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第六章
三 意外な助っ人
しおりを挟む「大丈夫かよ?」
憔悴しきった俺の顔を見て、侑が言った。
和泉兄さんが進めていたプロジェクトの計画書を読み込むこと三日、俺の頭の中では億単位の数字が渦を巻いていた。昨夜はついに、福沢諭吉に追いかけられる夢を見た。
プロジェクトを立て直す糸口が見つけられずに焦る俺を見兼ねて、真さんが飲みに誘ってくれた。
週末とあって『High & Low』は満席状態で、俺たちは頼まなくても個室に案内された。
「大丈夫に見えるかよ――」
俺はソファに身体を預けて、天を仰いだ。
「計画書は分厚過ぎるし、何回読んでも理解出来ないし! つーか、計画書を何回か読んだくらいで日本の金融を動かせっつーのが無理な話だろ!!」
人生初と言っても過言ではない、高くて分厚い壁にぶち当たっていた。
提携を見直したいと言ってきた企業を説得する方法が見つけられない上に、もう一社からも提携を白紙にと連絡が入った。営業部長の有田さんは連日、相手先に赴いて担当者との面会を申し込んだが、受付嬢に笑顔で断られていた。
「そりゃ、そーだ」
真さんが呟いた。
俺は大きなため息をつくと、身体を起こしてグラスを手に取った。
「真さんの方はどうです?」
「ああ……、正直面白くないな」と、真さんが表情を曇らせた。
「と言うと?」
「充副社長が川原から入手した証拠だけを見ると、どれも黒幕は観光事業に関わっている人間を示すものだ。だが、金の流れが全く掴めない。恐らく、取引に使われたのは架空口座だろう。そこへ、川原と和泉社長が接触した証拠写真と川原の証言だ。和泉社長が充副社長の仕業に見えるように偽装して、金を受け取っていたって流れに変わった。和泉社長なら架空口座の扱いもお手のもんだろ」
「なんだ……それ」と、侑が漏らした。
「それだけ聞いたら、こじらせた兄弟喧嘩でしかないだろ……」
兄弟喧嘩……。
「だよな」と、真さんが言った。
俺たちは三人同時にグラスに口をつけた。少しの沈黙の後、俺がそれを破った。
「なぁ……、和泉兄さんはどうして重要なプロジェクトが大詰めって時に、俺を咲に近づかせて、清水の犯罪を暴かせたと思う?」
「は……?」
「いや、ずっと不思議だったんだよ。こんな大事な時期にこんな危険を冒すなんて、和泉兄さんらしくない。充兄さんにしてもそうだ。いくら和泉兄さんと不仲でも、グループのことを考えたら取締役会で大捕り物なんて、らしくない」
「そうなのか……?」
ドアがノックされて、バーテンダーが追加のビールを運んできた。俺たちは残り少ないグラスの中身を飲み干して、バーテンダーに手渡す。
「らしくない……のか?」と、真さんが話の続きを促した。
「ああ。和泉兄さんは真面目で優しいって、型にはまった優等生タイプの印象を持たれることが多いけど、実際は自己中で気分屋なんだよ。基本的に自分の都合のいいことや楽しいことにしか興味を持たないし、動かない。反対に、自分勝手で協調性がなさそうに思われがちな充兄さんの方が、情を大切にして他人に尽くすし、大切なもののためなら自分が泥をかぶることもいとわないんだよ」
「真逆だから反発しあうってことか」と、侑が言う。
「充副社長とは面識はないが、和泉社長に関しては同感だな。一見、人当たりもいいし穏やかな物言いだが、表情を崩さないから感情が読めないし、常に試されているような緊張感を持たされる」と言って、真さんは俺を見た。
「ぶっちゃけて言えば、俺様野郎だな」
「ぶっ――!」
侑がビールを吹き出しかけて、慌てて手で口を塞いだ。
「えーーーっと……。兄と何かありました?」
俺は興味半分、恐怖半分で聞いた。
真さんは露骨に不機嫌な表情で言った。
「初対面で『きみってロリコンっぽいよね』って言ったんだよ!」
「ぶっ――!」
今度は耐え切れずに、侑が吹き出した。ゴホッゴホッとむせ返る。
「真さん……。彼女との年の差を気にしてるんですか?」
「気にしてねーよ!」
「ははっ! 絶対気にしてますよね」と侑が茶化して言った。
「前は若い彼女が羨ましいだろって自慢してたのに」
侑は九歳年上の彼女、真さんは九歳年下の彼女で、張り合っているようにも見えた。
「俺はな! おっさんになる前にお父さんになりたかったんだよ!」と、真さんは興奮気味に言った。
「おっさんて……誰かに言われたんですか?」
俺は恐る恐る聞いた。
「あいつにちょっかい出してる男……」
真さんが子供のように口をとがらせて言った。
「その男、度胸ありますね」と、侑。
「しつこい男がいるって聞いてたから、威嚇してやろうと思って迎えに行ったんだよ。そしたら、面と向かって『こんなおっさんより俺と付き合ってくださいって』告りやがった」
真さんはグラスに半分残っていたビールを飲み干し、追加を注文した。
「で、彼女は何て?」と、俺は聞いた。
「…………」
真さんは俺たちから視線を逸らして、黙った。
「いや、そこまで話したんなら黙んないでくださいよ」
侑は面白がって笑っていた。
「彼女は何て言ったんですか?」
「『私のおっさんよりいい男になれたら、出直してこい』って……」
「なんだ、のろけじゃないですか」と、侑がつまらなそうな顔になる。
「いい女じゃないですか」と俺が言う。
「お前ら、自分の女に『おっさん』て認められたんだぞ? どこがのろけだよ」
「いや、彼女に言い寄った男にしたら、かなりのダメージですよ? 若さなんて武器にならないって言い切られたんだから」
真さんがあっけにとられた表情で、俺を見た。
「そういう……とりかたもあるか?」
「そういうって……、他にどうとるんですか? 若いだけで中身のない男は必要ないってことでしょう?」
真さんは徐に財布を取り出して、一万円札を一枚テーブルに置いた。
「帰る……」
「えっ?」
「彼女に会いたくなっちゃいました?」と、侑がテーブルに肘をついて、にやけ顔で言った。
「悪いか。俺はお前らと違って可愛い彼女にいつでも会えるからな」
真さんは得意気に言って、ドアの前で振り返った。
「蒼、週末は開けておけ。どうせ出社の予定だろうけど、俺が連絡するまで自宅待機してろ」
「はいっ?」
「じゃあな!」
真さんは部屋を飛び出していった。
「くっそ! 痛いとこついてくれるよ」
侑が苦い顔をして、ビールを飲み干した。
「いつから会ってない?」
「お前と同じくらい?」
「そうか……」
俺は聞こうか迷って、聞くことにした。
「咲とは?」
侑は少し間を置いてから、答えた。
「咲は大丈夫だ。少なくとも、今のお前よりは元気だよ」
「そう……か」
俺も侑も、それ以上咲の話はしなかった。
咲の名前を聞くと、会いたくなる。
咲の名前を口にすると、抱き締めたくなる。
なぁ、咲。
お前も少しは俺を恋しがってるか?
俺と侑は久し振りに記憶をなくすほど、飲んだ――。
翌朝、店からどうやって帰ったのかは記憶にないのに、咲の夢を見ていたことは覚えていた。
初めて咲を抱いた夜の夢。
俺の腕の中で顔を赤らめて、小さく震える可愛い咲。俺の愛撫に身体を強張らせ、息をするのも忘れてもがく可愛い咲。
夢の中の咲に欲情する自分を戒めるために、俺は冷たいシャワーで頭と身体を冷やした。
身支度を整えて、近所のカフェでコーヒーとサンドイッチを注文していると、真さんから電話がかかってきた。
「はい」
『よう。二日酔いになってないだろうな?』
真さんは楽しい夜を過ごしたようで、いつもよりも声のトーンが高かった。
「おかげさまで」
『俺の家の住所を送るから、一時間以内に来い』
「は?」
自分で思うより声が店内に響き、隣の席で雑誌を広げている女性が俺を見た。
『一時間以内だぞ』
一方的に、通話が切られた。十秒ほどで、メッセージが届いた。真さんの家の住所を確認し、電車の時間を調べようかと思ったが、面倒になってスマホをテーブルに置いた。アルコールで弱った胃に鞭を打って、俺はサンドイッチを詰め込んだ。
カフェを出て、タクシーを捕まえるために大通りまで歩いていると、スーパーのガラス越しにずらりと並ぶイチゴが目に入った。俺は引き寄せられるように、スーパーに入った。
何やってんだ……俺……。
スーパーの袋を見ては、ため息が止まらない。
真さんの電話から四十五分後、俺は『藤川』の表札が掛かった家のインターホンを押した。
真さんの家は俺のマンションからタクシーで三十分ほどの場所で、一軒家だった。
まだ……結婚してないはずだけど……。
『空いてるから入って来い』
インターホンから真さんの声がして、俺は玄関のドアを開けた。
玄関にはメンズの革靴が三足、並んでいた。黒の二足は真さんのものらしく、もう一足は少し年配者向けの茶のもの。
「こっちだ」
真さんが玄関正面のドアから顔を出した。
「お邪魔します……」と言って、俺は靴を脱いで、茶の靴の隣に並べた。
「迷わなかったか?」
「タクシー使ったんで。それより、来客中でしたか?」
「いや、お前に会わせたい人を呼んだんだよ」
会わせたい人……?
リビングに入ると、六十代だろう男性がソファに座っていた。父さんと同じ年くらいに見える。
男性に挨拶する前に、俺は真さんにスーパーの袋を渡した。
「土産か?」と言って、真さんが袋を覗き込む。
「くくくっ――!」
中身を見た真さんが、声を殺して笑った。
「美味そうに並んでたからってだけで、深い意味はないですよ」
そうだよな。
真さんが咲の好きな物を知らないわけがないんだ。
やめておけば良かったと後悔した。
「いや、確かに美味そうだよ。咲に食わせてやりたいよな」
彼女に好物も食わせてやれないなんて、惨めでしかなかった。
「伯父さんも好きだよね? イチゴ」
真さんが男性に聞いた。
伯父さん……?
俺と真さんの様子を見ていた男性が、微笑んだ。
「ああ、好きだよ」
誰かに似て――。
思わず男性の顔を凝視してしまい、目が合った。俺は慌てて頭を下げた。
「初めまして、築島蒼です」
男性は立ち上がって、俺に歩み寄った。
「成瀬明久です。よろしく」と言い、男性は俺に右手を差し出した。
俺も右手を差し出し、柔らかく温かい手を握った。
ん……?
なる……せ……って――。
俺の顔色が変わるのに気が付いて、真さんが言った。
「咲の父親だよ」
なっ――――!
俺は言葉を失った。
春から、驚かされることには慣れてきたはずだったが、これには思考停止に陥るほど驚いた。
まさか、夢に出てくるほど会いたくても会えない女の父親と対面することになるとは……。
「君のことは真から聞いていました。娘がお世話になっているようで……」
成瀬さんがゆっくりと俺の手を離し、言った。
「いえっ。こちらこそ咲さんにはお世話になりまして――」
動揺しながらも、咲を『咲さん』と言えたことにホッとした。
「緊張しないでください。実はね、君とは初対面ではないんだよ」
「え?」
「君のお父さんとは面識があってね。君と咲も幼い頃に会っているんだよ」
え……?
俺は真さんの顔を見た。
「初耳だよ」と、真さんは俺の無言の問いに答えた。
「まぁ、座れよ。コーヒー淹れてくるから」
真さんに促されて、俺と成瀬さんはソファに座った。さすがに隣に並ぶ勇気はなくて、俺は成瀬さんの角向かいに腰を下ろした。
「お父さんはお元気かい?」と、成瀬さんが聞いた。
「はい」
「昔、お父さんと仕事をしたことがあってね。君のお母さんも私の妻も元気だった頃は、家族ぐるみでお付き合いさせてもらっていたんだよ」
じゃあ……。
「お兄さんたちもお元気かな?」
「はい」
やっぱり……。
兄さんたちとも面識があったのか。
ん?
じゃあ、兄さんたちも咲と会ったことがある?
母さんが生きていた頃となると俺が五歳より以前だから、和泉兄さんは高校生で、充兄さんは中学生。
もしかして、兄さんたちは咲を覚えてる?
「まさか、君と咲が親しくなるとは……」
成瀬さんがポツリと言った。
俺はその言葉をどう捉えていいものか、返事に困った。そのことに、成瀬さんはすぐに気が付いた。
「否定的な意味ではないよ。咲の相手が君で少し驚いたが、嬉しいくらいだよ」
素直に、嬉しかった。
「蒼、しっかり外堀を固めておけよ」
真さんがカップを三つ、テーブルに置く。
「伯父さんに認められたら、怖いもんなしだろ」
「ははは……。私にそんな影響力はないよ」
「あれ? 家族ぐるみでってことは、蒼はこの家にも来てたのか?」真さんが聞いた。
俺がこの家に?
成瀬さんはコーヒーを一口飲んでから、答えた。
「何回かね」
「この家は咲が生まれ育った家なんだよ」と、真さんが俺に言った。
「咲の母さんが亡くなって、咲は俺の家に預けられたんだけど、伯父さんが東京から引き上げるまでここで暮らしていたんだ。で、俺と咲が東京で暮らすことになって、リノベーションしたんだよ」
なるほど。
「懐かしいことを思い出したよ」と言って、成瀬さんが微笑む。
「最後に君の家族とこの家で過ごした時、咲と君が喧嘩してね」
「なんで?」と真さんが聞いた。
「咲が充くんを気に入ってね。大きくなったら充くんのお嫁さんになるんだって言いだしたんだよ。そしたら、蒼くんが絶対ダメだって怒ったらしい」
咲が充兄さんを……?
俺は記憶にない俺と咲のエピソードに聞き入っていた。
「お前、そんなガキの頃から咲が好きだったのか」と、真さんが茶化す。
「覚えてないですよ……」
「咲を泣かせた君も充くんに叱られて泣き出すし、和泉くんは笑って眺めてるし、咲は充くんにしがみついて放そうとしないしで、私たちも困ってしまったよ……」
成瀬さんは懐かしそうに、寂しそうに目を細めた。
「昔のことは覚えてないですけど……」
自分でも驚くほど穏やかな気持ちで、すんなりと言葉が出た。
「もう、咲を泣かせたりしません」
他に言い方があったのかもしれない。
『大切にします』とか『幸せにします』とか。
でも、『もう泣かせない』が、今の俺の決意でもあり、願いだった。
「君はお父さんの跡を継ぐのかい?」
そう聞いた成瀬さんの表情から、微笑みは消えていた。
俺は唾を飲み、腕時計を握った。歯を食いしばって成瀬さんの目を見た。
「まだ、わかりません。今は、僕の出来ることをやろうと思います」
成瀬さんは俺の置かれた状況と立場を知っていて、聞いたのだと思った。
試されている……。
「蒼、伯父さんは昔金融関係の仕事をしていたんだよ。経営に携わっていたこともある。今のお前に必要な知識を持ってる」
真さんが穏やかに言った。
「咲は……、知ってるんですか?」と、俺は聞いた。
「伯父さんを呼んだのは俺の判断だ。咲には事後報告しておいたよ」
「昨夜、咲と電話で話したよ」と成瀬さんが言う。
「君の力になって欲しいと言われたよ」
咲――!
今は咲の夢に溺れている時じゃない。
「微力ながら、お手伝いさせてもらおう。ただし、君に金融に関わる才能がないと判断したら、そこで終わりだ」
そう言って俺を見た成瀬さんに、咲の姿が重なった。
「どの分野にも向き不向きがある。やる気だけでなんとかなることとならないことがある。金融に関わるには特有の才能や感性が必要だと、私は思っている。それは、経営も同じだ。私なりに君に可能性があるかを見極めさせてもらうよ」
そうか……。
咲の獣の目は、父親譲りなんだ――。
「僕も、ないものねだりで足掻くつもりはありません。僕に才能があるのかは、僕自身が知りたいところです」
望むところだ。
「潔さは備わっているようだね。では、話を聞こうか」
応援ありがとうございます!
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