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元王子の逃避

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 真夜中に城に火が放たれと気づいた時は、既に自室は煙に包まれていた。居住階である四階には、地下に住む使用人たちは誰もいないようだった。既に廊下を歩くことも堪らない状態だったので、すぐに自室にある隠し通路の入り口に入った。

 たった一人地下道から森の中へ抜けた。あちこち服は焦げ、火傷の痛みすら感じない。
 暫く森の中を抜けると、見えてきたのは教会本部と、天の上にあるかのような丘の上にある神殿だった。
 導かれるようにして歩いていると、一箇所だけ灯りのついている部屋が目に入る。


ーー聖女だ


 直感で分かった。東の空は白くなり始めており、夜明けはすぐそこまできていた。


「聖女、すまなかった。謝るから俺と結婚してくれ」


 雪崩れ込むように光の漏れる部屋に入った時、直感通りそこには聖女が座っていた。聖女は葡萄ジュースを飲みながら目をパチクリとさせてそのまま動きを止めた。すぐに俺は取り押さえられる。


「結婚は好きな人とするものです。私は王子は嫌いなので結婚はしません」


 綺麗に結われた髪に仕立ての良いワンピースを着た聖女の目の前で跪く、焼けこげてあちこち千切れた薄汚れた自分の身体が目に入った。一体どこで間違えたのだろうか。


「イテテテッ」

 腕を捻りあげられて騎士にロープを巻かれている。父は生きているだろうか。父が死んだら俺が…いや、俺も殺されてしまう。
 父はずっと聖女を大切にしろと言い続けていた。聖女に加護を分け与えて貰えば、俺の治世も安泰だと。


「王子如きが聖女様を襲うとは一体どういうつもりなんだコイツは」


 自分が聖女より下かのように言われて、やっと意味が分かった。俺はずっと聖女に王にしてもらえと言われていたのだ。愛想のない婚約者は必要ないと思っていた。だけど、愛想を振り撒かなければいけなかったのは俺の方だったんだ。だからずっと父は…


「なぁ、頼むよ。もう一度チャンスをくれ。このままだと殺されてしまう」

「殺しは良くないですね…」


 聖女の悩む姿に希望の光が見えた気がした。無表情だが、聖女は無感情なわけではない。情に訴えるのが効果的だ。


「ところで、どうして殺されてしまうんですか?誰かを殺したんですか?」

 そう聞かれて、どうして俺は殺されようとしているのかと初めて考えた。父である国王も妃である母も、悪事を働いたことはない。では何故俺は今、殺されるかもしれないと思っているのだろうか。保護されるに決まっているのに…


「聖女様それは…」


 何も答えない俺の代わりに答えに窮した騎士の手が緩まった一瞬の隙をついて、俺は再び走った。縄をぶん投げ窓を突き破って外に出た。俺はもう王子ではなかった。


 そう、それは俺がこの国を栄えさせた聖女を蔑ろにし、聖女が国の為に祈ることを放棄したからだ。祈りなんてなくても変わらないと思っていた。風邪を引いたこともなければ、国が危険にさらされたこともなかったから、それがどんなに恵まれていたのが気付かなかった。


 聖女が国の為に祈らなくなって、王宮はすぐに流行病に襲われることになった。父と母は床に伏せ、使用人たちは次々に辞めていった。
 不思議と街に広がることはなく、王宮内だけで流行病は大きな被害を出した。神の加護どころか、神に見捨てられたのだとすぐに噂は広まる。


 聖女との婚約が破棄されたことが教会から発表されると、一斉に隣国が関税を上げると言い出した。どの国も、聖女がいる国だから優遇してくれていた。聖女を囲う教会には、多額の寄付が集まっており、実質この国を支配しているのが教会本部となった。国を超えての交流が得意な教会は、王宮への攻撃の手を緩めることはなかった。


 皇室のせいで傷付いた聖女が、人々に祈りを捧げることはやめていない。国の為に祈らなくとも、傷付いた聖女に批判を向ける者は一人もいなかった。婚約破棄という不義理をされたのだから当たり前なのだ。皇室が静かに崩れ落ちようとしている中、聖女が治療院を作ったり、学校を作り始めると、それまで以上に聖女は人気となった。



 森の中の木こり小屋に俺は辿り着いた。藁のベッドに小さなテーブルしかない小屋だったが、そこが俺の家になった。毎朝リスに木の実をあげながら大きな薪は斧を使い、小さな薪はナタを使って薪を切って街で売った。


 気付けば聖女が国王となっていた。建国祭で聖女が笑顔で手を振るのを見た時、あの笑顔が好きだったことを思い出した。あの笑顔を向けて欲しかったのに、その方法を俺は知らなかった。


「あの笑顔はそんな簡単に見ていいものじゃないのに…」


 ずっと悔しかった。あんなにも容易く笑顔を他人に向けるのに、俺には決して笑顔を向けてくれることはなかった。今でも、どうしたら良かったのか俺には分からない。


 孤児院の前に枝と薪を毎日置く位しか、俺が国の為にできることはなかった。
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