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一
第三十六話
しおりを挟む母はもう、泣いていた。
少し光沢のあるシャドーストライプの黒いブランドスーツ、これは父のお気に入りだった。それを瑞樹が纏っていたのだから、無理もない。
初めて詰襟を着た時のむず痒さ。こればっかりは一向に慣れる気配はないが、サイズはジャストフィットのようだった。一級建築士ならば、身なりにも気を遣わなければならない、母はそれを割とお洒落さんだったのよ、と表現した。
一方の息子は、着る物など全くこだわらない。
黒を基本としたスエットパーカーにデニムのジーンズというラフなスタイルで何年も過ごすような有様なのだから、入学式も「何でもいい」と案の定の返事をしていた。
母はすると、父のクローゼットを開き、これ、どうかな、と半ば嬉しそうに提案。そして今日に至ったのだが、七五三のような感覚は否めない。
「さあ、それじゃ、行こっか」
母は参加すると言って聞かなかった。せめてあの入学式看板の前で写真が撮りたいと譲らないので、瑞樹が折れる形となる。気持ちは十二分にわかるものの、乗り気がしない。だが仕方がないか、との面持ちで助手席のドアを開いた。
車窓にちらほらと映るのは、胸に花飾りを付けた学生らや親子の姿。
幸せそうだ。
我が家も同じ状況ではありながら、この妙な疎外感は何なのか。ただ、卑屈になっているだけなのだろうか。
「わぁ、綺麗だねぇ」
寺の境内からは見事な枝垂桜が道まで流れ咲き、過ぎ行く者を魅了していた。老夫婦が立ち止まり、指を差しながら何やら会話をしている。仲睦まじく和やかな風景。
もし父が生きていたら、母だって、あんな老後を思い描いていただろう。二人はいつも仲良くじゃれ合って、笑い合って、相思相愛であったから。そんな不憫な人に、来なくてもいいよ、などと言ったことを少し、後悔した。
「あー、よかった、間に合った」
高速道路は事故渋滞、足止めを食っていた。別に式など出席せずとも構わないのだが、その言葉は察して伏せた。そして念願の入学式の達筆は立派に日の目を浴びており、そこでパシャパシャと被写体に徹する。知り合いが居なくてよかったと、その時思った。
「じゃ、行こう」と誘うと、「え? いいの?」と言った時の母の表情は可愛らしかった。そろそろ親孝行をしなければ。いつまでも誰かに縋って甘えて生きる人生は、終わりにした。
できれば自分が父親代わりになってあげられたら、母は今より少しでも幸せになってくれるだろうか。そんなことを考えた。
兎に角しっかり勉強して、迷惑をかけない人間になる。まずはそこからだ、と意を決し式場に参い入る。
場内は、アートをこれ見よがしに散りばめた装飾品が主張していた。これまでの式典との違いに唖然も、更にはそれに引けを取らない学長の個性的な正装。きっとこれには母も驚いているだろうと、憂いた。
周りの新入生も、服装は自分と大差ないが髪型は斬新で、そしてまた発色も様々だった。前例にない習い、それが吉と出るか凶と出るか不安は拭えないものの、いくらかの期待を抱かせた。
「ねっ、凄かったね。ザ・美大って感じ」
母は多様性に寛容であることを、良かったと安堵した。建築の専攻をやめたこと。それを知らせると、「うん、わかった」とだけ言って、にっこりと笑った。
そこに覚えたのは、感謝。
復学すると言った時も、「うん、わかった」と受け入れた。息子を無理矢理にでも引き摺って、連れ去るような人ではない。それが親として正しいのかどうか、わからないが、子供としてはただ有難かった。
ブルルル、と携帯が鳴る。
「お、瑞樹か。俺だよ、俺」
俺の主は、登録数の少ないフレンドリストからも容易にわかった。
「なぁ、今から、空いてるか?お祝いだよ、お祝い」
母をちらっと見やると、「友達?」と言うそのワクワクが伝わる。
「今日、会えるかって」
「うん、行きな行きなっ」
瑞樹は、行くことにした。
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