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第六章
二 募る不安
しおりを挟む知らせを聞いて、俺は急いで侑に電話をした。スマホを耳に当てながら、無人の会議室に駆け込む。
『はい』
まだ知らないのか、侑の声はいつも通り落ち着いていた。
「百合さんのことだけど……」
いつかとは逆で、俺は挨拶もなしに話し出した。
侑の返事は意外なものだった。
『ああ……』
「知ってるのか!?」
『ああ……』
「何でそんなに冷静なんだよ?」
俺の方が、動揺していた。
フィナンシャルに異動して十日。
咲に会えない寂しさを忘れようと仕事に打ち込んだが、畑違いの慣れない仕事に滅入っていた。弱音を吐ける相手もいない。真さんもフィナンシャルに異動したと言っても顔を合わせることはなく、五日ほど会っていなかった。
今朝、出社した俺は社長代理の慎治おじさんから、情報システム部部長が和泉兄さんの共犯の疑いがあるとして、謹慎処分になったと知らされた。
真っ先に真さんに電話したが、繋がらなかった。
「これじゃ、会社中に兄さんと百合さんの関係が――」
『落ち着け。咲の推測通りだ』
一瞬、呼吸を忘れた。
咲――――。
名前を聞くだけで、全身が揺さぶられた。
咲と別れてから、ずっと不安が拭えずにいる。毎晩、一人のベッドで思うのは、ホテルで別れた時の咲の顔。
「咲は……」
咲の名前を呼ぶだけで、声が震えた。
『ん?』
「咲はどうしてる……?」
自分を落ち着かせるために、俺の右手が左手首を握りしめていた。咲からプレゼントされた腕時計の感触に、ホッとした。
咲も、つけているのだろうか――。
『ああ……、一週間くらい会ってないけど、忙しそうだよ』
「そう……か」
咲が忙しくなかったことなんて、ないだろ……。
電話の向こうで、キーボードを叩く音が聞こえる。
『有休が終わるから、そろそろ帰って来ると思うけど』
「有休?」
帰って来るって……、どこに行ってるんだ?
『庶務課を辞めるから、有休を消化してるんだよ』
心拍数が一気に上昇する。
「辞めるって――」
『真さんから聞いてないか? 咲、庶務課を辞めるんだよ』
「なんでっ!」
『動きにくいからって言ってたけど、まぁ……潮時だったんだろうな。とにかく、百合のことは大丈夫だ。お前はお前の仕事をしっかりやれよ』
俺の返事を待たずに、電話は切れた。
どうして……。
もうすぐ有休を消化し終えるってことは、咲が退職願を出したのは俺と離れた直後だろう。一日や二日でそんなことを決めるなんてことはないはずだ。ならば、俺と離れた時には、いや、一緒にいた時から庶務課を辞めることを決めていたということだ。
どうして、咲は俺に言わなかった――?
考えなくてもわかる。
必要がないからだ。
俺が上司でなくなったから、知らせる必要がなかったんだ。
だけど、そういう問題か?
俺はスマホの発信履歴から咲の番号を探した。百件ほど残る発信履歴の、中間くらいに咲の名前を見つけた。
恋人への発信履歴がこんなに下にあるなんて……。
そもそも、俺と咲が電話で話したのは何度あっただろう。
今は感傷に浸ってる時じゃない!
俺は咲の番号に発信した。
呼び出し音が三回で、アナウンスに切り替わった。
『おかけになった電話をお呼び出しいたしましたが……』
くそっ――。
次に、真さんの番号に発信する。今度は呼び出し音が三回鳴り終える前に、真さんの声が聞こえた。
「真さん!」
俺は真さんが話し出すより先に、呼び掛けた。
『はい?』
俺の声の勢いが良過ぎて、真さんは驚いた様子で答えた。
『どうした?』
「咲のこと――。じゃなくて、百合さんのこと……」
『ああ……、落ち着け。昼には戻るから、会議室で待っとけ。弁当買ってくよ』
今度も、俺の返事を待たずに、電話は切れた。
咲……、どこで何してるんだ……。
俺は腕時計を握りしめて、呼吸を整えた。
咲と離れて、自分がこんなに弱い男だったのかと思い知らされた。
今まで、本気で愛した女がいなかったから、失う辛さを知らなかった。
今まで、したいことだけをしてきたから、しなければならないことへの重圧を知らなかった。
咲に会いたい――。
握りしめていたスマホが鈍く震えだし、ハッとした。
咲!
期待は簡単に打ち砕かれた。
画面に表示されていたのは、おじさんの秘書の若木さんの名前だった。すぐに副社長室まで来るようにと言われ、俺は歯を食いしばって会議室を出た。
副社長室は不穏な空気に包まれていた。
おじさんはデスクの上で両手を強く組み合わせ、青ざめた顔で目を閉じていた。隣で若木さんが眉間に皺を寄せていた。
「座ってください」
若木さんに促されて、俺は応接用のソファに座った。すぐにドアがノックされ、秘書室の女性が飲み物を運んできた。
女性がテーブルに湯飲みを三つ、置いた。
あと一人、呼ばれているらしい。
俺の前に来た時、女性が俺をチラリと見た。自分でも女性にモテると自覚はあるが、社内で大人気の和泉社長の弟であることが女性の興味を助長させているようだった。
女性と入れ違いで、営業部長の有田さんが入って来た。
「すみません、お待たせしました」
有田さんは慌てた様子で俺の前に座ると、お茶を一気に飲み干した。
ようやく、おじさんが顔を上げた。
「有田くん、先ほどの話を副社長補佐に話してやってくれ」
フィナンシャルでの俺の役職は『副社長補佐』。
「はい……」と、有田さんが神妙な面持ちで俺を見た。
「これはまだ極秘だったのですが、昨年から和泉社長が自らチームを率いて新規のプロジェクトを進めていました。銀行や同業者と提携を結んでの、社運を賭けた規模です。ふた月後には金融庁への認可申請をする予定になっていました」
和泉兄さんがそんな大きなプロジェクトを抱えているなんて初耳だし、意外だった。
大事な時期に、どうして……。
「来週には提携企業との正式な契約を結ぶことになっていたのですが……」と、有田さんが口ごもった。
「提携予定の企業の三社が、和泉が社長職を離れていることが洩れて、契約を見直したいと言ってきた」
副社長が後を続けた。
「提携企業は十社、そのうちのトップ三社だ。まぁ、大企業なだけに、提携企業の内情に目を光らせていることはわかっていたし、隠し通せるとは思っていなかったが……」
副社長がため息をついた。
「副社長では対応出来ないのですか?」と、俺は聞いた。
「新進の若手実業家がタッグを組んで、古い保守体質の日本の金融をリノベーションする」
若木さんが眼鏡のブリッジをグイっと上げて、言った。
「今回のプロジャクトのキャッチフレーズらしい」
副社長がまた、ため息をつく。
なるほど。
和泉兄さんの好きそうなことだ。
和泉兄さんが高校で生徒会長をしていた時、開校以来からの校則を一新させたことを思い出した。
「プロジェクトが白紙に戻った場合の損失はいくらほどですか?」
俺の問いに、有田さんが渋い顔をした。
「二百億にはなるかと……」
二百億――。
「これはプロジェクトの損失のみです。余波を考えると、さらに三倍の損失は覚悟しないと……」
総額六百億の損失なんて……。
潰れはしなくても、グループが傾くぞ――。
経営の素人でもわかる。
これだけの損失を出せば、企業も個人も不信感を持つ。顧客離れも予想できる。あっという間に事業縮小や、撤退の危機だ。
『蒼はフィナンシャルで和泉社長の戻る場所を守ってあげて』
咲の言葉が頭をよぎる。
咲……、こうなることまで推測出来てたなら、恨むぞ――。
「副社長、この件はひとまず僕に預けてください」
絞り出すように副社長に言う。俺は腕時計を握りしめて、顔を上げた。
「有田さん、事業計画書を見せてください」
ここで躓いてちゃ、咲を取り戻せない!
俺は冷めたお茶を飲み干して、立ち上がった。
「うわぁ……、それはキツイなぁ?」
真さんが棒読みで言った。
「あ、それでこの弁当か」
真さんは弁当のステーキを箸でつまんで持ち上げた。
「サーロインステーキと牛肉煮弁当、税込み三千二百四十円。これ、和泉さんが蒼に買って行ってやってくれって金くれたんだよ」
「それで……って?」
真さんが買ってきたのは、ご飯の上に牛肉煮、さらに米沢牛サーロインステーキがのった豪華弁当。
「そろそろ、蒼がしんどくなる頃だからって言ってたけど、この状況を読んでたのかもな。百合さんの謹慎のことも知ってたし、謹慎中でも情報は入ってるらしいな」
「真さんも、百合さんのことは咲から聞いてたんですか?」
俺は無理やりに、口いっぱいにステーキを頬張った。
ピンチに直面して食欲をなくしてるなんて、和泉兄さんにも咲にも知られたくない。
「ああ……。そうなるだろうってことはな」
知らされてなかったのは、俺だけかよ。
「庶務課を辞めることは?」
「聞いてたよ」
「理由は? 咲が今、どこで何をしているかは?」
俺は前のめりになって、矢継ぎ早に質問した。
「まぁ、落ち着け」
真さんはペットボトルのお茶を俺に渡した。俺は受け取って、一気に半分ほど流し込んだ。
「お前に聞かれたら教えるように言われてるから、ちゃんと話すよ」
やっぱり、俺だけ置き去りかよ――。
百合さんが謹慎処分になるだろうことも、咲が庶務課を辞めることも聞かされていなかったことへの不安や疎外感で、俺はすっかり捻くれた考えをするようになっていた。
「咲は清水の被害者女性に会いに行ってるよ」
「え……?」
予想していなかった。
「清水のPCにあった写真に写っていた女性で、身元が特定できた人全員に会うって」
「なんで……」
「お前が言ったんだろ? 『被害者が増える前に、被害者が晒し者にならないように処理したかった』って」
あ……。
確かに言った。ホテルで、咲に指輪を返される前。
「事件が大きくなって、一番大事なことを忘れていたよ。黒幕が誰であれ、目的が何であれ、一番の被害者は弄ばれた女性たちだ。咲でさえ後回しに考えてしまった女性たちのことを、お前は一番に考えた」
「それは……。だけど、俺は何も……」
「お前の言葉を聞いて、咲は表に出る覚悟を決めたんだよ」
表に出る覚悟……?
ランチから戻った秘書課の女性たちの話し声が、会議室の前を通り過ぎて行った。
「被害者女性に直接会うってことは、咲の素性を明かさなきゃいけない。庶務課の一社員だと名乗るわけにはいかないだろう? 極秘戦略課の課長って肩書で、女性たちを安心させなきゃいけない」
「だから、庶務課を辞める?」
「それがすべてではないけど……。まぁ、潮時だったんだろうな」
潮時……。
侑も同じことを言っていた。
「こうなることを考えずに、百合さんが和泉社長に協力したと思うか?」
そうだ。
百合さんのことはよく知らないけど、少なくとも和泉兄さんは百合さんを巻きもむことのリスクは承知だったはず。
では、なぜビッグプロジャクトが進行中の今、俺たちに清水の悪事を暴かせた?
なぜ充兄さんに嗅ぎつけられるリスクを冒して、川原と接触した?
「百合さんと和泉社長が元恋人以上の絆があっても、俺達にはわからない。けど、咲がお前のために自分の身の振り方を変えたのには、百合さんと和泉社長のそれと同じように、恋人以上の絆みたいなものがあるからじゃないのか?」
絆……?
「少なくとも、俺が知っている限り、咲が他人のために自分の考えや行動を変えるなんて初めてだよ」
初めて……。
俺は咲と付き合い始めて『初めて』のことが多かった。女の部屋も、女の手料理も、女と朝を迎えることも、女に指輪を贈ることも、愛してると言うことも……。
『初めて』が多い分だけ『特別』になっていった。
咲も、俺と同じように想ってくれていたのだろうか。
ずっと、俺ばかりが咲を愛して、欲しがって、離れられなくなっているのだと感じていた。
けれど、咲にとっても俺は『初めて』で『特別』になれていたのだろうか……。
「蒼、自信を持て」と、真さんが言った。
「え……?」
「お前、ひどい顔してるぞ」
「ひどい顔にもなるでしょ。恋人には会えないし、畑違いの仕事には慣れないし、その上二百億なんて……」
俺はため息をつきながら、弁当の残りをかけこんだ。拒否反応を示す胃を黙らせるために、お茶で流し込む。自分の胃との格闘に必死で、真さんが呟いた言葉に気が付かなかった。
「そうだな。さすがにこれは助っ人が必要だな――」
応援ありがとうございます!
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