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第一章 誘惑
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恐らく、定食屋から一キロも離れていないくらいのマンションの前で、部長が足を止めた。ゆっくりと私を下ろす。
息も整い、心臓も平常運転に戻っていた。
「あの、部長?」
「俺のマンション」と言って、部長はジャケットの内ポケットからカードキーを出した。
エントランスのオートロックの扉の横にあるタッチパネルにカードを読み込ませる。
ピッと認証する音がして、扉が開いた。
部長は私の手を引き、扉を抜けた。
部長の部屋は、十階だった。マンションは十三階建て。エレベーターのボタンが十三までだったから。
「ここ……分譲ですよね?」
口をついたのは、驚くほど間抜けな質問。
なのに、部長はしかめっ面で腕を組み、正面を見ていた。
「ああ」
聞いたからどうと言うことはない。部長クラスになればマンションくらい買えるだろうし、独身ならなおのことお金には困らないだろう。
エレベーターを降りると、すぐ右と正面十メートルほど先にドアがあった。部長の部屋は正面。
今度はカードキーをドア横のカードリーダーに通した。
ピッという解錠音と同時にドアを開けた部長に腕を掴まれ、私は勢いよく部屋に飛び込んだ。同時に、再び部長の腕に抱き締められた。
「部長……?」
「お前、何なんだよ」
「え?」
「今日は一日中、変だぞ」
部長のジャケットから煙草の香りがする。
「それ……は……忙しかったから……」
「違うだろ」
「少し……体調が悪くて……」
「そんなんでぶっ倒れるかよ」
耳に部長の息がかかる。
急に恥ずかしくてたまらなくなった。
男の人に抱き締められるなんて、もう何年もなかった。
「けど……、あの……」
「なんだよ」
「は、放してくださ――」
「ヤダ」
「え?」
「いい加減、わかれよ。いい年して悪ふざけで部下に手ぇ出すかよ」
嘘――――。
部長の唇が私の耳に触れた。
偶然だと思う。
けれど、私の鼓動は加速を始め、再び全身が汗ばむ。
今度は耳たぶが温かく柔らかい物に挟まれた。ぬるっと生温かく湿った感触。
偶然じゃ……ない。
部長が私の耳たぶを舐め、その水音が鼓膜の奥まで響く。
「やっ――」
恥ずかしさのあまり、私は俯いた。
「男、いんの?」
「え?」
「営業の黛……とか?」
その名前に、私は反射的に思いっきり部長を突き飛ばした。
「あんな男――!」
黛の顔を思い出し、歯ぎしりをする。
「冗談でもやめてください!!」
「悪い……」
部長は呟くと、靴を脱いで部屋に上がった。手には私の鞄。仕方なく私も続いた。
ざっと見て、3LDKの部長の家は、無駄なものはなく、さっぱりしていた。きちんと片付けられていて、掃除も行き届いている。
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