新世界~光の中の少年~

Ray

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第三十二話

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「瑞樹は、どの建物が好き?」
「これ!」
「そうか、これかぁ。この建物はね……」
 父の腕に抱えられた子は熱心に書物を観察していた。
 ガラス張りのキラキラと輝く建物を見つけると必ず指を差し、感嘆の声をあげる。父はその構造、デザイン、機能性や技術について事細かに説明した。子供にはとても難しい内容であったが、そんなのはお構いなしで次々に指を差した。
 書斎で日常的に垣間見えたこの光景、そこには常に父の調べが優しく響いていた。

 瑞樹はドアノブに手を掛けたまま、立ち尽くしていた。
 一滴の涙が、頬を伝う。
 一切立ち入らなかったこの部屋は、以前と全く変わっていない。今にもそこに父が座って振り返り、両手を広げ迎え入れてくれるような、そんな気がした。
 どこもかしこも思い出が詰まり過ぎていて、目のやり場を失う。壁には夢いっぱいの設計図がはみ出した形跡があり、シュッシュッと線を描いている。
 ずらっと建築書物が並ぶ本棚の下段には、幼い瑞樹のお気に入りが揃っていた。その隣にはおもちゃ代わりにして遊んだ製図台。そして傍らに置かれた棚にはL字や丸形など様々な形をした製図用具があることを知っている。分度器を父の顔に当てては、鼻や眉毛などの角度を測って戯れていた。
 そこで瑞樹の顔にフッと明るさが戻る。

 足を、一歩前へと踏み出す。
 すっと深呼吸をすれば、父の残り香が香るようだった。あの頃見上げていた景色、今では彼と同じ高さで見られているだろうか。
 椅子の背もたれにそっと触れると、あははは、と笑い声が蘇った。
 お父さん……
 自然にそこへ腰を下ろす。座面の冷たさが、腿にひしひしと伝わる。埃一つない机の上には鉛筆や定規、コンパスが筆立てに収まっていた。
 ひとつずつそれを手に取り、じっと眺める。
「瑞樹は将来何になりたい?」
「建築家!」
「そうか。じゃあ、お父さんと一緒だな」
 目頭が次第に熱くなる。
 父は息子の願いを叶えようと、必死で働いていたのだ。あの通帳にはその血と汗と涙がしかと刻印されていた。きっと命まで削っていたに違いない、自分のために。
 そんなこと、しなくていいのに……
 お父さんさえいてくれれば、それでよかったのに……
 涙がぽろぽろと溢れ出る。今度ばかりは止められなかった。
 大好きな人、尊敬すべき人間。どうしてあんなに良い人が、早くこの世を去ってしまうのだろうか。
 嗚咽を許し、しばしうなだれた。
 何故、どうして、そんなことばかりが頭を駆け巡る。
 納得できない、どうしても理解し難いが、受け入れるしかない。
 瑞樹は大きく深呼吸をし、ゆっくりと起き上がった。
 目線を本棚へ向ける。そのまま手を伸ばし一冊取り出して、パラパラと開いた。そして戻し、新しいものを取り出す。その作業を次へ次へ、黙々と続けた。
 夜が、明けるまで。
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