33 / 56
三
第三十三話
しおりを挟む「そうか、あれルカ君だったんだ」
司沙は驚きの表情でそう言った。
ヘブンズバーガーのカウンターには普段裏にいる店長さえも顔を出していた。
「ねぇ、また来れないの? この春休み」
葵が切なく呟く。
「はい、受験勉強をしなきゃいけないので……」
「へぇ、もうそんな時期なんだねぇ」
と店長が言うと、茅野は「どうか息抜きにでも遊びに来てね」と気遣った。
瑞樹はにっこりと頷き、トレーを持つとその場を後にした。いつまでも見送るその視線を背に感じながら。
突き当りに近づくと手がプルプル震えた。こればかりはいつになっても慣れることはない。
そこに座ってへらへらと笑いながら、携帯を向けていたあいつ。足の感触だってまだはっきりと覚えている。
そして自分に刃が向いた途端、飛び降り自殺を図ったのだ。もしかしたら、それが我が身だったかもしれないと思うと、心臓がドクンと痛んだ。
目を閉じ、『さようなら』と心で手を合わせた。
いつものテーブルには暖かに降り注ぐ昼下がりの日差しがあった。辺りには浮かれる若者達、おしゃべりに勤しむ婦人。その子供達も陽気な雰囲気に呑み込まれ、キャーキャーと騒いでいる。
去年はこの和やかな雰囲気の中で悲劇が起こったのだなと、しみじみ顧みた。
瑞樹は両手で抱えたフィッシュバーガーを大きく一口頬張った。重すぎないマヨネーズの甘さと酸味、丁度良い塩加減で調理された白身魚のフライ、そのサクッと香ばしい触感。
葵は元々本社で働いていたフードコーディネーターだった。あそこで働くようになった理由は、店長の人柄に惚れたから。このバーガーも彼女の渾身の一品であった。オイルの質にこだわりながら触感を維持し、コストを抑えることが難題だと言う。
二口目を噛み締めると、その努力に敬意を感じた。それと共に浮かぶみんなの笑顔。物に込められた思いは旨味と同じくらい大切な気がした。
三口目、ふと至福の表情が消える。
あの時、一切の抵抗をしなかったことへの後悔が沸々と湧いたのだ。この味にケチをつけ、踏み躙った人間を許すべきでは、なかった。
思いもよらず悶々とした食後は、無造作にスケッチブックを取り出した。開けば一瞬ドキッと鼓動が波打つ。
尚々近づくあの子の瞳が生きてこちらを見るように感じたのだ。美術的知識については全く興味がなかった瑞樹も、このために本を読み漁り、テクニックの勉強をした。
実際に触れてみることが大切であると、まじまじと鏡に向かい、ひねったり、つついたり、こすったりした。
この滑稽にも見える作業が功を奏したのか、やっと満足のいくものが描けるようになっていた。頭ではわかっていながらも、目に見えるものだけで情報を得ようとしていたことにその時気づく。人間を形成するのは、その中に流れる血や性分、嗜好、それを全て含んだ上で成り立つことを、学んだ。
毛嫌いしていたヌード絵画も、食い入るように見入った。対象に肉体関係があるかどうかで表れるその生々しさ。風景画でもそこに思い入れがあるかどうかでまた違う。知っていたようで改めて実感させられたアートの奥深さ。ただ乱暴に怒りをぶつけていたこれまでの行動に、罪悪感さえ覚えた。
あともう少し、何か物足りないのだ、という所で、外はすっかり日が落ちていた。 ピューッと吹き抜ける風は以前と比べ、とても柔らかい。今では通りの桜並木が、一気に花を咲かせてやろうと膨らみを帯びていた。
いつものように大通りから路地に入り、住宅街を抜ける。
プーンと漂う石鹸の匂い。一般的には夕飯が終わり、風呂の時間なのか。うちでは父の帰りを待つため、食事をするのは割と遅い方であった。
「瑞樹、お腹空いてない? 大丈夫?」
「今日はもう食べちゃおうか」
との会話が毎晩のように繰り広げられていたものだ。
父が帰ってきたら、どう驚かせようかとワクワクしていたあの日々。
懐かしい……
空を見上げれば、雲の合間に月が覗いていた。満月迄はあともう少しあるだろうか。
その時にはまた満開の桜が、見られるのだろうか。
すっと息を吸い、若葉の香りと共に、花見の記憶を思い起こす。描こうとして結局叶わなかったあの美しい情景は、まだ色濃く焼き付いていた。
裏門に差し掛かると、ぼーっと歩く瑞樹の顔が突如、パッと晴れた。スケッチブックをがさごそと取り出し、道路脇へしゃがみ込む。街灯の薄明りの下、手をひたすらに動かした。
そこに描いたのは、月。
やっぱりそうだ、この力強さ、あの瞳に感じるものと、とても似ているのだ。
あの子に会う度に、どこか懐かしさを感じたのは、きっとそのせいかもしれない。この絵に足りなかったものが、やっと掴めたような気がした。
これがパズルのラストピース。
中に人影が無いことを確認すると、瑞樹は早々にそこを去った。瑞樹は仕方なしにパタンとそれを閉じ、立ち上がる。
「あ、瑞樹、お帰り」
「ただいま。はい、これ」
「アップルパイだぁ、ありがとう。美味しいよね、これ」
頭の中はそれどころではない。
「お風呂は?」と聞かれ、「後で」と言いながらそそくさと部屋に閉じ籠った。
この一瞬のひらめきがうつろう前に仕上げなければ、と天才芸術家の如く筆を走らせる。その目は活き活きと機敏に動いていた。深夜も二時を回った頃、手が止まる。
そう、これだ……
思ったものを形にできる嬉しさ、それを心から、味わっていた。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
鷹鷲高校執事科
三石成
青春
経済社会が崩壊した後に、貴族制度が生まれた近未来。
東京都内に広大な敷地を持つ全寮制の鷹鷲高校には、貴族の子息が所属する帝王科と、そんな貴族に仕える、優秀な執事を育成するための執事科が設立されている。
物語の中心となるのは、鷹鷲高校男子部の三年生。
各々に悩みや望みを抱えた彼らは、高校三年生という貴重な一年間で、学校の行事や事件を通して、生涯の主人と執事を見つけていく。
表紙イラスト:燈実 黙(@off_the_lamp)
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる