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三
第三十三話
しおりを挟む「そうか、あれルカ君だったんだ」
司沙は驚きの表情でそう言った。
ヘブンズバーガーのカウンターには普段裏にいる店長さえも顔を出していた。
「ねぇ、また来れないの? この春休み」
葵が切なく呟く。
「はい、受験勉強をしなきゃいけないので……」
「へぇ、もうそんな時期なんだねぇ」
と店長が言うと、茅野は「どうか息抜きにでも遊びに来てね」と気遣った。
瑞樹はにっこりと頷き、トレーを持つとその場を後にした。いつまでも見送るその視線を背に感じながら。
突き当りに近づくと手がプルプル震えた。こればかりはいつになっても慣れることはない。
そこに座ってへらへらと笑いながら、携帯を向けていたあいつ。足の感触だってまだはっきりと覚えている。
そして自分に刃が向いた途端、飛び降り自殺を図ったのだ。もしかしたら、それが我が身だったかもしれないと思うと、心臓がドクンと痛んだ。
目を閉じ、『さようなら』と心で手を合わせた。
いつものテーブルには暖かに降り注ぐ昼下がりの日差しがあった。辺りには浮かれる若者達、おしゃべりに勤しむ婦人。その子供達も陽気な雰囲気に呑み込まれ、キャーキャーと騒いでいる。
去年はこの和やかな雰囲気の中で悲劇が起こったのだなと、しみじみ顧みた。
瑞樹は両手で抱えたフィッシュバーガーを大きく一口頬張った。重すぎないマヨネーズの甘さと酸味、丁度良い塩加減で調理された白身魚のフライ、そのサクッと香ばしい触感。
葵は元々本社で働いていたフードコーディネーターだった。あそこで働くようになった理由は、店長の人柄に惚れたから。このバーガーも彼女の渾身の一品であった。オイルの質にこだわりながら触感を維持し、コストを抑えることが難題だと言う。
二口目を噛み締めると、その努力に敬意を感じた。それと共に浮かぶみんなの笑顔。物に込められた思いは旨味と同じくらい大切な気がした。
三口目、ふと至福の表情が消える。
あの時、一切の抵抗をしなかったことへの後悔が沸々と湧いたのだ。この味にケチをつけ、踏み躙った人間を許すべきでは、なかった。
思いもよらず悶々とした食後は、無造作にスケッチブックを取り出した。開けば一瞬ドキッと鼓動が波打つ。
尚々近づくあの子の瞳が生きてこちらを見るように感じたのだ。美術的知識については全く興味がなかった瑞樹も、このために本を読み漁り、テクニックの勉強をした。
実際に触れてみることが大切であると、まじまじと鏡に向かい、ひねったり、つついたり、こすったりした。
この滑稽にも見える作業が功を奏したのか、やっと満足のいくものが描けるようになっていた。頭ではわかっていながらも、目に見えるものだけで情報を得ようとしていたことにその時気づく。人間を形成するのは、その中に流れる血や性分、嗜好、それを全て含んだ上で成り立つことを、学んだ。
毛嫌いしていたヌード絵画も、食い入るように見入った。対象に肉体関係があるかどうかで表れるその生々しさ。風景画でもそこに思い入れがあるかどうかでまた違う。知っていたようで改めて実感させられたアートの奥深さ。ただ乱暴に怒りをぶつけていたこれまでの行動に、罪悪感さえ覚えた。
あともう少し、何か物足りないのだ、という所で、外はすっかり日が落ちていた。 ピューッと吹き抜ける風は以前と比べ、とても柔らかい。今では通りの桜並木が、一気に花を咲かせてやろうと膨らみを帯びていた。
いつものように大通りから路地に入り、住宅街を抜ける。
プーンと漂う石鹸の匂い。一般的には夕飯が終わり、風呂の時間なのか。うちでは父の帰りを待つため、食事をするのは割と遅い方であった。
「瑞樹、お腹空いてない? 大丈夫?」
「今日はもう食べちゃおうか」
との会話が毎晩のように繰り広げられていたものだ。
父が帰ってきたら、どう驚かせようかとワクワクしていたあの日々。
懐かしい……
空を見上げれば、雲の合間に月が覗いていた。満月迄はあともう少しあるだろうか。
その時にはまた満開の桜が、見られるのだろうか。
すっと息を吸い、若葉の香りと共に、花見の記憶を思い起こす。描こうとして結局叶わなかったあの美しい情景は、まだ色濃く焼き付いていた。
裏門に差し掛かると、ぼーっと歩く瑞樹の顔が突如、パッと晴れた。スケッチブックをがさごそと取り出し、道路脇へしゃがみ込む。街灯の薄明りの下、手をひたすらに動かした。
そこに描いたのは、月。
やっぱりそうだ、この力強さ、あの瞳に感じるものと、とても似ているのだ。
あの子に会う度に、どこか懐かしさを感じたのは、きっとそのせいかもしれない。この絵に足りなかったものが、やっと掴めたような気がした。
これがパズルのラストピース。
中に人影が無いことを確認すると、瑞樹は早々にそこを去った。瑞樹は仕方なしにパタンとそれを閉じ、立ち上がる。
「あ、瑞樹、お帰り」
「ただいま。はい、これ」
「アップルパイだぁ、ありがとう。美味しいよね、これ」
頭の中はそれどころではない。
「お風呂は?」と聞かれ、「後で」と言いながらそそくさと部屋に閉じ籠った。
この一瞬のひらめきがうつろう前に仕上げなければ、と天才芸術家の如く筆を走らせる。その目は活き活きと機敏に動いていた。深夜も二時を回った頃、手が止まる。
そう、これだ……
思ったものを形にできる嬉しさ、それを心から、味わっていた。
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