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公爵の結婚

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「お久しぶりです。スーザン」


街宿の一室の扉が開き、ハリエットはアイナス語を口にすると、目の前の老婆に静かに抱きついた。
その背後で、帯剣したウィルソンが大きなカバンを持っている。


「おやおや、私の約束しているハリエットは貴族だと聞いたんだが、平民だったのかね?」


スーザンは抱きついてきたハリエットの背中をすりすりとさする。
ハリエットは再びギュッとスーザンの身体を味わうと、体を離して改めて挨拶をする。


「ワイニー伯爵の末娘のハリエットと申します。スーザンに久しぶりにお会い出来て光栄です」


最初にスーザンに会った時はまだ、ただのハリエットだった。
どこから移動してきたのか、後々の追求を避けるため商団の一員に紛れてワイニー伯爵家へと向かった。逃亡の途中での出会い。


ルフェーベル商会のいくつかの拠点を通って慎重に慎重を重ねて北を目指していた。
帝国に入ってからすぐに出会ったのがスーザンだった。

ハーベスバイトで、平民として商会の拠点に匿われて過ごしていたハリエットは、グスチへ向かうことが決まってすぐに、貴族特有のS字コルセットの着用をやめていたが、馬車の中で座り続けることも困難な程の痛みに襲われた。
しかし、平民に扮している以上、明らかに補正されてしまっていた身体をおいそれと医者に見せることも出来ず、コルセットがないことに慣れるためにしばらくは寝て過ごすしか方法が見つからなかった。
その寝たきりの状態で旅を続けることになった。


御者が交代で休むために置かれている、荷馬車に積まれた藁の布団の上で1週間を過ごした。
それでも症状は改善せず、帝国に入ってからは起き上がることも難しいほどだった。


ルフェーベル商会の馬車が少しだけ寄り道して、商団が何度も世話になったという流れの医者であるスーザンを乗せることに決めたことが、ハリエットの運命を変えたのだ。


「うむ。ハリエット、いやハリエット様と呼ぶべきかの?」

「ハリエットと呼んでほしいところですが、後々のスーザンのことを考えれば、ハリエット様と呼んでいただいた方がいいと思います」

「お貴族様は大変だねぇ。それで?直接患者のところへ行かせずここに来るなんて何か理由があるだろう?ウィルソンもほら、お入り」


スーザンがウィルソンに手招きをして部屋に入れると、ウィルソンは深くお辞儀をする。


「レディスーザン、再び会えて光栄です」

「はいはい。ほら、あんたも座りなぁ」


小さな部屋の小さなテーブルを挟んで2人を対面に座らせると、スーザンはベッドに腰を掛ける。


「こんな宿じゃ出すお茶もないさね。早く話を始めておくれ」

「はい。今回お願いしたいのは、私の父親であるワイニー伯爵です」

「それは聞いたよ。折角ここまで来たんだ。診るだけになるかもしれないが、最善は尽くすさね」


スーザンの居場所を探すのに雇った情報屋は15人にまで増えた。
そのおかげで帝国内の情勢だけでなく、王国の情報まで今までより随分と多く手に入る様にはなった。
しかし、それで終わっては多額のお金の回収が出来ない。
伯爵の命が助かるのなら安いものだと言うには、領地はあまりにも潤いが足りなかったのだ。


「スーザンに診てもらえるというだけで希望が持てます。本当にここまで来てくださって感謝申し上げます。しかし、私はこれからもっと不躾なお願いを重ねて申し上げなければなりません」

「なんだい。勿体ぶらずに言ってみな。ダメなものはダメと言ってやるから」


ダメだと言われることは避けたいのだけど…
そんなことを思ってもスーザンには伝わるはずもない。


「ここグスチでは、医師を騙った金銭の搾取が見逃せないほど多くあります。医療の一部を公益化しようと思っています」

「医療を金儲けの道具にしようってんじゃないだろうね」


クロエは今のグスチの状態を丁寧に説明していった。
医師と薬師の区別も曖昧な今の状態は本来相応しくなく、薬師も医師としての仕事をしているため、まとめる必要があると考えていること、平民が医療を必要としたときに、適切な価格で安心して医療を受けることが急務だと考えていること。
素直に全てを説明していった。


「スーザンはそろそろ旅をするのも難しくなってきたと言っていたでしょう?お父様の治療が終わった後も、貴女に医者達の育成と、信用できる実力のある医者への認定を手伝って欲しいと考えています」


そして、可能ならば定住してほしい。
ハリエットは真っ直ぐスーザンを見続けて淡々と話を終えた。

無理強いをするつもりはなかった。
流れの医者として、たくさんの患者の元を訪れているスーザンが簡単に頷いてくれるとは思っていなかった。
もしタイミングがあれば、お願いしたい仕事はたくさんあるが、彼女の理念を捻じ曲げてまで頼むものでもなかった。


「驚いたねぇ…まぁその話は追々考えようじゃあないか。私も旅に限界を感じていたのも事実。まずは患者のことが1番。返事はそれからだよ」


驚いたという割にはさほど大きなリアクションもなく、スーザンはベッドから立ち上がった。


「ほれ、その大きな鞄を早く開けんかね」 


ウィルソンが床に置いた鞄を指差すと、スーザンはそのまま二歩前に出て、机に近づいた。


「はい。当主の今までの診察記録です。それから、今回の治療に対する契約書もお持ち致しました」


ウィルソンは手早く鞄を開けて、書類を机の上に並べていったが、宿の小さな机には並び切ることはない。


「契約書?そんなものは私には必要ないね。目の前の患者を診る。ただそれだけだよ」


スーザンはすぐにウィルソンが置いた診察記録の束に手を伸ばす。



「契約書は、スーザンだけのためのものではありません。今後、何かの陰謀に利用されたりした場合、私達の自衛に使うこともあります」

「なんだいお貴族様っていうのは大変だねぇ。しょうがない。見てやろうじゃないか」


差し出された小さなスーザンの手に、ウィルソンは契約書を渡す。


「何だい?大したことは書いてないじゃないかい。いいよ。サインすれば良いんだろう」


後に他者に見られることを想定した契約書だからこそ、内容は簡素だった。
当主の治療を任せること、治療で知り得た伯爵家の情報は全て他者へ話さないこと、スーザンの意思で治療から離脱することが可能であること、今回の治療の報酬額と、治療の間は希望すれば伯爵家に滞在することが可能だということ、書面で交わすことで、対等な立場でスーザンと取引をしているということを証明するための書類だ。

「私たちが以前に会ったことがあることは決して漏らさないようお願い致します」


本当に大事なことは、口頭での確認となった。
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