、まことにできる筈があるまい」
「食い物が無くなっておるだろう。水に毒でも流せばひとたまりもなかろうが」
「ひっ卑怯ではないか」
「我等は武士では無い故な。卑怯という言葉は知らぬ。話の通らぬ、威張るだけしか能の無い領主様はいらないのさ。特に過剰な年貢を要求する欲張りはな」
「そもそも、そちらが田を隠したのではないか」
「米というは、いつも同じだけ取れるとは限らぬ。時には飢饉でまったく取れぬ事もある。 よってお助け米を蓄える。種籾も食わずに保存せねばならぬ。なのにおぬしのご領主様は集めた年貢を贅沢品に変えて底なしに使うておる」
「兼久の名刀に千両」
再び女の声がする。
「来国正の名刀……の偽物に二千両」
「青磁の皿壺に五百金、唐三彩、茶の湯の陶磁器」
「他に何があったかな」
「蒔絵の弁当箱。奥方と姫のかい巻き、絹の帯、金の櫛、谷兵庫の衝立に襖絵」
「若君はないのか」
「ありません。若君は側室の子だからでしょう。母の里からの大太刀を摺りおろした刀と一寸はましな腰刀だけです」
武士が唸る。
「よくもそれだけ他家の台所を……」
「おい、そこではないだろう。何の生産もせぬ者がなぜ借金をしてまで贅沢をする。此度の検地も、嵩んで返せなくなった借金のため、年貢を上げようとの思惑があってのことであろうが」
曲がって鞘に入らなくなった刀を下げ、武士が怒りと恥辱にまみれて足早に城に帰っていく。
「結局、城側にしても、公表される取れ高の年貢米が得られる事に満足する他はないのだ」
唖然として聞いていた一同が我に返って言った。
「まことに驚きました。城の武士と戦をして勝てるものなのですな」
「ならば、ご統領が城に入られ、ご領主になられれば年貢も納めずに済むのではありませんか」
吉次が「そこよ」と言って、笑う。
「それを図に乗るという。そんなことをすれば他藩との争いを直接我等がせずばならぬ。もっと大きな藩と大戦《おおいくさ》になっていく。今、村は平和だが、力のある我等が野望を持たぬが故に平和なのだ」
「そのとおりです。その殿様はご病気になられ、一年でお亡くなりになったが、後を継いだ若君と我が父とは刎頸の交わりをして今日に至っている。それ故に治水治山は我々が我々の手でやらねばならぬ」
「そこで、土地を持たず、農閑期に左右されず、何処にでも身軽に行ける工人のお前達が必要になるというわけだ」
「いや。我が嫁も持ってきたぞ。皆の家もだとはおもわなんだが」
「旧くから幸田の女は弓をよくします。というより、弓を射ることができなくてはならないのです。男は槍と剣術が出来なくてはなりません」
「そういえば、親父殿に挨拶したとき、奥に具足と槍、刀がありましたぞ」
「若い衆がホウと驚き、所帯持ちがそうだと頷く。
「幸田の村が他所と違うのは、どの領主にも従わず、どの藩にも{与《くみ》しないことです。そのために領主が変わった五度のうち三度、戦をしてきましたが、一度も負けたことはありません。この村が維持できているのは戦に勝ってなお、領主に年貢を納め、武家の面目を立てているからなのです」
統領家に伝わる書、引き継がれる書には歴代の戦の攻防の模様が詳細に綴られた、『戦記詳報』が三冊ある。
小夜は最新の記録、つまり、祖父が、現在の城主の父親が城主のときに戦をした記録について、山の衆に語った。
何れの書にも、戦の始まりは挨拶から始まると書かれ、出だしは穏やかだ。
新しい領主が城に入ると七人の村長が庄屋として挨拶に登城する。
そこで年貢米の石高をこちらから提示するのだ。棚田は訳があって穫れだかに計上しない。
領主が検地をした後、年貢の増加を要求すると、村では秘かに戦支度が始まる。
「棚田を隠したるは不届きである」という領主の呼び出しに、初めて統領が表にでて書簡で答えるが、それはすでに戦を仕掛ける文面になっている。
すなわち、
『この田畑は祖先が血と汗で切り開いた伝来の地であり、今なお日々汗を流して収穫の労を重ねている。
それを後から来て何の働きもせぬ者が、あれをよこせこれをよこせと穀象虫にも似て、石を潰そうとするは可笑しくてならぬ。
斯くなる上は一戦を交えて穀象虫を潰し、田畑を守り祖霊に面目を施さん』
この文面で殆どの領主は激怒する。
「おのれ。百姓めが」と烈火の如く怒った領主は百姓の底力を思い知ることになる。
この時代、戦の勝敗を決めるのは特殊な武器、卓越した人材が無い限り兵数の多寡によるのが普通だ。
幸田の村人すべてが敵になれば、城には領主に付き従う子飼いの侍の他に、兵力となる足軽は一握りしかいない。
それでも権威があると高を括った領主の命で、統領を捕縛に向かった侍たちは、土足で上がった座敷で領主の書状を広げると同時に、上から落ちてきた吊り天井で一斉に押さえ込まれ、刀を拭く間もなく、具足で身を固めた百姓の槍に囲まれる。
その後は刀を取り上げられて、蔵に閉じ込められるか、逃げ帰るかは武士に選択させるが、人望の無い領主は、家臣達から見放されることになる。
次いで、村から一切の人影が食物と供に消え去る。
武士は攻める対象も無くなり、日が過ぎて、城の台所からも食い物が無くなると、下男下女達が作物を求めて村に出る。
しかし一人として城に帰る者はいないのだ。
同じように食物を得ようと、今度は武士の集団が荷車を擁して城から出てくると、武士達が森に入ったところで車の車輪が、仕掛けられた窪みに落ちて動けなくなる。
車輪を出そうと車にとりついた途端、四方から矢が飛来して顔と言わず手足といわずに当たるが、この時には身体に突き立つ矢は無い。
矢は鏃が外されて、代わりに鉄の重りがついているだけなのだ。
「勝負は付いている。我等は命を取るのが本旨では無い。潔く帰られよ。それでもと言うなら次は容赦せぬ」
ブオンッと音を立てて飛んできた槍が、どしんッと木に突き刺さった。
槍には音が出る細工がしてあり、武士達を恐怖に陥れる。武士には槍を投げるという発想がないのだ。
姿も見えず、数も分からぬ相手に逆らえず、這々の体で皆が逃げ帰る中、一人の武士が刀を抜き放って立ち止まった。
「武士の面目。主への恩。この上は反逆者の一人でも道連れにして武士道を貫かん」
途端に森が笑い出す。「面目だと」「どんな恩だ」「そもそも侍達は、我等と我等の作る米を取り合いして勝手に戦をしておるが、それと野盗と何処が違う」
「百姓から米を盗るだけの武士が、我等を反逆者だと。片腹痛いわ」
特に女性の声が含まれていることに武士は戸惑い、苛立ちを増す。
「酒が無いので自分の言葉に酔っておいでか」「いったい何の働きがあって武士とは存在するのでしょうね。いっそ消えてしまえば世に戦が無くなるのに」
「やっ、やかましい。我等がお前達を、他藩の侵略から守っているのだ。我等が居るから他藩が攻めてこないのだ。恩知らずめ」
「何処の誰が城に入っても同じ事」
「そうじゃ。現に今その刀で斬ろうとしている相手は我々であろうが」
「武士より鰹節のほうが余程役にたちまするぞ」
「おのれ」と刀を振り上げた腕に、トンと矢が当たった。
今度の矢には鏃が付いていて、鎖帷子の編み目を押し広げた矢が右腕に刺さっていた。
怒りにまかせて振り下ろした刀の刃筋が乱れ、木の枝に当たって食い込んだ。
左手だけでは抜き取れないまま、「次の矢、行くよー」という声に慌てて脇差しを抜き幹を背にして構えたが、次の矢は来ず、先程の男の声が言った。
「そろそろ我等の統領様からご領主に和睦の書簡が届く頃である。恩があると言うならそれを受け入れるように帰って進言なされよ」
声の主が姿を現した。
森の草木に紛れる萌黄縅の甲冑に大太刀を佩いたその姿は、元は相当の身分の侍であろうと見て取れる。
「勝負はついておらぬ」
「最初からついておるわ。おぬしらに米はつくれまい。それに、このまま長引けばどこぞの藩が騒動に気付いて、好機とばかり攻めてくるぞ。でなければ、ご領主様は、藩主様から改易を言い渡されるかもしれんなあ」
「おっおのれ」
「そう怒るな。降伏せよとは言わぬ。和睦じゃ。それ故にな、今のところ死人は出しておらん」
「ならば我等の下僕共を如何した」
「おう。飯をたらふく食って我等を手伝っておる」
「なんということだ」
「我等には食も地の利も戦の利もあるゆえ、先ずそなた等は勝てぬ。勝てはせぬが、もし和睦に応じなくば、面倒故さっさとご領主のお命を頂戴する」
「さっさと命を取るとは何と言う言い草か。そんなことが、まことにできる筈があるまい」
「食い物が無くなっておるだろう。水に毒でも流せばひとたまりもなかろうが」
「ひっ卑怯ではないか」
「我等は武士では無い故な。卑怯という言葉は知らぬ。話の通らぬ、威張るだけしか能の無い領主様はいらないのさ。特に過剰な年貢を要求する欲張りはな」
「そもそも、そちらが田を隠したのではないか」
「米というは、いつも同じだけ取れるとは限らぬ。時には飢饉でまったく取れぬ事もある。 よってお助け米を蓄える。種籾も食わずに保存せねばならぬ。なのにおぬしのご領主様は集めた年貢を贅沢品に変えて底なしに使うておる」
「兼久の名刀に千両」
再び女の声がする。
「来国正の名刀……の偽物に二千両」
「青磁の皿壺に五百金、唐三彩、茶の湯の陶磁器」
「他に何があったかな」
「蒔絵の弁当箱。奥方と姫のかい巻き、絹の帯、金の櫛、谷兵庫の衝立に襖絵」
「若君はないのか」
「ありません。若君は側室の子だからでしょう。母の里からの大太刀を摺りおろした刀と一寸はましな腰刀だけです」
武士が唸る。
「よくもそれだけ他家の台所を……」
「おい、そこではないだろう。何の生産もせぬ者がなぜ借金をしてまで贅沢をする。此度の検地も、嵩んで返せなくなった借金のため、年貢を上げようとの思惑があってのことであろうが」
曲がって鞘に入らなくなった刀を下げ、武士が怒りと恥辱にまみれて足早に城に帰っていく。
「結局、城側にしても、公表される取れ高の年貢米が得られる事に満足する他はないのだ」
唖然として聞いていた一同が我に返って言った。
「まことに驚きました。城の武士と戦をして勝てるものなのですな」
「ならば、ご統領が城に入られ、ご領主になられれば年貢も納めずに済むのではありませんか」
吉次が「そこよ」と言って、笑う。
「それを図に乗るという。そんなことをすれば他藩との争いを直接我等がせずばならぬ。もっと大きな藩と大戦《おおいくさ》になっていく。今、村は平和だが、力のある我等が野望を持たぬが故に平和なのだ」
「そのとおりです。その殿様はご病気になられ、一年でお亡くなりになったが、後を継いだ若君と我が父とは刎頸の交わりをして今日に至っている。それ故に治水治山は我々が我々の手でやらねばならぬ」
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