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8 アプローチ
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しおりを挟む「早速ですけど、堀藤さん。正社員になる気はありませんか?」
彼女は全く驚かなかった。まるで、俺の話の内容を知っていたよう。
溝口課長から聞いていたんだ、とすぐに気がついた。正直、ムカついた。この場で、課長との関係を聞きたかった。
けれど、聞かなかった。本当は聞きたくなかった。
俺は彼女に、正社員になって俺の補佐として営業の仕事を覚えて欲しい、と話した。
熱心に聞いているところを見ると、承諾してくれそうだと思った。
話している途中で料理が届き、俺たちは食事を始めた。
店内には俺たちの他に、サラリーマン風の男性がカウンターに三人、テーブル席に三人、座っていた。見知った顔はない。
「給与や福利厚生の面では充実しますが、残業や休日出勤は増えますし、出張もあります。細かい事を言えば営業職は私服になりますし、昼食時に出てることが多いので、外食になることがほとんどです」
「はい」
「ご家族とも話し合ってみてください。ただ、部長にはもう話を通してあるので、出来れば一週間くらいで返事を貰いたいです」
「わかりました。あの――」と言って、堀藤さんが食事の手を止めた。
「はい?」
「お話は有難いんですけど――」
まさか、断られる――?
一瞬で、全身が変な汗で湿っぽくなった。
「私で大丈夫でしょうか?」
「え――?」
「大学も卒業していないし、特別な資格もないですし」
なるほど。
若い子なら、『正社員なんて面倒臭い』と言うか、深く考えずに『頑張ります!』と言うかだろう。
課長になるまでの俺も、とにかく突っ走っていた。ゴールまでの道順を確認するより先に、走り出していた。
けれど、年を重ね、経験を重ねると、そうはいかなくなる。嫌でも慎重になる。
俺でさえそうなんだから、彼女はもっとだろう。年齢も責任も、俺以上だ。
「例えば、一課の我妻さんをどう思います?」
「どう……とは?」
「大学を卒業していて、色々な資格も持っていますよね?」
我妻さんは入社三年目の二十五歳。H大学出身で、英検や漢検、簿記、色彩検定などの資格を十は持っている。
以前、彼女が自慢気に話していた時、堀藤さんもその場にいたはず。
「率直に、彼女の仕事ぶりをどう思いますか?」
「それは――」
「営業に向いていると思います?」
堀藤さんは俺から視線を逸らし、少し考えてから口を開いた。
「向いていないと思います」
「どうしてですか?」
「少しせっかちなところがありますし、あまり聞き上手ではないようなので。それに、感情が表情に出やすいので」
かなり控えめな言い方が、堀藤さんらしい。
「同感です。ついでに、プライベートが忙しいようなので、残業も休日出勤も嫌だそうです」
「営業職の打診をしたことがあるんですか?」
「いえ。女性社員たちが楽しそうに話しているのが聞こえたんです」
「……」
堀藤さんが苦笑いをした。
営業部の女性社員たちは賑やかだ。
どこの会社と合コンをするとか、昨夜は誰々が誰々にお持ち帰りされたとか、聞いていて恥ずかしくなるような会話が聞こえてくる。
そういう会話を聞いているせいか、何人かの女性社員に告白されたことがあるが、全く喜べなかった。
話のネタにされるなんて、冗談じゃない。
「正直なところ、今の一課に僕の補佐を任せられる人材はいないんです。堀藤さん以外には」
「ありがとうございます。前向きに考えてみます」
彼女と仕事をする自分を想像したら、一週間も返事を待てるか、少し心配になった。
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