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8 彼が愛した女性《ひと》
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しおりを挟む「営業二課課長として函館支社から異動になりました、益井環です。ようやく本社に戻れて張り切っています。皆さん、よろしくお願いします」
益井さんの挨拶に、紹介した凪子さんに笑みはなかった。
よほど、彼女がお嫌いらしい。
栗色のショートヘアで、長い前髪は斜めに流して耳に掛ける仕草は女らしくもあり、とても私と二歳しか違わないとは思えないほど可愛らしい。三十代前半でも通りそうだ。
並んでいる凪子さんと比べると、身長は百七十センチくらい。ヒールを考えると、百六十五センチか。百七十五センチくらいの智也と並ぶと、ちょうど良いだろう。腕を組んで歩くにも、キスをするにも。
ドクン、と心臓が跳ねた。
妄想に胸を痛めるなんて、不毛だ。
「担当してもらう奥山商事の、一課担当の堀藤さん」
朝礼が終わり、机に戻ろうとした私を呼び止め、凪子さんが益井課長に紹介してくれた。
「今回の奥山商事の長期契約は、彼女が取ってきたの。とは言っても、経験が浅いから、益井課長がフォローしてあげて」
「堀藤彩です。よろしくお願いします」
「益井です。よろしく」
深々と頭を下げた私に対し、彼女は『お願いします』を端折った。
凪子さんの表情が硬くなる。漫画なら、こめかみにくの字が四つ組み合わさった、怒りを表すマークが出ていそう。
「早速だけど、奥山商事との打ち合わせが明後日なの。ざっと資料に目を通しておいて」
「わかりました」
「打ち合わせ自体は堀藤さんに任せても大丈夫だって、千堂課長も言っていたし、まずはしっかりご挨拶をして来て頂戴」
「わかってます! もう冨田さんから指導を受けていた頃の私じゃありませんから。任せてください。あ、もう、冨田部長、ですね」
うわ、と閉じた口の中で呟いた。
気が強いなんてもんじゃない。
凪子さんと気が合わないはずだ。
智也とも気が合うとは思えないけれど、二人が付き合っていたのは十年前のことで、その頃の二人がどんな風だったかまでは、推し量れない。
「部長。専務がお呼びです」
谷主任が受話器を置きながら、言った。
「十分後に副社長室に来るようにと」
「わかったわ。じゃ、業務に戻って」
「はい」
ヒールを鳴らしてエレベーターに向かう凪子さんを見送ってから、私は益井課長に会釈して机に戻ろうとした。が、またも呼び止められた。
「奥山商事のファイルを持って来て」
有無を言わさぬ上から目線。
「はい」
智也の元カノという立場じゃなくても、好きになれそうにない。
「お久し振りです、益井課長」
私と課長の間に割り込んできたのは、荻野さん。相変わらず空気が読めない。
「荻野さん、久し振りね。頑張ってる?」
「はい! 私、堀藤さんに指導を受けているんです。益井課長と仕事できるの、嬉しいです」
荻野さんも函館支社から異動してきた。
函館支社はあまり広い社屋ではないと聞いたし、経理部だった荻野さんと、益井課長に面識があっても不思議はない。
「私も顔馴染みがいて嬉しいわ。これから、よろしくね」
私には、『ね』もなかった。
荻野さんは私の彼が『溝口』だと知っている。彼女自身は智也と面識がないけれど、面白おかしく私の話をされたら、すぐにバレる。
「ファイルを取りに行ってきます」
これから、あの二人と仕事をすると思うと、気が重かった。
奥山商事の、分厚いリングファイル五冊の方が、ずっと軽く感じるほど。
「はぁ……」
静かな廊下に、私のため息が響いた。
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